初めは憧れだった 5
目を覚ました俺の目の前に広がっていたのは、夜とも朝ともつかない不思議な色の空。
俺は状況を全く理解できていなかった。解く気なんてなかった魔導書の封印を解いてしまったらしいことだけは、何となく察してはいた。
体を起こして、辺りの様子を窺う。不気味なほど何もない空間で、えも言われぬ不安を感じた。
四方に視線を彷徨わせ、もう一度正面に視線を戻すと、俺は悲鳴を上げそうになった。すんでの所で堪えたが、音もなく現れた存在に寿命が縮まる思いをする。
俺の前に座っていたのは、黒髪の女の子。
手にはティーカップをもち、優雅に紅茶を飲んでいる。ただし、この空間にテーブルも椅子も存在せず、彼女は正座をしてお茶を啜っていた。傍から見ればかなりシュールな光景である。
「契約してください」
女の子は開口一番そう言い放った。
「――は?」
「契約してください」
「え? どういうことだ?」
「だから、契約してくださいと言っているのです」
何がだから、なのかさっぱり分からない。どうやら彼女は人の話を聞かないらしい。疑問符しか浮かばない俺にかまわず、「契約してください」と繰り返した。
「……けいやくって何の?」
「貴方に力を貸すかわりに私を完成させてくれる、という契約です」
「えー、そもそも君はなにもの?」
「私は未完成の魔導書。完成する前から、魔導書となることを定められました。今は名もなき魔導書。なっちゃんとお呼びください」
「えっと、君は魔導書の意思ってことでいいの?」
「そのように理解していただいてかまいません。正確には人の手によって生み出された精神生命体であり、魔導書の能力を制御するための管制システムでございます」
ますます分からなくなったが……。まあ、そこは横に置いておこう。
彼女は魔導書の意思で、彼女の望みは魔導書を完成させること。その代わりに力を貸すと言う契約を結びたい。
ここまではなんとなくわかった。
でも、魔導書との契約なんて正直遠慮したかった。個人的にはとても、とてもとても興味が掻き立てられるが、両親は許さないだろう。その危険性は耳にタコが出来るほど言い含められていたし。
「うーん。でも、魔導書とけいやくしたら危ないって……」
「それは誤解でございます。魔導書とは、本来大規模な術式、または構成の複雑な術式を記録するための物。収められている魔法の危険度が高いために、契約と言う形で制限をかけているだけなのです。魔導書を邪悪なものとするイメージは、不当であると考えます。ようは使い方次第、人々を救済する英雄となることも厄災を振りまく魔王となることも可能なのです」
結局危険がつきまとうんじゃないか? それ。
人の手に余るから要封印扱いされてるなら、それは至極もっともだと思う。魔導書さんからしたら違うのかもしれないが、俺たちのイメージはあながち的外れでもなさそうだ。
「……けいやくしても、どうしたらいいか分かんないよ」
「魔法の研究を進めてください。私は魔導の真理にたどり着くために創られました。初代ノルディー伯が己の悲願を成就させるために、私と言う未完成の魔導書を創り出したのです。私の存在意義、私の望みはただ一つです。それはノルディー一族の悲願となり、代々受け継がれてきたのです」
「とうさまは何も言ってなかったけど?」
「私と契約するのは、その代の最も素質が高い者です。いずれ貴方が選ばれたでしょう。しかし、現当主は貴方がまだ幼いために、あえて話さなかったのだと思われます。貴方が自力でここへ至るとは、まったくの想定外だったのでしょう」
あ、これ地下室に入っちゃいけないパターンだったっぽい。
何だか強制的に契約させられそうな雰囲気に、俺はちょっと焦った。一族の悲願とか、正直背負いたくない。俺はどちらかと言うと自分の興味の赴くままに魔法の研究がしたいし、魔導書に縛られるのは勘弁してほしい。
「あまり乗り気ではないようですね」
「うん。おれはひがんとか、どうでもいいし」
「そうですか。それでは別方向から説得を試みましょう。私にはノルディー家の研究成果がすべて記録されています。なので、その一端を貴方にお見せいたします」
それまで眉ひとつ動かさなかった彼女は、ふっと得意げに笑った。何もない空中から取り出したのは、祭壇に置かれていた魔導書、彼女の本体だ。
彼女が本を開く。
「お連れしましょう。――深淵なる魔導の世界へ」
彼女が見せたものは、まさしく魔導の、世界の真理のほんの一片。
俺の意識は、いや、魂は宇宙へと旅立ち星へと戻るような軌跡をたどった。
人間がまだ辿り着けずにいる、世界の深層。
魔法とは何か、マナとは何か。俺たちは何も知らない。
太陽が昇り、沈み、月が闇夜に浮かぶ。
大気に満ちる生命力、――原初の物質。人の知覚外にあって、でも確かに世界を満たしているモノ。
星に降り立ち、最初の魔法を感じた。人が魔法を力として認識する前の、雑多で無駄の多い魔法と言えるかどうかも怪しい魔法たち。
初めは唯の願いだった。
生きたいという願い。死なせたくないという願い。我が子のために、兄弟のために、恋人のために……誰かのために。
とても単純で、だからこそ何よりも強い思いが魔法を生み出した。
美しい魔法だった。
粗削りな、体裁も整っていない術だけれど。世界に軌跡を描き、奇跡を起こす。
世界に刻まれたのは、そんな力強く、暖かな魔法。
少女が火を掲げた。寒さに凍える子どもたちのために、命を燃やしている。炎に照らしだされる子どもたちの顔は安らかで、少女は満足げに微笑んだ。
パチッと火花が弾けた。
炎が消えると同時にこちら側に戻ってきた俺は、呆然と魔導書を見つめていた。心ここに非ずで、あの魔法の美しさを何度も頭の中で回想した。ブリジット先生の祝福魔法をかけられた時の……違う。もっと、もっと激しい衝撃だった。鈍器で頭を殴られたような、強烈な衝撃。
「魔導とは、いと深きモノ。世界と対話し、人の願いを具現化するモノでございます。どうでしたか? 貴方の目にはどのように映ったのでしょうか」
言葉が出ない。
込み上げてくる感情を十分に伝えられる言葉を、俺は知らなかった。魂ごと揺さぶられる激情を、あえて言い表すなら。
「まいった。こんなの、こんなのはんそくだよ」
あの美しい魔法をもう一度、――――今度は俺自身の手で!
「けいやく、したくなったじゃないか」
俺は差し出された彼女の手を取った。