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長編小説 2 『魂のクオリア』  作者: くさなぎそうし
第三章 藍の静寂と茜の鼓動
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第三章 藍の静寂と茜の鼓動 PART1

  0.


 中心を見据え、席についた。


 胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめる。


 大丈夫、今日も心を鍵盤に委ねればいい。


 目を閉じて、鼻から小さく息を吸い込んだ。


 今からここを深海に変えてみせる。会場にいる審査員を含めた全ての人間を、海の底に引きずり込んでみせよう。


 水樹は鍵盤をそっと撫でるように触れた。



  1.


 火蓮はいつの間にか席を立っていた。


 ホール全体が水樹の演奏を讃えるように、地響きのような拍手で鳴り響いている。自分自身も無意識のうちに拍手を贈っていた。それだけ素晴らしい演奏だったということだろう。


 前列を陣取っている審査員を一瞥する。今回の審査員は誰をとっても歴史に名を残す著名人ばかりだ。ほとんどがポーランド人だったが、どれをとってももショパンにゆかりのある人物が揃っている。この中で演奏を行うこと自体が名誉のあることだな、と火蓮は嫉妬を感じ唇を噛んだ。悔しいが彼の演奏は認めざる負えない。


 水樹のピアノは恐ろしくなる程の静寂を作り出していく。研ぎ澄まされた純水の中に全身が浸かっていくようなものだ。何もない沈黙が時に最高の音楽になることを彼は知っている。


 そしてまた彼は要となるアクセントを忘れない。ピアノの音が単調にならないように緩急をつけ、耳が慣れすぎないように微妙な強弱を打ち込んでくるのだ。絶妙なバランスでアクセントとなるメロディを吹き込み、さらに深い海の底に引きずり込もうとする。


 それがまた、たまらなく心地いい。


 演奏が終わっても、観客達は穏やかな表情のまま拍手を贈っていた。このホールにいる中で深海に飲み込まれていないものはいないだろう。審査員も含めてだ。


 今回はショパン国際コンクール予選の三次審査だ。この審査に通れば、いよいよ本選が待っている。


 ……審査をするまでもない。


 この場は水樹のための一人舞台のようなものだ。彼の次に弾く人物が持てる力を発揮したとしても、今回の演奏に掻き消されるに違いない。それくらい魔力を持った演奏だった。


 次の人物の紹介が始まったが、火蓮はそのまま席から立ち去ることにした。これ以上ここにいても仕方がないと思ったからだ。音が立たないように扉をそっと開き、水樹の元に向かうことにした。



 外に出ると、水樹が何度も光を浴びながらインタビューを受けていた。彼は戸惑いながらも拙い英語で話している。日本人の記者もたくさんいるが、現地の記者に飲まれ入り込めていない様子だった。


 この様子ならしばらく時間が掛かるだろう。時間を潰すため、煙草が吸える場所を探すことにした。


 辺りを見回していると、水樹が大股でこちらに近づいてきた。どうやら自分に気づいたらしい。取材陣を振りほどきながら悠々と手を振っている。


「兄さん、来てくれたんだね」


 彼は火蓮の手を大きく掴みながらいった。


「……近くに寄っていたものでね。そのついでだ」


 演奏が聞きたかったとは恥ずかしくていえない。


「イギリスに行っていたんだ、本場のミュージカルを見に行っていた」


 水樹は合点がいったように頷いた。


「そっか、わざわざ来てくれてありがとう。来るなら来ると行ってくれたらよかったのに。いつ来たの?」


「昨日の夜、来たばかりだ。ポーランドは初めてだが、いい所だな」


 火蓮が微笑むと水樹はにっこりと笑った。


「そうでしょ。こんなに静かで気持ちがいい街は中々ないよ」


 自分達の後ろで現地の記者がぶつぶつと文句をいっている。水樹が急に席を外したからだろう。だが自分には関係ないことだ。

 構わず火蓮は話を続けた。


「今日の演奏は全て聞かせてもらった。本当に素晴しかった。本選出場は間違いないだろうな。このままいけば、日本人で初めての優勝者が出るんじゃないのか。母さんの念願だった一位が……」


「それは買いかぶり過ぎだよ。僕はまだショパンに弾かされているだけだ。自分のものにできていないよ」


「そうかな? お前以上にショパンを弾ける奴はいないと思うけどな。お前のピアノを聞いていると、すっーと意識が遠のいて、海の底に引き込まれているようだった」


「うんうん、僕も海をイメージしながら弾いていたよ。父さんの好きな海をね」水樹はくすくすと笑いながらいった。「コンサートホールごと、水に浸けてやろうと思って演奏したんだ」


「そうだと思った。お前はピアノのことになるとスケールがでかくなるからな」


口元を緩ませた後、親指で玄関の扉を指す。

「演奏はもう終わったんだろう? どうだ、一緒に食事でも」


「そうだね、いい所を知ってるんだ。っていっても僕のバイト先になるけどね。それでいいかな?」


「もちろん。ワインが旨ければどこでもいい」


「じゃあ決まりだ」


水樹は胸元からメモ帳を取り出していった。

「悪いけど、先に行ってて貰っていいかな? この格好じゃさすがに外に出るのは恥ずかしいからさ」


 彼の正装姿を改めて眺める。黒の燕尾服が異様に似合っており、長い黒髪も男でありながら妖艶さを醸し出している。


「わかった。じゃあ十九時にしよう。俺も荷物を一旦ホテルに置いておきたい」


「了解。じゃあ十九時で」


「ああ」


 火蓮は手をあげて、振り返らずにそのままホテルに戻った。

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