第二章 青の鼓動と赤の静寂 PART6
6.
会場は熱気に包まれたまま、幕が閉ざされた。水樹は流れ落ちてくる汗を拭いながら体全体で呼吸をしていた。しばらくはこのまま立ち尽くすことしかできない。
体全体がピリピリと引きつっていくのを感じ、きっと明日は筋肉痛になるだろうと思った。だがこの疲れは次の日にはどうなるのだろうとも考えが働く。
もしこのまま明日も火蓮であるのならば、自分が感じる痛みとなるだろう。だが明日自分の体に戻っていれば、火蓮が肩代わりしてくれるのだろうか。
答えが出ない問題だけに頭の中で何度でもその問答が繰り返される。
「お疲れ様、今日もよかったよ、火蓮君」後ろからプロデューサーらしき人物が声を掛けてきた。
「あ、ありがとうございます」
風花と美月も声を上げて挨拶をしている。やはり彼が責任者なのだろう。二人はそのまま火蓮の方に近寄ってきた。
「お疲れ様、何だか今日は凄かったね。いつもの火蓮じゃないみたいだった」
「そうだな。久しぶりに全力で挑んだ気がする」火蓮ならそういうだろうなと思いつつ、得意顔でいう。
「ふうん。まあ、やる気になったのはいいけどさ、目からも汗が出てるよ」
「……えっ?」
目元を抑えると、涙が溢れていた。
「これはな、汗が入って……」
「いいじゃない、それだけ本気で取り組んだってことでしょ。それに今日のカレンは特別格好よかったわ」
「何だよ、いつもは格好悪いってか?」おどけながらいう。「今日はいつもと違ったんだ。内容がわかっても感動することってあるんだな」
美月は当たり前じゃない、と一喝した。
「劇場でみるメリットがなければDVDで充分よ。だから私達はこうして仕事にありつけているんじゃない」
「違いない。さてと、帰るとするか……」
「何よ、今日は飲まないの?」美月が不服そうな顔で睨んでくる。
「ああ、水樹を待たせてあるんだ。それに明日は病院で定期健診があるからな」
そういって後悔する。今の体は火蓮なのだ、彼は定期健診に行っていない。
「そうはいっても行くのは水樹だけでしょ? カレンはほとんど来たことがないとお父様は嘆いていたけれど?」
「当たり前だ、オレは何の問題もないんだからな。あいつは几帳面だから通っているだけだ。まったく病院代だってタダじゃないのにな」
「じゃあ決まりね、一杯くらい付き合ってよ」
「そうはいってもな……」
「ごめん、私も今日はまっすぐ帰るね」風花は帰る準備をし始めている。
「何よ、二人ともつれないわね」美月は頬を膨らませて腕を組んだ。「水樹が来てるってことは二人で何か食べにいくんでしょ? お酒は飲まなくてもご飯くらい食べにいかないの?」
「いや、すまない。今日は本当に用があるんだ。また次回、ちゃんと埋め合わせはするからな」
謝り倒した後、彼は美月の返事を待たずにそそくさと楽屋を後にした。振り返ることはできなかった。
火蓮に連絡を入れると例のレストランで待ち合わせをしようといってきた。もちろん異論はないので了解と返事を送る。劇場から少し離れているのでなるべく人通りの少ない道を選んでいく。
夜の街はいつもより魅力的に映った。自分が行ったことがない店の扉を見るだけでも店の雰囲気が浮かんでくるのだ。その店の得意料理、店主の顔、キープしてあるボトルの量など様々な映像が頭の中で巡っていった。飲食街だけでなく女性が酒を注いでくれる店のイメージも容易に浮かんでくる。火蓮のお気に入りの子まで脳裏に焼きついてしまう。これこそがプライバシーの侵害だろうなと関係のないことを考えて街を通り抜けていく。
目的地に向かっている途中で火蓮の姿が見えた。彼も気づいたようで手を大きく振っている。
「よう、お疲れ様。見事な指揮だったよ。俺が感動しちまった」火蓮は周りに構わず、がははと大笑いしている。
「よくいうよ。こっちは倒れそうだったんだから」
二人で立ち話をしていると、臙脂色のケースを肩に掛けた女性が火蓮に後ろから抱きついていた。
風花だった。
「水樹、ひどいじゃない。来てるなら連絡くらいちょうだいよ」
火蓮は驚いて言葉に詰まっている。
「ああ、すまない。ちょっと用があってこっちまで来ていたんだ……」
胸の中に葛藤が生じていた。風花は当たり前の行動をしているだけなのに、それを受け入れられない自分がいる。
「じゃあ劇は見てないの?」
火蓮は首を振った。
「いや、見させてもらった。風花の演奏はとってもよかったよ」
風花はぶぅーっといって、頬を膨らませた。
「いっつもそうなんだから。よかった、しかいわないじゃない。もうちょっと言葉を選んでよ」
火蓮は苦い顔になり無理やり言葉を並べ立てていた。その仕草は自分のものと近い感じで、役者になれるかもしれないなという別の想像が働く程だった。
「風花の演奏はいつもばっちりだからね。俺の肌に合うんだ、だから褒める必要なんてないよ」
風花は満足いっていないようだったが、まあいいや、といって車を取りに行く素振りを見せた。
「今日はタクシーで来たんでしょ? 私が送ってあげる」
火蓮と水樹は顔を見合わせた。打ち合わせなしに言葉を発したら最悪ばれる可能性がある。
「いや、いいよ。ちょうど二人で飲もうと思ってたから」
まずいと思ったが、遅かった。火蓮は美月の件を知らない。今日は飲食以外の用事があるといっているのだが。
「……そう。それなら仕方ないわね。水樹さん、明日の約束はちゃんと覚えてるよね?」
「……ああ。覚えてる」横にいる火蓮が小さく頷く。
「よろしい。じゃあまた明日ね」
そのまま彼女は駐車場へ向かっていった。
風花が見えなくなるまで手を振り続け、姿が見えなくなってから二人は大きく溜息をついた。
「……危なかったな。もう少し大きな声で話していたら、聞こえていたかもしれない」
火蓮はそういったが、風花の後ろ姿を見ると全てを見透かした上での演技のようにも思えた。彼女にしては物分りがよ過ぎたからだ。
そうかもねと水樹は頷き、タクシーを止めるため手を挙げた。