第五章 サイレントブルー&ヴァイオレンスレッド PART1
1.
「気がついたか?」
「ん……どうしたの?兄さん」
水樹は目を閉じたまま答えた。頭痛がひどく中々目を開けることができない。
「ずっと唸っていたんだ。それで心配になってな」
ゆっくりと自分の体を見回す。体中に汗を掻いており布団にまで染みができていた。冬場だというのに体が焼けるように熱い。
「……そっか。ありがとう、大丈夫だよ」
「大丈夫ならよかった」
火蓮は水樹の肩を擦った後、一階へと降りていった。
彼が兄でよかったと思いつつも、体を再び見つめると鍛え抜かれた両腕があった。
火蓮のベッドの上だ。赤いシーツにアメフトのDVD。いつもの火蓮の部屋だった。
……また移り変わってしまったのか。
大きく溜息をついた後、昨日の出来事を思い出す。
もしかして自分は本当に火蓮なのか、今朝見た夢はそうだとしかいえない内容だった。
不意に火蓮の机に興味が沸き、下から覗いてみた。そこには新渡戸稲造の五千円冊がガムテープで貼られていた。
……これはもしかすると海に行った時、くすねたお金なのか?
意識を集中しようとするが、頭痛に阻まれる。どうやら二日酔いのようだ。火蓮は昨日酒を浴びるほど飲んでいたから、その後遺症だろう。
頭を抑えながら階段を降りると、朝ご飯が用意されていた。前回と同様に見た目も良さそうだ。だが食欲は沸かない。
「体の具合が悪いんじゃないのか? もしそうなら病院に行って来たらどうだ」
病院という言葉が頭を反芻した。現実を押し付けられそうな単語だ。聞きたくもない。
「兄さん、それより――」
「ああ、わかってる」
火蓮は入れ替わったことを自分から言い出さなかった。それは今日、自分が文化祭の演奏を楽しみにしていたのを知っているからだろう。
「……わかってる。悪いが俺が文化祭に出るしかないな」
「ああ、よろしく頼むよ、兄さん」
笑顔を見せると、火蓮は静かに微笑んだ。その笑顔が本来のものだと思うと、嫉妬の炎に焼かれそうになる。
「それにしても大丈夫か?きつかったら病院で見て貰えよ」
「うん、大丈夫。兄さんが飲みすぎただけだと思う。せっかく兄さんの体に入れ替わったというのにお酒を味わう気にもなれない」
「悪い悪い。昨日は本当に飲みすぎてしまった」
いつもだよ、という言葉は止めておく。これ以上火蓮を止めておくわけにはいかない、これから彼はリハーサルを行なうためにホールに向かわなければならないだろう。
「今日は風花と文化祭を見に行くつもりだったが、最悪、家で寝ておいてくれ。俺の方からも連絡を入れておく」
今の状態では無理だろう。まして、自分の演奏姿などみたくない。
「わかった。なるべく、問題がないよう動くようにするよ」
火蓮が出て行った後、水樹の頭の中には様々な誘惑が浮かんでいた。二日酔いなのに酒が飲みたくてたまらない。それに煙草だって吸えるものなら吸い続けたい。
一番の誘惑はヴァイオリンだった。昨日見た夢は鮮明に覚えており、ヴァイオリンが弾きたくて堪らない。
ピアノを覗いてみると、昨日と同じ状態で置かれており壊れていなかった。凛とした表情で悠然と佇んでいるピアノを見て心が落ち着ていく。
昨日の夢は、やはり夢で間違いない。
……とりあえず水を飲もう。
一息つこうと冷蔵庫を開けると、ワインの残りが目に入った。思わず手がそちらに伸びてしまう。ここで飲んでしまったら後には戻れないと懸命に我慢する。
……後には戻れない? 何をいっているんだ、オレは。
今日の一日だけ火蓮なのだ。後はずっと水樹としての日常が待っている、今日くらい飲んでも問題はない。
……いいや、だめだ。
首を振って火蓮の好きな硬水を飲む。舌触りがよく少しだけ気持ちが落ち着く。今日は病院に行って確かめないといけないことがある、酒を飲んでる暇などない。
着替えた後、神山の病院に向かうことにした。もちろん普通の医者に見て貰ってもしょうがないからだ。彼に事故の話を聞かなければならない。
バスに乗り窓に映る自分の姿をじっと見つめた。自分の頭の中には二つの意識がある。冷静に水樹に戻ろうとする意識と興奮の中で火蓮に馴染もうとする意識だ。二つの意識は天秤の上でぐらぐらと今でも揺らいでいる。
水樹は目を閉じて誰かに縋るように祈りを捧げた。
どうか自分の勘違いであって欲しいと――。
どうか大切な人を奪わないで欲しいと――。




