第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART8
7.
「風花、わざわざ会いに来てくれたの? 嬉しいな」
水樹は風花を抱きしめてそのままソファーの上に倒した。
「ちょっと水樹、どうしたの? 嬉しいけど……今はちょっと困るかな」
「まったく……そういうことは俺がいない所でやってくれといっただろう」
「なんだ、兄さんいたのかい?」
「当たり前だ。俺がいなかったらどうやって風花は入るんだ」
「……それもそうか」
リビングのソファに戻ると、背の低いテーブルの上に缶ビールがあった。手に取ろうとすると風花に取り上げられた。
「いつの間にお酒が飲めるようになったの?」
「俺のせいじゃないぞ、いや、俺のせいかもしれない」
火蓮は風花に咎めなれながら弱ったような声を上げた。
「兄弟なんだ、それくらい大目に見てくれよ。風花も少し飲むか?」
「……そうしよっかな。水樹がこんなに酔っ払ってるのは珍しいし」
冷蔵庫から冷えたビールを取り出して、二人は乾杯した。
「最近、調子がいいんじゃないの?」
「そうだな……ナンパの調子ならすごぶるいい」
「そっちじゃないわよ」風花は呆れた顔をして溜息をついた。「仕事しかないでしょ。年末のコンサートが近づいてるのもあるんだろうけど、いやに張り切ってるじゃない」
「そういう言い方はやめてくれ。俺がいつも真面目にしてないみたいじゃないか」
「うーん……それは否定しないけどね」
「俺の仕事はみんなの音を纏めるだけだ」火蓮は缶ビールを傾けていう。「俺自身は音を出すことはできない。一人一人が最高の音を出すために俺は合図を出しているだけなんだ。だから俺が気負わないようにはいつもしている」
「ふうん、なるほどね」風花は賞賛の声を上げながら彼を囃し立てる。「さすが上に立つ人間はいうことが違うわね、見直しちゃった」
「冷やかしはやめてくれ」
「冷やかしじゃないよ。この間の火蓮は……本当に格好よかった」
風花はそういいながら、火蓮の方をはっきりと見た。「初めて火蓮に心を奪われちゃった。水樹がいる前でこんなことをいっていいのかわからないけど」
「……そいつはどうも」火蓮はグラスを大きく傾けて一気に飲んだ。「ところでいつ式を挙げるんだ? もうそろそろいい頃合だろう」
「まだ何も決まってないわよ。水樹は結婚したいっていってたの?」
「する意思はあるみたいだったぞ」
「……そっか」
「なんだ?嬉しくないのか」
「……もちろん嬉しいよ。でも、今はまだ、できそうにないかな……」
風花はそういいながら寝息を立て始めて横になった。
火蓮は彼女のために一枚の毛布を持ってきてそのまま被せた。立ったまま彼女の寝顔をじっくりと覗き込んでいる。
「早く、結婚してくれよ……じゃないと……」
「……兄さん。僕には毛布ないの?」
火蓮を見ると、目がうっすらと潤んでいるように見えた。
「なんだ、起きてたのか……なら二階で寝るんだな」
「風花はどうするの?」
「時間が時間だからな。向こうの家に連絡を入れてみる。出なければ布団を敷くしかないな」
火蓮は携帯を取り出して風花の家に掛けた。どうやら遥は起きているようで家に迎えに来るらしい。
「お前、いつ薬を飲んだんだ?」
「ごめん。練習がしたくて先に飲んでしまったよ」
「そうか。俺は今日、飲まないほうがいいんだろうな……」
「ごめん。兄さん、大丈夫? 動悸が来たりしない?」
「ああ、一日くらい大丈夫だろう。それに……明日は休みだからな。お前は明日公演だろう? だからお前に飲んで貰うつもりでいたんだ」
インターフォンが鳴った。どうやら遥が到着したらしい。
「やあ、火蓮君。いつも迷惑ばかり掛けてごめんね」
「いえいえ、俺が勧めたんです。申し訳ないことをしました」
「最近、うちでも飲むようになってるんだよ。何でも水樹君が飲むようになったから、自分も飲めるようになりたいってさ。普通父親にこんなこと話さないよね」そういって遥は爽やかな笑顔を見せる。
「そうですか。でももうちょっと練習した方がいいと思いますよ。グラス一杯で潰れましたから」
「それはいけないな」
遥の笑顔が苦笑に変わる。
「風花には特訓が必要だね。じゃあ連れて帰るよ。風花、帰るぞー」
風花はむにゃむにゃと独り言をいいながら、リビングで目を擦っている。
水樹は風花の背中を押して、玄関まで連れて行った。
「こんばんは、遥さん」
「こんばんは、水樹君。その調子じゃ大分飲んでるみたいだね」
「ええ、最近飲めるようになって、つい飲みすぎました」
「そっか。そりゃあ、いいことじゃないか。僕は全く飲めないからね、羨ましい」
「風花がお酒に弱いのは遥さんの血を受け継いでいるんですね」
「まあ、それもあるんだろうね。残念なことに」
遥はこめかみの辺りに指を突き立てた。
「音楽の仕事っていうのはやっぱり精神を使うんじゃないかな。たまにはお酒でも飲んで楽にならないといけないよね」
「僕がいえる立場ではないですけど、それはあると思います。根を詰め過ぎてもいいものはできません」
「そうだよね。風花、危ないぞ。ちゃんと座って靴を履かないと」
風花はふらふらしながら靴を履き、そのまま振り返って水樹の顔に手を当てた。
水樹はゆっくりと前方を指した。その方向を見て風花はすばやく手を離した。「あ、そっか。お父さんがいるんだった」
遥は怒る所か風花をはやしたてた。
「ん?お父さんがいない方がいいんだったら、先に帰ってもいいぞ」
「そんなんじゃないよっ」
遥は水樹の顔をじろじろと眺めながら続けた。
「風花はね、本当に君のピアノが好きらしい。僕がピアノを弾いている時は何もいわずにリビングから出て行くんだ。それに、もう一つだけ愚痴を聞いてくれよ。ファーストキスの話を嬉しそうに話す娘がこの世にはいるんだよ」
「お父さんっ」
「いいじゃないか。水樹君だから僕は認めているんだよ。確か観覧車だったと聞いているんだが、それは本当なのかな?」
水樹は申し訳なさそうに頷いた。「ええ、そうみたいです」
遥は嬉しそうにうんうんと頷き、さらに続けた。
「何でも火蓮君が四人で行こうと言い出したらしいね。火蓮君は観覧車が怖くて乗れないという嘘までついたらしいけど」
火蓮はにやにやしながら遥の顔を見た。
「ええ、そうなんです。でも嘘じゃないですよ。高い所が怖いのは本当なんです。あのガタガタという狭い箱の中に入ると思ったら正気ではいられないですね」
火蓮は真実とも嘘とも取れるような話し方でおどけた。
「そうなんだ。カイ(海)も君と同じように高い所が苦手だったんだ。そういう所も血の繋がりが関係しているのかな」
「もう、何の話をしてるのっ」風花は逃げるようにして玄関から飛び出していった。「じゃあね、水樹」
「まったく、少しくらい話をさせてくれてもいいのにね」
遥は彼女を追うようにして出て行く。「それじゃ、二人とも。またね」
遥を見送った後、水樹達はソファーに腰掛けた。火蓮は再びワイングラスに手を伸ばしている。
「兄さん、また飲むの?」
「ああ、もうちょっとだけ」
「僕はそろそろ寝るよ。明日はどうするの?」
「もちろん見にいくさ。美月も出るみたいだしな。あいつの調子を見に行くのも大事だ」
「もっと素直になればいいのに……」水樹は立ち上がった。「じゃあおやすみ」
そのまま2階に上がり部屋に入る。布団の上でごろごろと横になっていると突然意識が飛びそうになった。またあの時と同じ感覚だ。なんとか意識を保とうと眉間に皺を寄せる。
……もしかして。
不吉な予感が胸の辺りを覆う。もしかして火蓮は薬を飲んだのではないだろうか。それで再び眩暈が襲ってきているのでは……。
必死の抵抗も空しく意識の塊は夢の中に溶けていく。次にある意識は果たしてどっちになるのだろうか?
……考えたくない、自分が自分でなくなるのが怖い。
心臓が破裂しそうなくらい膨張する感覚を覚え、水樹の意識の線はぷつりと音を立てて消えた。




