第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART6
6.
家に帰りつくと、火蓮がソファの上でぐったりと横たわっていた。熱でもあるのかなと駆け寄ってみると、ただ酒に飲まれているだけだった。
テーブルの上には空のワインボトルがあった。2本目も半分くらいなくなっている。
「……兄さん、飲みすぎだよ」
「いいじゃないか、昨日は飲めなかったんだ。お前も一杯やるか?」
火蓮は立ち上がって、どんよりとした手つきでグラスにワインを注いだ。
「また人格が入れ替わるかもしれないじゃないか」
「ならねえよ、薬を飲まなければいいんだ」
「じゃあいつ薬を飲むの?」
「……うるさいやつだな」
火蓮はぐいっとグラスを傾けた。
「もういいじゃねえか、俺の人格が一回そっちにいったんだ。ワインだって旨く感じるんじゃないのか」
何がいいんだと突っ込みたかったが、ワインのいい香りが水樹の脳を刺激した。
「うん、美味しそうな香りがする」
「そうだろう? 一杯だけでも付き合えよ」
勢いに任せてグラスを傾けると、仄かなワインの香りが脳を刺激した。
「……お前、風花と結婚する気はあるのか」
「うん、するつもりはあるよ。だけど、僕達はまだ25だ。今すぐしなくてもいいと思ってる」
「そうか……」
火蓮は冷えた目でグラスを覗き込んでいた。そのままワインの中に溶け込みそうな表情だった。
「お前の結婚式には俺がオーケストラを引き連れて演奏してやるからな」
「そんな馬鹿な。どこの貴族だよ」
そういうと火蓮はがははと大きく笑った。
「兄さんこそどうなの? 結婚しないの?」
「俺はお前と違って女に余裕があるからな。まだ一人に縛られたくない」
「美月とは付き合ってないの?」
「まさか。付き合ってないよ」
「もしかして美月とうまくいかなかったから、フランス留学を止めたの?」
「そんなことがあるわけない」
火蓮は大きく腹を抱えながら笑った。
「あれは俺にしても勇気のいる決断だったんだ。それなのに色恋沙汰で止めるわけがない」
火蓮のフランスに留学する目的はブザンソン国際指揮者コンクールに出場することだった。このコンクールは若手指揮者の登竜門とも呼ばれており、彼にとって魅力的なコンクールの一つだった。日本指揮者が多数優勝している部門で、父の海もこのコンクールに出場しており優勝していた。
美月も大学卒業後、二年間フランスに留学しロン=ティボー国際コンクールに向けて励んでいた。もちろんそれだけではなく近隣国のコンクールにほとんど出場し、数多くの入賞を果たしている。
二人はフランスで再会することを夢見ていた。それを火蓮は急遽変更したのだ。
「じゃあそろそろ理由を教えてくれよ。あの時は何も教えてくれなくて、兄さんにどう対応していいかわからなかったんだ。小さい頃からの夢だったじゃないか。父さんの道を歩むことは」
小学校の時にタイムマシンと称して学校に埋めた作文の中に火蓮は父さんと同じ道を歩み、さらにそれを越す指揮者になりたいと書いてあった。
運命は自分の力で切り開く。力強い字だった。
「あの時は必死だったんだよ。俺だって何が正しいかなんてわからなかった。小さい頃の夢だったが、それはそれだ。父さんは運よく優勝できたから、他の劇団からオファーがあったんだ。俺はその博打が打てなかった。それだけさ」
火蓮は一つ咳をし、はっきりとした言葉で話し始めた。
「確かに上を目指すものとしてはコンクールに出場した方がいい。だけどな、仕事をしながら指揮を振った方が断然力は身につくんだ。観客が目に見えるからな。お前だってポーランドではバイトしながらだったんだろ?」
「うん、そうだね。お客さんによってどんな演奏が好みだとか、自分の中じゃわからないことをたくさん教えて貰った」
火蓮は勢いよく頷いて続けた。
「まさにそれだ。俺だって楽譜どおりの勉強をやるよりも、現場で学ぶことの方が多いと思ったから日本に残ったんだ。留学すれば音楽に対する知識は増えるかもしれないが所詮それだけだ。その後がない。優勝しなければ働き口はないし、第一コンクールで入賞を果たしたからといって客の心はわからない」
納得できる話だった。現場主義の彼なら全うなやり方だ。
「なるほどね、そういうことだったんだ。一年間ポーランドで過ごした僕には耳が痛いけどね」
自分の立場に置き換えてみる。ショパンコンクールでは優勝を果たしたが、演奏の仕事は思ったよりも少なかった。約束された定期公演だけで後は取材などの演奏とは別の仕事が入ってくるだけだったのだ。
もちろん海外からの仕事のオファーも数件入ってきていたが、日本に身を置くと宣言したのでこれを了承する気はない。
「じゃあ兄さんはなんで百獣の王の指揮者になったのさ? やっぱりそこが一番勉強になると思ったから?」
火蓮はかぶりを振った。
「いーや、それはまた別だ。この不況の中で仕事は選べなかった。ともかく指揮が振れる所を探していたらあそこになったってだけだ」
「風花が聞いたら怒るよ、それ」
「間違いない。黙っておいてくれ」
そういうと、火蓮は再びがははと笑った。
「劇を見に行った記憶はないが、毎年見に行っていたんだ。思い入れがないとはいわないよ」
「そうだよね」
水樹は大きく頷いた。
「徐々に記憶も戻って来ているし、そのうち全部わかるようになるかしれないね。劇団を見に行った記憶だって蘇るかもしれない」
「……ああ。そうなればいいな……」
火蓮は独り言を呟くように細い声で漏らした。その瞳は深く憂いを帯びていた。




