第一章 青の静寂と赤の鼓動 PART1
1.
「兄さん、そろそろ起きないと遅刻するよ」
「まだ十一時じゃないか。後30分は寝れる」
「またそんなこといって。ほら、風花が先に来たよ」
インターホンが何度もこだましている。水樹は足早に階段を降りてドアを開けた。
「おはよう、水樹」
ドアを開けると、風花がにっこり微笑んでいた。先日、水樹がプレゼントした細身のワンピースを着ている。
「……火蓮はまだ寝ているの?」
「ああ、そうなんだ」水樹は顔だけで笑った。「兄さんが起きてこないから、まだご飯も食べていない。先に家の中に入ってくれない? すぐにコーヒーを淹れるよ」
風花は頷きながら小さくお邪魔しますと声を上げた。そのまま窓際にあるベージュ色のソファに座ってくつろいでいる。
ポーランドから実家に帰ってきて一週間が経とうとしていた。一年ぶりの日本での生活にすでに馴染んでおり、時差ボケも解消されている。
再び二階に上がり火蓮の部屋に入ると、赤いシーツの上で火蓮がごろごろと転がっていた。きっと二度寝に入ったに違いない。どこが立派な社会人になったのだろうと再び溜息をつく。
「兄さん、そろそろ起きてよ」
「ふへ、そうだな。後十分だけ……」
「まったく、早くしてよ。風花はもう来てるんだからね」
一階に降り、風花の席にコーヒーソーサーを並べその上にカップを置く。
「わざわざこんな準備をしなくてもいいのに。普通のでいいよ」
「……まあ、ゆっくりしててよ。兄さんもまだ時間が掛かるみたいだし。本人は立派な社会人になったつもりらしいけど、僕にはその変化がわからない」
風花は口に手を当てて微笑んだ。
「あたしの目から見ても何も変わってないわね。一年なんてあっという間だもの……」
彼女はコーヒーを一口飲んで、カップを持ったまま続ける。
「……水樹のコーヒーはやっぱり落ち着くね。帰ってきてくれてよかった。あのまま日本には帰ってこないと思ったから」
「必ず帰ると約束したじゃないか」
たじろぎながらも牽制すると、風花はぶるぶると首を振った。
「……だからこそ怖かったの。出発当日に打ち明けられる気持ちなんて、あなたにはわからないわよ」
風花はカップを置いて、ソファーの背もたれにぐいっと寄りかかった。火蓮が降りて来ないことに託けて、今のうちにたまりに溜まった鬱憤を吐き出すつもりらしい。
「あの時は本当にすまなかった。いうタイミングがわからなかったんだ。それでどんどん伸びていって……」
「……ほんと、タイミングがいいのはピアノの入り方だけよね」
返す言葉が見つからない。ケトルを握ったまま、背筋を伸ばすことしかできない。
そのまま沈黙を貫いていると、風花は笑顔を見せて呟いた。
「でもね、もういいの。水樹がちゃんと帰って来てくれたからね、それだけで嬉しい。賞を取った時の約束覚えてる?」
……え? 何のこと?
そう口にしたかったが、心の中で言葉を丸め込む。入賞を果たした時には結婚しようと誓ったのだ。
ショパンコンクールのレベルの高さをわかっているからこそ、できた約束だった。どうせとれる筈がないとたかをくくっていた。しかし一位をとって凱旋帰国してしまったのだから、断る理由はない。
「……ああ、覚えてるよ。もちろん約束は守る。でもまだ早いんじゃないかな。僕達はまだ――」
「まだじゃないわよ。もう結婚ができる年齢はとっくに過ぎてるわ」風花は席を立って水樹の唇を指で塞いだ。「あたしはずっと待ってたんだから、そろそろ決めてくれないとこのまま首を絞めちゃうかもよ」
風花はそのまま水樹の首筋に手を掛けて首を絞めるポーズをとった。指の感触からいって、返答次第ではこのまま本当に絞められる恐れがある。
「おいおい、冗談は止めてくれ。う、眩暈がする……」
「え?ちょっと、大丈夫?」
「ああ、時差ボケかもしれない」
笑顔で答えると、彼女はがっくりと肩を落とした。
「はぁ、何いってるのよ……。そんなに結婚したくないの?」
「したくないわけじゃない。時期の問題だよ。風花だって仕事があるし、結婚するとなったら子供のことも考えないといけないだろう? まだ定職についているわけじゃないし、それからでも遅くはないと思うよ」
「まあ、そうだけど……」彼女は自分の腰の辺りで親指を擦り合わせた。緊張した時にする癖だ。「…………そっか。そうかもしれないね。水樹がそういうのなら、もうちょっと待とうかな」
「そうだよ。風花は何人の子供が欲しい?」
「あたしは一人でいいわ。男の子がいい」
「意外だね、女の子がいいと思ってた」
「だって女の子が生まれてきたら、あたしのことをライバルとして見るかもしれないでしょ。それが二人も生まれてきたと考えただけでも…………大変だわ」
水樹は大袈裟に笑った。「そんなことになるわけないよ。変な所で心配症だなぁ」
「いーや、わからないわ。水樹はころっと女の子を騙しちゃうくせがあるからね。ポーランドでも何人の女の子をくどいてきたのかわかってないもの」
「浮気なんてするわけがない。気にし過ぎだよ」
唇に口づけをしても、風花は納得がいかないようだ。眉間に皺が寄っている。
「だってこれだけ有名になったのよ、心配にならない方がおかしいわ。それに水樹は格好がいいから、これから女性のファンが増えるわよ」
「これからどうなったって風花だけだよ」
「じゃあ、そういうんならさ……」風花はくるりと背を向けて、ピアノに指を差した。「……あたしだけのために一曲弾いてよ」
「弾かせて頂きますよ、お姫様。どんな曲名をお望みで?」
笑顔で答えると、風花は頬を膨らませて腕を組み始めた。
「……またそうやって訊く。何でもいいよ、水樹のピアノなら」
彼女が何でもいいという時は何でもよくないということだ。頭を捻り考えた結果、穏やかなメロディを奏でる曲にした。
ピアノ協奏曲『第一番』第二楽章
協奏曲でありながら前面に渡って奏でられるピアノはソロでも充分に魅力が伝わる曲になっている。ショパンコンクールの本選で弾いた曲でもあり、風花にとっても馴染みがある曲だった。
ハーブのように柔らかい音色をぽろん、ぽろんと奏でると、部屋の中が静謐な森のように穏やかな空気に包まれていった。ピアノの前で彼女と再び口づけを交わしていると、後ろでにやにやしている火蓮の姿が見えた。
「覗きとは趣味がよくないね。兄さん」
「悪い悪い。代えのシャツを探していたら、うっかり見えてしまってね」
火蓮は手刀を切りながらワイシャツに袖を通している。背中に残っている傷跡がちらりと姿を見せたが、すぐにワイシャツが覆いかぶさった。
風花の方を覗くと、機嫌はさらに悪くなったように見えた。じっとりした瞳が物語っている。
「……もう終わりなの?意気地なし」
彼女は水樹から離れると、そのままソファーに腰掛け余ったコーヒーを静かに啜った。
……一年分のツケはまだ、まだ払い切れそうにない。
彼はぬるくなったコーヒーを飲みながら肩を竦めた。