第二章 青の鼓動と赤の静寂 PART4
4.
休憩を合図する音声が流れると共に、水樹はタクトを指揮台の上に置いた。倒れこみたくなる程体力を消耗しており、立っているのがやっとだ。このまま指揮を続けることは大した練習もせずマラソンに挑むような無謀なことではないかとさえ思ってしまう。
しかし自分の代役はいない。なんとか騙し騙しやるしかない。額の汗をぬぐい、頬を両手で叩いて気を引き締める。
トイレに向かおうとすると、美月から声を掛けられた。
「カレン、ちょっといい?」
彼女の表情は欺瞞に満ちていた。
「……どうしたんだ?」
「今日は何か感じが違う気がしてね。何かあったのかなと思って」
「何もないさ」水樹は首を振った。「酒が残っている感じはあるけどな。そのせいかもしれない」
「ふうん、そっか……。それならいいや、ごめんね」
美月の表情は変わらない。心臓が飛び出しそうになりながらも平静を装うしかない。
「同じ劇だって、毎日同じ感情じゃないだろう? まだ半分だ、最後までついて来いよ」
「わかってる。火蓮こそ最後までちゃんと持たせてよ」
「ああ、もちろんだ」
美月へ手を振りトイレの方に向かうと、風花と目があった。彼女はペットボトルに口をつけたまま水樹の方を見ている。そのまなざしは何かを吟味しているようだ。何だか全てを見透かされているようで怖い。
風花から視線を外し足早にトイレに向かうことにした。
トイレで顔を洗い自分の顔を見つめるが、やはり火蓮の顔だ。心を静めようと近くの自動販売機でミネラルウォーターを買う。
軟水より硬水の方がいいなと呟きながら、再び入れ替わったことを推察する。
何が原因でこうなったのだろうか? 元に戻る方法はあるのだろうか?
もちろんわかるはずがないが、考えないわけにはいかない。考えれば考えるほど体が硬直していくのを感じてしまう。体に掛かる重力が二倍にも三倍にも上がっていく。
定期的に足に震えがくる。筋肉質の両腕で足を抑えなんとか踏み留ろうとする。
……ここからだ。ここからが本番だ。
体を持ち直しても、心臓の激しい高鳴りは抑えることができない。自動販売機で出て来るつり銭のように、鼓動音がカツンカツンと規則正しく鳴り響いていく。
……この感情は刺激が強すぎる。
今まで味わったことのないエネルギーが自分の心に浸透していき理性を抑えきれなくなっている。ピアノで味わう静寂さなど、どこにもない。同じ音楽でもここまで違うのかと実感する他ない。
ミュージカルの音は一つ一つが個性に溢れ、一つとして同じものはない。タイミングが少しでもずれると、ただの騒音になる危険性を秘めている。
火蓮は絶妙な指揮を執ることで一つの音楽を作ることに成功しているのだろう。一つのタペストリーを編むように、様々な色を混ぜ合わせていくのだ。一度リズムが狂うと綺麗な柄が途端に汚く見えてしまう可能性を秘めている。
火蓮の指揮は大胆に行う上で緻密な計算が行われているのだ。普段の姿から見えない努力の結晶に兄に対して尊厳を抱かずにはいられなかった。
顔を拭き舞台に戻る準備を整える。指揮台に戻ると体が再び震え始めていく。先程よりも激しく、コンクリートに穴を開ける機械のようにガタガタと震えていく。
何度も腹を括っているのに体が落ち着かない。水樹はタクトを思いっきり掴んで宙に浮いているスポットライトを見つめた。
……やるしかない。やるしかないんだ。
水樹は大きく息を吸い込み、左手でタクトを振り上げた。