序章
俺はずっと憧れていた。
人間たちが暮らす世界に。
別に自分の暮らす世界が嫌いってわけじゃない。あるだろう、そういうの。―一度でいいから、行ってみたい。
「そう。じゃあ…行ってみる?」
「は?」
「人間の世界に」
隣で俺の話を聞いていた母さんが、ほほ笑んだ。
「そんなのできんの?」
「簡単じゃないけれど。この景色ばっかりじゃ飽きるでしょう、とは思っていたの。行く?」
「あ、ああ!!」
ただ単純に、嬉しかったんだ。新しい世界を、この目で見ることができる。そう思うと。
次の日、俺と母さんは狐に化けて人間の世界に来ていた。
「すっ…げえ…なに、あれ」
「ん?あれは、船。人が乗って、貿易に使ったり観光に使ったりしてるのよ」
「うお、今なんか通った」
「車よ。あの中に人間が入って移動するの」
「へー…」
何もかも、初めて見た。その全てが驚きで、俺は自分が今狐だということも忘れてはしゃぎまくった。
「よし…そろそろ戻りましょう」
「もう?―本当だ、日が沈んできてるな」
「ん。それに疲れてきたわ。また来れたら、来れましょう」
「ああ!!」
その時は、もっといろんなものを見たい。感じたい。
俺はもう、楽しみでしたかがなかった。
だけど、今となっては思う。
どうしてあんなところへ行ったんだろう。
どうしてあんな世界に憧れたんだろう。
夕日が浮かぶ波打ち際を、俺と母さんは歩いていた。次ここに来たら、今度はもっといろんなところを廻ろうと、約束した。
そして、俺らの世界へ続く森へ足を踏み入れたとき。
「!!しっ…。静かに」
「?母さん?」
母さんがふいに立ち止まり、耳をまっすぐたてて鋭い目つきで森の奥を見つめた。すぐに、俺も異変に気が付いた。
森の奥から、血の匂いがする。
「……どうしましょう…。っ、走るわよ!!」
「あ、ちょ……!」
何が起きたのかよくわからないまま、俺は母さんの後に続いて走った。心臓がばくばくいって、自分でもどうしようもない。
―あと、少し……
ぱあんっ
近くで、乾いた音がした。鳥が、ばたばたと木から飛び去る。
俺は、立ち止まった。時間が止まったような気がした。だけど、実際は止まってないことを、目の前の光景を見て初めて確認する。
母さんが、その美しい毛を紅く染めながらゆっくりと倒れた。
その時俺の口から出た声を、母さんは聞いただろうか。どんなふうに空気を震わせていただろうか。いや、何も言えなかったかもしれない。薄い琥珀色の目は、もう俺を見ていなかった。細く開いた口からは、もう優しい声が聞けなかった。
がさりと、葉を揺らして人間の男が現れる。俺に、銃を向けた。
死んでやろうかと思った。母さんと同じ世界に行ってやろうかと。
だけど俺に、きっとそれはできない。
こんな、身悶えるような怒りの中では、俺はきっと死にきれない。
その後の事はもう、記憶にはなくなっていた。
ただ、気づけば元の、俺たちの世界にいた。
「…文月紋樹。お前は人間界のものを、ひかも人間を殺し、森を半壊させた。我々の神聖なる掟を破ったのだ。
―追放する」