第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART1
1.
眩しい光に眠りを妨げられ、水樹は目を覚ました。腕を伸ばして目で確認すると、昨日のような筋肉質な腕ではなく細い華奢な腕に変わっていた。
確認のためにシーツを眺めてみる。いつもの水色だ。それを見て安堵の吐息が漏れる。
どうやら間違いなく水樹に戻れたらしい。
一階の洗面所から歯を磨いている音が聞こえている。大抵昼ぐらいに起きてくる火蓮も今日に限っては早起きなようだ。
「おはよう。昨日はよく眠れたか?」
「うん、おかげ様で」
火蓮は歯磨き粉で口の周りに白い髭を作っていた。いつものことなのに、その姿を見るとほっとする。
「朝一番に兄さんのゴツゴツした腕を見なくてよかったよ」
「ああ、俺もだ」彼はにやりと笑いながらいった。「艶々のロングじゃなくて本当に安心したよ。おかげで煙草もワインも楽しめる」
そういって火蓮は口をゆすぎ始めた。昨日のように蛇口からはピアノの音符は聞こえてこない。
テーブルの上に数種類の朝食が並べてあった。水樹は怪訝な顔で火蓮を見た。
「これは……誰が作ったの?」
「俺が作らなかったら誰が作るんだよ」火蓮は鼻の下を擦りながらいった。「やってみようと思ったらできたんだ、凄いだろう」
目玉焼きに野菜サラダ、ホットケーキがきちんとした配色で並べてある。見た目も綺麗にできており、美味しそうな香りがリビングに漂っていた。もちろん火蓮が朝食を作った所なんて今までに一度も見たことがない。
ホットケーキをフォークで刻み一口ほおばってみる。卵の分量も丁度よくふっくらした食感を味わうことができる。
「美味しい。どこで覚えたの、風花に教えて貰ったの?」
「どこでって、お前の体からだよ」
あやうくホットケーキが飛び出しそうになる。今の発言は勘違いされる類だろう。うっかり道端でこんな会話をしたら、主婦達の話題にされかねない。
「兄さん、言い方を考えて。室内だからいいけど、外ではまずいよ」
「何がまずいんだ? ホットケーキか?」火蓮は意味がわかっておらずきょとんとしている。
「ホットケーキは美味しいっていったでしょ。そうじゃなくて、他人に聞かれたまずい発言は止めてくれってこと」
「別にいいじゃないか、それくらい」火蓮はそういいながら呑気にフライパンを洗い始めている。
溜息をつきながら目玉焼きを口に運ぶ。本当に美味しい。自分が作る朝食より美味しく感じるくらいにだ。
どこかで読んだ料理本の記憶が蘇る。いつもの味付けの分量を少しだけ変えると、新鮮になり美味しくなると書いてあったのだ。今食べている料理がまさしくそれだ。
女性の味付け、特に母親の味付けに飽きないのはそのせいだという。感覚を少しずらすことで味覚がうまく反応するらしい。
「旨いだろう? 俺も自分でびっくりしたよ」火蓮はふふんと鼻歌を歌いながら上機嫌で皿を洗っている。
「うん、本当に美味しい。僕の味付けじゃなくてちょっとずれている所がいいんだと思う」
火蓮は口をへの字にして水樹を見た。「何をいってるのかよくわからんが……。まあ、うまいのならよかった」
朝食を食べ終わった所で時計を見ると10時を差していた。午前中には病院の診察を終えておかなければならない。
もちろん風花に締め上げられないためにだ。
「兄さん、そろそろ準備をした方が。午前中までに行かないと怒られるよ」
「……誰に怒られるんだ?」火蓮はにやりと微笑んでいる。
「先生に決まってるじゃないか」
口を尖らせていう。
「兄さんは行ってないからわからないかもしれないけど、神山先生は人気があっていつも予約で一杯なんだよ。午前中で診断が終わらなくなる」
「そうか、お前は午後から用があるんだな。彼女さんと」
どうやらタクシーでの話を聞かれていたらしい。
「そうだよ、だから早めに終わらせないと、もう一度病院に通わないといけなくなる」
「……それはまずいな。急ごうか。先生も俺の顔を忘れていなければいいが」
「忘れるはずがない。兄さんの話題は尽きないんだから」
……もうこの検診も10年になるのか。
事故前後の記憶を思い返す。自分達は事故から半年に一度は定期健診に行っている、それは医者が通常通りに推薦するものではなく神山が配慮してくれているものだった。
神山は事故に遭ってから水樹達の境遇に同情し、力になってくれた。両親の残した保険金で生活することはできたが、音楽大学に入ることは叶わなかった。その資金の工面をしてくれたのも神山だった。
「先生と会うのは一年ぶりだなあ、元気にしてるかな」
「美月の話では特に変わった様子はなかったみたいだけどな」
「……そう。彼女とはまめに連絡をとっていたんだね」
火蓮は意味がわからないといった顔をしたが、その後顔を真っ赤にして押し黙った。
美月は水樹と同様にコンクールの遠征で海外にいたため、彼女から話を聞くためには自ら連絡しなければならない。
彼女とは不仲になっていなかったのだなと思い安堵した。