第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART7
6.
再び目を開けると、水色のシーツの上にいた。入れ替わってないことを確認してほっと吐息をつく。
……いやに心地がいい。
おぼろげな記憶しかなかったが、今日見た夢はとても楽しかったような気がした。
火蓮の部屋を眺めてみる。どうやら彼はすでに出発しているようだ。テーブルの上にはまたしても朝食が載っており、水樹は感謝の意を表しながら朝食を平らげた。
……さあ、練習を始めよう。
いつもの椅子に座り込み体の訛りを取ることから始める。ここ数日は思うように練習ができていない。
鍵盤を叩いているうちに奇妙な感覚が襲う。指がもっとスピードを上げろというのだ。感覚的には今のテンポがベストだと感じているというのに。
これ以上スピードを上げると曲が纏まらずただ鍵盤を走らせるだけになってしまう。平静を保ちながら頭の中でリズムを刻む。いつもならそれで納まるはずなのだが、却ってリズムが狂い始めていく。
……感覚が狂ってきている。
いわれのない恐怖を抱く。何かが自分の感覚を狂わせていく。久しぶりにメトロノームを用いて感覚を制御しようと試みるが、それでおさまる様子はない。
……指揮を振るったせいだろう。
自分にはピアノしかないという概念が指揮を通して崩れてしまったのだ。ピアノ以外の音に初めて心を奪われたことが自分のリズムを乱しているに違いない。
……そうだ、昔のビデオを見よう。
こういう時は初心に返るのが一番だ。コンクールに出場したビデオを一瞥すると、気持ちが落ち着いていく。
中学生の自分がショパンの『雨だれのプレリュード』を演奏しているものだった。全体に渡って静かなメロディを奏でるこの曲は静謐な時間をもたらしてくれる。
……ん? これは何だろう?
楽譜を見ていると、奇妙な点があることに気づく。鉛筆でストーンウェイを扱うようなハーフペダルを示す記号が書かれてある。
……今までにストーンウェイを扱ったことはない。
もしかすると灯莉の楽譜かもしれない。彼女はストーンウェイしか弾かないことで有名だったからだ。
リビングに戻り再びビデオを見ても違和感を覚える。自分の記録のビデオテープが全て同じ種類なのだ。
……そんなことがあるわけがない。
幼児期から中学に掛けてのビデオテープが全て同じなんてありえるはずがない。
張られてあるテープにしても動揺に汚れが均一で時代の流れを感じることができない。この字は本当に母親が書いた字なのだろうか。
……駄目だ、こんなことでは集中なんてできない。
頭を振って気を取り直す。感覚が狂ってきているせいでナーバスになっているだけだろう。少しずつリズムを刻んでいくと、精神的に余裕が生まれていく。
だが心臓の鼓動音が反比例して上昇していき、自分を抑えられなくなっていく。
……ともかく鍵盤を叩き続けるしかない。
水樹は薬を飲んだ後、指の痛みに気づくまで貪るように練習に打ち込んだ。
練習の対価として腕が棒のようになったが、この疲れはいやではない。今までは時間を決めて練習していたが、こういった練習も必要だろう。何より満足感が違う。
ふいに煙草が吸いたくなった。火蓮の部屋に行き1本だけくすねて火を点ける。
……やはり苦い。
ごほごほと咳き込みながら煙草を離し灰皿に置く。それでも気持ちが落ち着いていく、体が煙を受け入れていくのがわかるのだ。
冷蔵庫から昨日の残りのワインを取り出し、一口だけ飲む。舌の上で転がすだけでも気持ちが落ち着いていく。ワインボトルが空になった時には意識が飛んでいた。
突然、チャイムの音が頭に響いた。
目を擦りながら辺りを見回すと、桃色のワンピースを着た風花が立っていた。




