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長編小説 2 『魂のクオリア』  作者: くさなぎそうし
第三章 藍の静寂と茜の鼓動
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第三章 藍の静寂と茜の鼓動 PART2

   2.


「兄さん、体の調子はどう? 薬もちゃんと飲んでる?」


「当たり前だ。お前こそ大丈夫なのか?」


「うん、大丈夫。兄さんも充実しているみたいでよかった。安心したよ」


 水樹はほっと胸を撫で下ろし、彼を見た。たった一年離れていただけなのに、何もかもが懐かしく感じられる。


「水樹、イギリスのミュージカルは凄かったぞ」


火蓮は目を輝かせながら煙草の封を切った。

「やっぱり本場は違った。向こうでは一つの舞台だけのために一つの建物があるんだぜ。舞台には螺旋階段があるし、楽器の配置も全く違う。打楽器は二階で一人で演奏していたり、各パートが独立している感じだった。ともかく、びっくりさせられっぱなしだったよ」


 火蓮は劇団でオーケストラの指揮を執っており、その勉強と称してイギリスに単身で行ったらしい。そのついでに自分の留学先・ポーランドのワルシャワに立ち寄ってくれたのだ。


「そっか、劇団を選んで正解だったね。フランス留学する予定だったのに、なぜ突然変更したの?」


「今のお前にはまだ話せないな。ショパンコンクールのことだけを考えればいい。それよりもお前、風花のことは心配じゃないのか?」


「まさか。別に心配にはならないよ。何より兄さんが近くにいるじゃないか」


「……俺が奪っちゃうかもしれないぜ?」


 火蓮の剣呑な目つきにたじろぐが、そんな心配はしたことがない。


「兄さんはそんなことしないよ。だから安心して任せられるの」


 そういうと、火蓮は前のめりになっていた体を戻して小さく溜息をついた。


「……なんだ、面白くない。少しは心配しろよ」


「それよりも僕は風花の演奏の方がよっぽど心配だ。調子はどう?」


「……そっちの心配かよ」火蓮の腕が椅子から滑り落ちる。「まあ、確かにお前がこっちに来てから演奏の幅は狭くなったよ」


 ……やっぱり。


 風花のことを考えると胸が痛む。ポーランドに来ることは火蓮には前もって知らせていたのだが、風花には事前に話しただけだった。彼女は精神的に弱いため、タイミングを考えていると、ずるずると先延ばしになりいつの間にか出発当日になっていた。


 彼女に話した時、公演がなかったことが唯一の救いだった。もちろん思いっきり泣かれ、逃げるようにして日本を出ることになったのだが、それは自分の責任だ。


「きっちりと演奏はしているが、それだけだ。機械的な音色になっていたよ。しばらく風花の素晴らしい高音は拝むことができなかった」


「……そうだろうね。風花には本当に申し訳ないことをした。あの時は本当にどうしたらいいかわからなかったんだ」


「……仕方ないさ。急に決まったことなんだからな」


 一年前の出来事を思い出す。

 事の発端は大学のピアノ講師・川口だった。彼がこっそりとショパンコンクールに応募していたため、無計画な海外留学をするはめになったのだ。


 ショパンコンクールは5年に一度しかない。さらにいえば、28歳以下という規定がある。水樹は今年で25歳、この機を逃せば後はなかったのだ。川口の説得を受け、水樹はポーランドに向かった。審査を受理してくれた母の師でもあるジェヴェンツキの近くで宿を取り、毎日練習に励んだ。


 一次予選、二次予選を突破し、今日で三次予選の演奏を終えた。明日にはその結果が迫っており、受かればついに本選の切符が手に入るのだ。今までの練習は自分の持てる力を全て賭けたといってもいい。


「髪が伸びると、やっぱり母さんに似てくるな。女装した方が売れるかもしれないぜ?」


 そういって火蓮は水樹の髪をくしゃくしゃに乱した。


「ん、何かついてるぞ?何だこの粘土みたいなのは」


「…あ、それ。ワックスだよ」水樹は髪を掻き上げて答えた。「公演で汗をたくさん掻いたから溶けてきたんだ。急いでここに来たから髪を洗うこともできなかったんだよ」


「そうか、そりゃ失礼」 


「兄さんはさ、僕に女になれっていうためにわざわざこんな遠い所まで来たの?」


「…まさか。本題があるに決まっているだろう」


「そうだよね。兄さんみたいな合理主義者が、ざわざ演奏を聞くために来るとは思ってなかったよ」


「なかなか辛辣なことをいうようになったじゃないか。話が早くて助かるが」


「兄弟だからわかるんだよ」


 火蓮は間を置いて、大きく空咳をした。そして水樹の目を見て勿体ぶりながらも声のトーンを落とした。


「実はな。一つ大きな仕事が入ったんだ。全日本交響楽団のオーケストラの指揮だ。曲はショパンのピアノ協奏曲『第一番』だそうだ」


「え? それって……もしかして……」


「そう、つまり俺達が夢描いてきたものが現実になったということだ」


 水樹の心臓は喉元まで飛び出ていた。 


「凄い、本当に夢が叶うんだ……」高鳴る心臓を押さえながら呟く。「ショパン生誕200年記念コンサートで指揮をするっていうことだよね?兄さんがあの場で指揮を振るなんて、本当に夢みたいだ」


 新米の指揮者にそんな大仕事が来ることは在り得ない。それは火蓮の才能が認められたということだ。

 だが――。


「ありがとう。俺はもちろんこの仕事を請け負うつもりだ。例え父さんの力が働いていたとしても……な」


 水樹の頭にもその考えはあった。父親の名があるからこそ、その仕事は舞い込んできたのだろうと思ったが、口には出せなかった。


 水樹達の父親は全日本交響楽団の名誉常任指揮者という肩書きを持っている。ショパン190年生誕記念で指揮を振ったのが父の観音寺海だ。もちろん今でも生きていれば指揮が振れる年齢だが、事故で帰らぬ人になってしまった。


「確かにそうかもしれない。それにしても、そんな大事な指揮を任せるということは兄さんの実力を評価しているからだよ」


「まあ、この仕事を引き受ければ罵声を浴びることは必須だがな」


火蓮は照れ隠しなのか無表情でいう。

「だが俺は父さんの意志を引き継ぎたい。父さんの思いを継いで、指揮台の上に立ちたいんだ」


 火蓮の言葉に胸がざわついていく。なぜ自分には指揮棒が振れないのだろうという思いが込み上げてゆく。


 理不尽なのはわかっている。自分にはピアノの才能しかないこともわかっている。父親の意志を引き継げるのは火蓮だけだということも―――。


 それなのに、どうしてこんな感情を覚えてしまうのだろう。


「兄さんなら大丈夫だ。羨ましいよ」


「俺だってお前が羨ましいさ。俺には母さんのようにピアノは弾けないからな」


 母親・観音寺灯莉かんのんじ あかりはショパンコンクール第二位の成績を収めた優秀なピアニストだった。その実力を引き継ぐために自分はここにいる。


「話を戻そう。オケのメンバーは3名までなら俺が決めていいそうだ。今回は特例でそれが認められたらしい。やはり俺が若すぎるからだろう」


 火蓮は口元を緩めていった。


「いきなり指揮者だけを放り込んでも演奏がうまくいかないと思ったんだろうな。最悪、他のメンバーからボイコットされるかもしれないと考えたんだろう」


 歴史ある全日本交響楽団に若手の指揮者が入ったら間違いなく反発は起きるだろう。それは最悪、演奏中止ということにもなりうる。


「なるほど。それで誰を選ぶんだい?」


「人選はすでに決まっている」


火蓮は口元を緩ませたまま続けた。

「第一候補はお前だ」


「冗談だろう? 僕はまだピアニストじゃない。コンクールを受けているだけの僕が演奏していいはずがないよ」


「まあ、今の段階ではな。だが今回の演奏を聴いたことで確信した」


火蓮はドンとテーブルの上に両手を叩き付けた。

「今回のコンチェルトにはやっぱりお前が必要だ。今回演奏する曲で一番大事なのは静寂さだ。お前も知ってるだろうが、第三楽章まで持たせるためには場面を変える力がいる。お前の空間を入れ替えるようなピアノのメロディが確実に必要になるんだ。だからお前を日本に連れ戻しに来た」


「と、とりあえず落ち着いてくれ。兄さん。そんなこと、いきなりいわれてもすぐに返事はできない。もちろん……やりたい気持ちはあるけどさ」


 火蓮はそのままテーブルの上に頭を下げた。


「どうか頼む。一緒に来てくれ。演奏に使うピアノはウミハだ。お前が好きなピアノで思う存分演奏ができる。これだけは確実だ」


 ……そんなことをいわれても。


 今すぐに火蓮に返事ができる心境ではない。明日には審査の結果が出るからだ。

 水樹が黙っていると、火蓮は畳み掛けるように続けた。


「明日の審査で受かれば、本選で協奏曲を演奏することになるんだろう? どっちを弾くつもりだ」


「もちろん『第一番』の方だよ」


 やっぱりな、と火蓮は嬉しそうに頷いた。


「そうだと思った。じゃあ問題ないじゃないか。本選が予行演習というのは中々贅沢だぞ」


「そうはいってもさ……」


 ショパンコンクールの本選では、オーケストラを率いての協奏曲となる。ショパン自身が協奏曲を生涯に置いて二つしか作っておらず、演奏者はどちらかを選択しなければならない。そしてほとんどは『第一番』を演奏することになる。『第一番』の方が難易度が高く曲のメリハリがあり、コンクール向きだからだ。


「ところで兄さん、他の二名は誰をいれるつもりなんだい?」


「楽器はフルートにバイオリンといっている。それはもちろん風花、美月を入れるつもりだからだ」


「ということはコンマスは美月が?」


「ああ、そのつもりだ」

 コンマスというのはコンサートマスターの略称で第一ヴァイオリン主席を表す。指揮者と同様に音の調律をする第二の指揮者というポジションだ。


「美月になら任せられるね。彼女のテンポは機械よりも正確だから」


「お前もそう思うか。やはり美月にお願いしよう」火蓮は頷きながらワインを口に含んだ。「それにあいつがいれば他の演奏者は俺達についてくるしかないからな」


「そうだね。指揮者とコンマスが手を組んでいれば最悪のことにはならないと思うよ」


「そうだろう、後はお前が入ってくれれば完璧なんだがな」火蓮はそういって次のワインを頼もうとした。


「兄さん、ちょっと飲みすぎだよ」


「大丈夫だ、しばらくこっちにいるつもりだからな。明日も特に予定はない」


 どうやら本当に帰る気はないらしい。


「お前が決めてくれるまで帰るつもりはないよ」

 


 結局、火蓮は酔いつぶれホテルに送ることになり、水樹は一緒の部屋に入った。


「兄さん、ついたよ」


 部屋のベッドまで火蓮を引っ張りドアを閉める。彼はそのままベッドに倒れ込み、むにゃむにゃと独り言を呟いている。


 部屋はダブルベッドで、急遽とったものにしてはいい部屋だった。天井は低いが、冷蔵庫がちゃんと置いてありバスタブもある。


「あ、薬」


 食後の薬を飲んでいないことに気づく。自分の部屋にあるが、今は持っていない。


 悩んだ挙句、火蓮のバックを漁ることにした。彼のバックにはおそらく同じ薬が入っているはずだ。


 薬を探し当て錠剤を二つ取り出す。冷蔵庫を開けると、封が切れていないミネラルウォーターがあった。早速取り出して火蓮に促して飲ませる。そのまま水樹も一緒に薬を含み水で流した。


 ……やっぱりまずい。


 顔をしかめながらボトルを見ると、硬水だった。ポーランドで市販されている水のほとんどが硬水で、自分の舌には合わない。一口だけ飲んで封をする。


 突如、頭がフラフラしてきた。立っていることが難しく足がおぼついてしまう。きっと久しぶりにアルコールを摂取したからだろう。


 ……少しだけ休憩していこうかな。

 スーツのジャケットを脱いだ後、水樹はそのまま瞼を閉じて布団の中で体を丸めることにした。 

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