第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART5
5.
火蓮に場所を聞くのを忘れていた。当日券を買ったのだから、二等席だろう。二等席は確か二階のはず。
「二階だよ」
「二階のどこ?」
彼女を覗くと言葉に詰まる。緋色に染まっていた瞳がさらに深みを増している。
「もしかして……一階で見てたんじゃない?」
「何でそう思ったの?」
「水樹が……もっと近くにいると思ったの」
心臓が大きくバウンドする。確かに彼女のいう通り、指揮台の上に立っていたのだから一階にいたといっても過言じゃない。
「こんな回りくどい言い方をして、指揮をしている火蓮がね、水樹に見えたの」
全身が凍りつくように固まる。やはり風花は何かに気づいている。その正体は今の所まだわかっていないようだ。
「ごめんね、こんなこといって……気にしないで」
苦笑いしている風花の横顔が映った。
「昨日のミュージカルは何か違ったの?」
「うん、いつもより火蓮に感情が籠もってたの。いや、そうじゃないなぁ」風花は一つの間を持って答えた。「いつも以上に心を奪われる指揮だったの。火蓮の姿を見ているだけで息が止まりそうだった」
何もいうことができない。事実、その通りだったからだ。コーラスに絡まる打楽器、木管楽器、弦楽器、全てが新鮮だった。目を閉じれば振動音が今にも聴こえてきそうだ。
「正直に答えてくれてありがとう。こりゃ最悪、三角関係になるかもしれないな」おどけるようにいう。「今のうちに兄さんに釘を打っておかないと。大変なことになるかもしれない」
「……ならない」
風花は強くいった。
「なんでそういえるの?」
「水樹以外を好きになるわけないじゃない」
「それはわからないよ」
「……わかるもん」
もし中身が入れ替わっても? といいたかったが、水樹は止めて話題を変えた。
「ポーランドに行く時に結婚の約束をしたよね、なんであの時に決めたの?」
「……あのまま離れたら、もう二度と会えないと思ったから」
「帰ってくるっていったじゃないか」
「それは帰ってくるっていうだけで、本心はわからないでしょ」
そういって彼女は我に返ったように顔を真っ赤にさせて、慌てて言葉を並べ立てた。
「もしかしたらさ、他の女の人、連れて帰って来るかもしれないじゃん。綺麗な外人さんとかさ」
「そんなことしないよ」
「いーや、水樹はわからないからね。自分よりうまいピアニストがいたら声掛けるでしょ?」
「そりゃ当たり前だ」
「じゃあ、それが女の人だったら、水樹のことを好きになるかもしれないでしょ」
「……ならない」
「なんで言い切れるの?」
「風花に怒られるのが怖いから」
「はぁ……もう一回、記憶飛ばしてあげようか?」風花は思いっきり首を絞めてきた。
「すいません、冗談でもいいません」
「よろしい」
風花は手の力を抜いてそのまま体を寄せてきた。
「まったく、どれだけ心配してたと思ってるの。一年の埋め合わせは一日じゃできないんだからね。一生償ってよ」
「ごめんごめん、僕が悪かった」
謝りながら唇を重ね合わせる。
「……もう一回して」
「後、一回でいいの?」
「私の気の済むまでしてくれる?」
「うん。帰りのバスの時間までで済むならね」
再び口づけをする。いつの間にか激しい熱の奪い合いを始めるように絡み付いていく。彼女の体温が自分の中に伝わっていく。
……彼女以外を好きになるわけないじゃないか。
水樹はもう一度、彼女のぬくもりを確かめた。胸に残る記憶が幻ではないと告げている。
……もう絶対に離したりはしない。
心の中で誓いながら、彼女に再び口づけをした。