私の歌を好きだと言った婚約者が、私の舞台を取り上げました
「音楽会の辞退は、僕から伝えておいたよ」
新しいピアノに伸ばしかけた手が止まった。
フィリップ様は、私が驚いた顔をしているのを見て、嬉しそうに笑った。窓が三つもある明るい部屋だった。壁際には楽譜を収める棚があり、ピアノの向こうには、歌う人のために十分な場所が空けてある。
六週間後に結婚したら、ここを私の音楽室にしてくださるという。父も母も、つい先ほどまで感嘆の声を上げていた。
「……十二日後の、音楽会ですか」
「ほかに出演の予定があるのかい? それなら、一緒に断っておこう」
彼は当たり前のように言った。
私は胸元に抱えた楽譜を見下ろした。今日はこの部屋で歌を聴かせてほしいと言われ、持ってきたものだ。音楽会で歌う曲を、少しだけ先に聴いていただくつもりだった。
表紙の角は擦れている。半年間、ほとんど毎日開いた。
「辞退したいとは、申し上げていません」
「分かっているよ。急にやめたいと言うのは、言いにくいだろう。主催者には、結婚を控えているからと説明しておいた。君が気にすることはない」
彼はピアノの蓋を開けた。
白い鍵盤が並んでいた。我が家のものは端が少し黄ばんでいて、下の方の音を強く弾くと、どこかがかすかに鳴る。こんな綺麗なピアノでクレールに伴奏してもらえたら、と部屋へ入った時には思ったのだ。
胸が弾んだ分だけ、今は苦しかった。
「私、歌いたいのです。あの音楽会で」
フィリップ様が、ようやく笑うのをやめた。
母が私と彼を見比べた。父はまだ、話がよく分からないという顔をしていた。
「ここでも歌えるじゃないか。先生も呼べる。今の先生が遠いなら、王立歌劇場で教えている方を紹介してもらおう。稽古のために、雨の日まで出かけなくてよくなる」
「先生を替えたいわけではありません。クレールとずっと合わせてきた曲ですし、半年も前から決まっていて――」
「だから、ずいぶん頑張っていると思っていた。もう、あんなに無理をしなくていいんだよ」
彼は私の肩に手を置いた。
一年前、婚約が決まった日に触れてくださった時と同じ、優しい手だった。あの時には、これからこの方と一緒にいられるのが嬉しくて、その手へ自分の手を重ねた。
今日は楽譜を抱えたまま、動けなかった。
「君が人前に立って、入場料を払った客に頭を下げる必要はなくなる。欲しいものがあるなら、僕に言えばいい。歌うことまで、暮らしのためにしなくていいんだ」
「私のお金にはなりません。入場料は、施療院に」
「知っている。それなら寄付をすれば済む話だろう」
フィリップ様は、この問題には簡単な解決があるという顔をした。
確かに、彼が寄付してくださる額は、私一人の歌で集まるお金より大きいかもしれない。町の施療院への寄付が増えるのは、よいことだ。
けれど、私は寄付の額を競うために歌を習ってきたのではなかった。
「歌をやめろとは言っていないよ、イレーヌ。君の声が好きだと、何度も言っただろう。結婚したら、夕食のあとに聴かせてほしい。友人を招いた時にも、きっと喜ばれる」
窓の下に、二人掛けの長椅子があった。
あそこに彼が座り、私が歌う。親しいお客様を招く日は椅子を増やす。そういう夜を、私も楽しみにしていた。
それができることと、音楽会に出られなくなることが、どうして同じ贈り物に入っているのだろう。
「この部屋から出て歌うのは、いけないのですか」
「子爵家のお嬢さんの発表会なら、これまでで十分だ。これからはヴェルネ伯爵家の人になるんだから」
彼は父に向かって微笑んだ。
父が、娘のためにありがとうございます、と言いかけた。その声が耳に入った途端、私は抱えた楽譜を強く胸へ押しつけた。
「私のために、辞退したことにしないでください」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
父の言葉が止まり、フィリップ様の手が肩から離れた。
「私は、出演したいです。やめたいと言っていません。主催者の方には、そうお伝えください」
フィリップ様は、困ったように私を見た。
小さな子供が贈り物の色に文句を言った時のような顔だった。
「今日は機嫌が悪いんだね。気に入ってもらえると思って、ずっと準備していたんだけれど」
私も、ずっと準備していた。
その言葉を口にしたら泣いてしまいそうで、唇を噛んだ。
ピアノを見て喜んだのは本当だった。それだけに、ここで泣くのは恩知らずなのかもしれないと、まだ思ってしまった。
「少し、考える時間をください」
母が私の隣へ来た。
私は彼へ頭を下げ、楽譜を抱えたまま部屋を出た。その日は一音も歌わなかった。
* * *
家のピアノで最初の音を取ったのに、続きが出てこなかった。
いつもなら、その音を聞くだけで次の旋律が浮かぶ。川を渡る小さな舟の歌だ。出だしは岸辺で舟を待つ人の声で、途中から流れへ漕ぎ出していく。
私は鍵盤から手を離した。開いた楽譜に、クレールの字で「ここ、急がない」と書いてあった。
初めて合わせた日、私は張り切りすぎて、彼女の伴奏を置いていった。
次にゆっくり歌ったら、今度は舟が岸へ戻りそうだと言われ、二人で笑った。どこまで待てば歌が止まらずに聞こえるのか、先生の前で何度もやり直した。
楽しいことばかりではなかった。選考の前の晩には眠れなかったし、自分よりずっと上手な人の声を聞いて、楽譜を閉じたくなったこともある。
それでも、出演が決まった手紙を受け取った日は、階段を駆け上がって母に叱られるくらい嬉しかった。
あれを全部、終えてよい苦労だと思われていた。
涙が落ちる前に楽譜を閉じようとして、余計に悲しくなった。今日はもう歌えないのだと、自分で決めた気がした。
私はピアノの前に座ったまま、顔を覆った。
フィリップ様は、私の歌を好きだと言ってくださった。
まだ婚約する前、伯母の小さな集まりで歌ったあとに、窓のそばまで追いかけてきてくださったのだ。最後のところでもう一度声が大きくなると思ったら、遠くへ行くように小さくなって、寂しかったと。
上手だった、綺麗な声だったという褒め言葉は、それまでにもいただいたことがある。でも、私がどんなふうに歌いたかったかを、そうして話してくれた男性は初めてだった。
嬉しくなって、あそこは舟が向こう岸へ着くところなのです、と説明した。
彼は、ではこちらの岸に残る人は寂しいねと言った。そのあともしばらく、窓辺で話した。
帰ってから思い出すと、歌った時より胸がどきどきした。
半年後に婚約が決まり、私は結婚してからも歌を続けたいと話した。
もちろんだ、君の歌は僕も好きだから。そう答えてもらえた時には、それで何もかも伝わったと思ったのだ。
音楽会の独唱に選ばれたことも、何日に歌うかも話した。入場券を渡し、来てくださったら嬉しいと頼んだ。
彼は券を受け取り、頑張っているねと微笑んでいた。
「聴きに来てほしかったのに」
口にすると、ますます涙が出た。
誰よりも、あの方に聴いてほしかった。歌い終えたあと、最初に気持ちを話したかった。
家で歌ってくれればいいと言われたことが、こんなに寂しい。
扉を叩く音がした。返事をすると、母が入ってきた。
泣いている顔を見られたくなくて横を向いたが、母は私の隣に腰を下ろした。
「お父様に話したわ。あなたが音楽会を楽しみにしていたことを。あの場では、立派なお部屋に驚いてしまって」
「私も、嬉しかったの。あのピアノを弾いてみたかった」
嬉しかったと言えたら、涙が止まるかと思った。でも、違った。
「だから、あんなことを言われたのが、悔しいの。私まで喜んで、もう出演しませんと言わなければいけないみたいで」
母は私の背を撫でかけ、やめた。代わりに手巾を差し出した。
私はそれを受け取り、鼻を押さえた。綺麗に泣ける気分ではなかった。
「明日、先生のところへ行きたいわ。私が辞退したことになっているなら、自分で違うとお伝えしたい」
「ええ。馬車を出しましょう」
母は、フィリップ様が許してくださるかとは聞かなかった。
それだけで、私はもう一度泣いた。
翌朝、マルト先生は、玄関まで迎えに出てくださった。
主催者から確認の手紙が来たのだという。婚約者から辞退の連絡を受けたが、本人の返事を確かめたいと。
まだ、出演者の差し替えは決まっていなかった。
「あなたは、どうするつもり?」
先生は私の顔を見て尋ねた。
歌わない方がいいとも、婚約などやめてしまいなさいともおっしゃらなかった。私は先生の稽古室にある、いつもの椅子へ腰を下ろした。
「歌いたいです。でも、家で歌えるのに、どうしてそこまでと言われると……うまく、説明できなくなって」
先生は、私が持っていた楽譜を受け取った。
それを開いて、私の膝へ戻してくださる。
「出演が決まった時、最初に何をしたかった?」
「クレールに、知らせたかったです。一緒に出られるって。それから、選考で失敗したところを直して、今度こそ最後まで」
途中で声が詰まった。
舞台の奥の壁は青かった。選考の日、そこで大きく息を吸ったことを覚えている。客席は審査の方たちだけで空いていたのに、たった一度つかえただけで、逃げたくなるほど恥ずかしかった。
それでも、もう一度あそこへ立ちたかった。
「私を知らない人にも、聴いていただきたいのです。途中で舟が川へ出るところも、向こう岸に着くところも。クレールと合わせた曲を、ちゃんと」
先生は頷いた。
「では、その返事を主催者へ届けなさい。出演をお願いしたのは、あなたですから」
短い返事だった。
私は楽譜の端へ目を落とした。新しい音楽室ほど立派ではない、この部屋で十年間、同じように歌ってきた。
褒められた日も、泣いた日もあった。家で難しいところが歌えるようになると、先生にも聴いてほしくて、次の稽古の日が待ち遠しかった。いつか、もっとたくさんの人に届いてほしくて、何度でも口を開いたのだ。
「出演します。私が、そう決めます」
声にすると、先生の目尻が少し下がった。私はその場で主催者への返事を書き、先生に届けていただくようお願いした。
「分かりました。それなら今日は、出だしだけでも合わせましょう。婚約のお話は、歌のあとで自分のご両親になさいね」
先生の伴奏で、私は最初の一節を歌った。
声は少し硬かった。先生にも、肩へ力が入りすぎだと注意された。昨日のことがなくなったわけではないし、一晩で上手になったわけでもない。
それでも、歌い終えると、次を直したくなった。
帰り道、馬車の中で母へ、フィリップ様との結婚をやめたいと話した。
母は目を閉じ、長く息を吐いた。
「音楽会には、出てもいいと言ってくださるかもしれないわ」
「今回だけなら、そうかもしれない。でも、その次も、その次の年も、同じようにお願いして暮らすのは嫌なの」
窓の外を、稽古帰りらしい少女が楽器の箱を抱えて歩いていた。私も小さい頃、母とああして帰った。
先生に叱られたことを話したり、できるようになったところを家で聴いてもらう約束をしたり。嫌になる日もあったけれど、やめたくはなかった。
「結婚したら、歌いたい場所も相手も、あの方に決めてもらうのね。そういう暮らしを幸せだと思えないわ。好きだったのに……一緒に暮らすことを考えると、怖いの」
母は私の手を握った。
家へ着くと、私は父にも同じ話をした。
父は、フィリップ様は私を大切に思っているのだろうと言った。嘘ではないと思う。あの部屋を準備するために、彼が費やした時間もお金も、なかったことにはできない。
「でも、私の出演を、私に聞かずに断ってしまったのです。お父様に同じことをされたら、私、やっぱり怒ります」
父が口を閉じた。
私は膝の上の楽譜を見た。母が預かりましょうかと言ってくれたのに、まだ自分で持っていた。
「どれほどよい結婚かは、何度も聞きました。けれど私は、あの方と結婚したいとは、もう思えません」
父はしばらく黙り、それから、分かったと言った。
相手のお家がどれほど立派かという話には戻らず、父は私の返事を受け止めてくれた。
その日の夕方、両家で会う席が設けられた。
フィリップ様は、両親と一緒に我が家へいらした。
最初は私の顔ばかり見ていたが、父が婚約解消の話を出すと、伯爵様へ目を向けた。伯爵様も困惑していた。昨夜、息子は贈り物を喜んでもらえなかったとしか説明していなかったらしい。
「イレーヌさん。音楽がお好きだと聞いて、お部屋の準備も急がせましたのよ」
伯爵夫人の声は穏やかだった。
それが責める声に聞こえてしまう自分も、嫌だった。私は一度頷いてから、頭を下げた。
「ありがとうございます。ピアノを見た時には、嬉しかったです。でも、結婚はできません」
夫人が困ったように眉を寄せた。
「結婚を控えていらっしゃるのだから、今は気持ちが落ち着かないのでしょう。舞台のことは、これからゆっくり考えれば――」
「十一日後なのです。もう、私の辞退が主催者の方へ伝わっています」
私の声はまた、大きくなった。
母が隣にいたが、言い直しなさいとは言わなかった。フィリップ様は、少し苛立ったように姿勢を変えた。
「それは、僕から説明すれば済むだろう。そんなに出たいのなら、今回だけは出ればいい。ただ、結婚後は」
私は彼を見た。
結婚後は。その先を、昨日の部屋で聞いた。
「今回出られれば、これから歌いたいと思わなくなるわけではありません」
「好きなだけ歌えるようにしてあるじゃないか。あれ以上、何がいるんだ」
彼は両手を広げた。
「新しいピアノも、専用の部屋もある。王都の歌手だって、望めば家に呼べる。君は隣で聴いて、教えてもらえばいい。誰かに出番を決められたり、舞台の順を待ったりすることもない。僕と結婚すれば、そんな苦労はしなくて済むんだよ」
見習いのように順を待っている私を、可哀想だと思っていた。
雨の日に稽古へ出かけることも、出だしを何度も練習することも。あんなに嬉しかった選考の知らせまで、今よりよい暮らしになれば忘れられるものに数えていた。
胸が熱くなった。悲しいのか腹が立つのか、もう分けられなかった。
「私は、出番を待つのも楽しみでした」
フィリップ様の手が止まった。
「稽古をして、先生に直していただいて、クレールと合わせて。それを、苦労がなくなるからと取り上げてほしくありません。あなたのお家で、立派な方の歌を聴きたいという話ではないのです。私が、歌いたいんです」
言い終えると、息が足りなくなった。
楽譜を持つ指に力が入っていた。紙を曲げてしまいそうで、私はそれを膝へ置き直した。
フィリップ様は黙っていたが、しばらくすると、声を落とした。
「僕の前では、歌いたくないのか」
その聞き方に、泣きたくなった。
誰よりも聴いてほしかった人なのに、どうして、そういう話になるのだろう。
「歌いたかったです。音楽会にも、来ていただきたかった。入場券をお渡しした時、そう申し上げました」
「だから、行くつもりだった。君が出なくても、一緒に聴けばいいだろう。夫婦になれば、特別席だって取れる」
母の息を呑む音が聞こえた。
私は、しばらく彼を見つめていた。
客席の一番よい場所へ、連れていってくださる。その隣に座るために、私が歌うはずだった場所を空ける。
彼は本気で、それを幸せだと思っているのだ。
「私は、舞台に立ちたいです」
今度は、声が静かになった。
諦めたのではなかった。何を答えれば彼が機嫌を直すかを、考えるのをやめたのだ。
「あなたの隣の席より、あの舞台に立ちたい。そのことを責められる結婚は、したくありません。婚約を、解消してください」
フィリップ様の顔から、表情が消えた。
彼は私の言葉を聞き違えたように、少し身を乗り出した。それから、自分の父親の方を見た。
伯爵様は何も言わず、私を見ていた。
「……僕より、歌が大切だと言うのか」
「あなたも、私が歌うのを認めるより、ご自分の望む奥様でいてほしいのでしょう」
彼の唇が動いた。
けれど、すぐに違うとは言わなかった。その沈黙が、言葉より悲しかった。
「あなたのことが好きでした。結婚して、夕食のあとに歌うのも、楽しみにしていました。音楽会の帰りに、今日はどうだったとお話しするのも」
声が揺れ、私は楽譜を見下ろした。
彼と同じ部屋で年を取っていくつもりだった。歌えなくなる日がいつか来ても、その前に聴いてもらった曲の話をできたらと、そんな先まで考えていた。
「その両方を欲しがるのは、いけないのですね。私があなたを好きだったら、舞台はやめるはずだと、そう思っていらっしゃるのですね」
涙が膝へ落ちた。
フィリップ様が腰を浮かせたので、私は手を上げた。近づいて慰めてもらったら、また私が謝って終わらせそうだった。
「今日は、そちらにいてください。まだ、お話ししています」
彼はゆっくり座り直した。
私は手巾で顔を押さえ、それから彼を見た。
「私は、結婚したいから歌をやめますとは言えません。あなたのお家へ行って、何もかもあるのに、あそこへ立ちたかったと毎年思うのは嫌です」
部屋の中は静かだった。
伯爵夫人が息子の名前を呼びかけ、やめた。父が私に代わって説明することもなかった。
フィリップ様は両手を膝へ置いていた。指を組もうとして、うまく落ち着かないようだった。
「君を、幸せにしたかったんだ」
かすれた声だった。
「僕が屋敷へ帰った時、君の歌が聞こえたらと……仕事がうまくいかなくても、そういう家に帰れるのだと、思っていた」
それは、私も欲しかった暮らしだった。
彼が帰る足音に気づいて歌をやめたら、続きを聴かせてと言ってもらう。今日あったことを話して、明日は何をしようかと相談する。
想像できるから、余計につらかった。
「私も、帰ってきたあなたに会いたかったです。でも、私だって、歌って帰ってくる日が欲しかった」
彼が顔を上げた。
「その日は、今日はよく歌えたと言いたかった。間違えた日は悔しかったと言って、また練習したかったんです。私が外で過ごす時間もある暮らしを、あなたと作りたかった」
フィリップ様は何かを言おうとした。
私は待った。待っている間も、涙が出た。
「……それなら、演奏会ごとに話し合えば」
「昨日も、私と話し合ってから決めてほしかったです」
彼の口が閉じた。
半年も楽しみにしていた日のことを、私は昨日まで、彼と争う必要があるとも思っていなかった。彼も知っていて、聴いてくれるつもりだと信じていた。
今回だけは出ればいいと言われても、その信頼が戻るわけではなかった。
「今、結婚を続けるとお返事はできません。延期してお待ちすることも、望んでいません」
彼は長く私を見つめた。
やがて父が、娘の意思は変わらないようです、と伯爵様へ話しかけた。婚礼を取りやめ、婚約を解消する手続きを進めたいと。
伯爵様は息子を見た。それから、深く頭を下げた。
取り決めの話が始まっても、フィリップ様は席を立たなかった。
招待状はまだ発送前だった。衣装と料理、教会への連絡。父たちが一つずつ確かめるたび、彼は顔を下げた。
用意していた暮らしが、本当になくなっていく。そのことが分かるから、私も楽譜を抱え直した。
帰り際、私は彼にお願いした。
「お渡しした入場券を、お返しいただけますか」
フィリップ様は、上着の内側へ手を入れた。
この話し合いにも持ってきてくださったのだと思うと、一瞬、気持ちが揺れた。けれど取り出した券を見つめる彼へ、私は手を差し出したままでいた。
「聴きに来ては、いけないのか」
「私の婚約者として、ご一緒する約束は取り消したいのです」
彼は、しばらく券を持っていた。
私の名前と、曲の題名が小さく書き添えてある。渡した日に、どの曲だったか分かるように、自分で書いたのだ。
フィリップ様はそれをもう一度見て、私の手へ返した。
「部屋は……あのままにしておく。気が変わったら」
「私を待つためのお部屋には、しないでください」
言い終えた時、彼の顔が歪んだ。
彼は目を伏せ、何度か頷いた。もう私の肩に手を置かなかった。
両家の手続きが整ったのは、その四日後だった。
婚礼の日に何をするかは、まだ決められなかった。机の上から招待する人の一覧を片づけた夜には、やっぱり泣いた。
翌日、クレールと稽古をすると、最後のところで息が続かなかった。彼女は何も聞かず、もう一度前の小節から弾いてくれた。
その伴奏に、私は声を重ねた。
* * *
音楽会の当日、楽屋の椅子に座っているだけで、膝が落ち着かなかった。
ドレスの裾を撫で、楽譜を開き、もう覚えている歌詞を確かめる。クレールが隣でそれを見ていた。
「イレーヌ。その曲は、今朝も歌ったわよ」
「分かっているわ。でも、朝は歌えたというだけかもしれないでしょう」
彼女が吹き出したので、私も少し笑えた。
笑うと、固まっていた肩が下がった。楽屋の外から、ほかの出演者が声を出すのが聞こえる。私はまた落ち着かなくなり、今度は膝の上で楽譜を閉じた。
受付の女性が来たのは、その時だった。
フィリップ様が、少し会えないかと尋ねているという。会いたくなければ、開演前の用意があると伝えますと言ってくださった。
私は時計を見た。開演まではまだ一時間ほどあり、私の出番は三番目だった。
「少しだけ、お会いします。ここから離れすぎないところで」
クレールは楽譜を預かり、廊下の端で待っていてくれた。
フィリップ様は、受付の先の小さな広間に立っていた。私の姿を見ると、背を伸ばした。
「来てしまった。今日は、入口で券を買ったんだ」
手にした券は、ほかのお客様と同じものだった。
彼はそれを見せてから、握りつぶさないよう指を緩めた。
「家にある部屋で歌えば同じだと思っていた。でも、君が来なくなった部屋へ入ると、何を用意したかったのか、分からなくなって」
私は黙って聞いていた。
会えば平気だろうかと、ここへ来るまで考えていた。でも、平気ではなかった。彼の声を聞くと、初めて二人で話した窓辺を思い出した。
「君が喜んで歌うところが、好きだったんだ。それなのに、喜んでいることをやめさせようとした。……すまなかった」
彼は頭を下げた。
私は、ようやく息をついた。言ってほしかったことだった。あの部屋で、機嫌が悪いのだと決められた時から、ずっと。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、少し、楽になりました」
フィリップ様の目が上がった。
その期待が分かったので、私は続けた。
「でも、あなたとは結婚しません」
彼の口元が止まった。
長い間そうしていたように思えたが、広間を通った客は二組だけだった。
「今日、聴いたら……もう一度、話せるだろうか」
「今日は、歌い終わったあとにクレールと話す約束をしています。先生にも、聴いてくださった方にも会いたいです」
まだ見ていない客席のことを思うと、胸が高鳴った。
失恋の続きをするために、今日ここへ来たのではなかった。そのことを、自分で確かめるように楽屋の方を見た。
「もう、戻ります。聴いていただけるなら、最後まで聴いてください」
フィリップ様は唇を引き結び、それから頷いた。
手が少し上がったが、私へ伸びてくることはなかった。彼は客席へ続く扉へ、私は楽屋へ向かった。
振り返ると、またあの人を好きだった自分へ戻りそうで、前を見て歩いた。
クレールは何も尋ねず、楽譜を返してくれた。
受け取る時に、私の指が少し震えているのが分かった。
「大丈夫?」
「悲しいけれど、大丈夫。ちゃんと、歌いたいわ」
彼女は頷き、一緒に楽屋へ戻った。開演まで声を整えて過ごし、二番目の演奏が始まってから、私は楽譜を椅子へ置いて立ち上がった。クレールは自分の伴奏譜を持ち、隣を歩いてくれた。
舞台袖から見る客席は、選考の日よりずっと暗かった。その暗いところに、たくさん人がいる。椅子が鳴り、紙をめくる音がし、誰かが小さく咳をした。
私は逃げたくなった。ほんの一瞬、本当に。
それでも前の出演者が礼をし、袖へ戻ってくると、足が動いた。
クレールと並んで出て、客席へ頭を下げる。先生は前方に座っていた。父と母も見えたが、それ以上、人の顔を探す余裕はなかった。
ピアノのそばで立ち位置を確かめると、青い壁が視界の端へ入った。
半年間、ここへ戻ってきたかった。
クレールが私を見た。
私は頷き、最初の音を待った。手袋の下で指先が冷たかったが、息を吸うと、思っていたより胸が広がった。
前奏の最後の音が消える前に、私は口を開いた。
声が出た。
出だしは少し慎重すぎた。でも、止まらなかった。クレールの伴奏が、次の音まで待ってくれる。その間に息を継ぎ、私は遠くの席へ向かって歌った。
家の稽古室とは違う響きだった。自分の声が高いところへ上がり、思いがけない遠さから戻ってくる。
川へ漕ぎ出すところで、私は急ぎそうになった。
クレールの左手の音を聞いて、少しだけ待った。何度も二人で合わせた場所だ。
歌がその音に乗った時、彼女が小さく頷いた。
嬉しくて、次の言葉が自然に続いた。
聴いている人がいた。
途中から客席が静かになったことに気づき、怖さより、もっと届いてほしいという気持ちが強くなった。奥の席までは顔が見えない。それでも、そこに人が座っている。
あの人たちにも、舟が川を渡っていくところを聴いてほしかった。
最後の音を、ゆっくり細くしていった。
息がなくなる直前、クレールの伴奏と一緒に終わった。
私は口を閉じた。すぐには動けなかった。音の残った空気を、もう少しだけ聴いていたかった。
拍手が起こった。
初めは前の方から、それから奥の方でも。私は驚いてクレールを見た。彼女もこちらを見て、笑っていた。
思わず笑い返すと、今度は泣きそうになった。
客席へお辞儀をするために身体を折り、顔を上げても、まだ拍手が聞こえた。
袖へ戻った途端、クレールに抱きついた。
彼女は楽譜を片手で持ったまま、空いた腕で私を抱き返した。
「最後まで歌えたわ。私、最後まで!」
「聴いていたわよ。ずっと隣にいたんだから」
彼女の声も弾んでいた。
私は離れかけて、もう一度抱きついた。嬉しくて、どうしてもじっとしていられなかった。誰かに見られたら恥ずかしいと思う前に、ありがとう、と何度も言ってしまった。
「あなたが待ってくれたから、途中で急がずに済んだの」
「分かったから、少し離れて。楽譜を落としそう」
慌てて腕をほどくと、二人とも笑った。
先生が来て、出だしは少し硬かったわねと言った。そのあとで、最後までよく届けました、と私の肩へ手を置いてくださった。
私は今度こそ、涙をこぼした。
音楽会が終わるまで、私たちは楽屋と舞台袖でほかの出演者を聴いた。
帰りには母が、二人でお茶を飲んでいらっしゃいと言ってくれた。父は私の顔を見るなり、あんなに遠くまで声が届くのだねと、まだ驚いていた。
フィリップ様の姿は、もう見えなかった。いつ帰ったのかは分からない。
私は楽屋の椅子から楽譜を取り上げ、受付の女性にお礼を伝えて、クレールと並んで外へ出た。
階段を下りる途中で、彼女が来年は違う曲も試したいわねと言った。
私はすぐに頷き、次に歌ってみたい曲の名前を挙げた。途中の速いところが難しくて、今まで先生に、もう少し待ちなさいと言われていた曲だ。
「また、たくさん練習することになるわよ」
「ええ。付き合ってくれる?」
クレールは、私の手にある楽譜へ目を落とした。
「今度は、最初から急がないと約束してくれるなら」
「それは、稽古してから答えてもいいかしら」
彼女が呆れた顔をして、それから笑った。
私も笑いながら、楽譜を胸へ抱えた。紙の角がさらに少し曲がっている。今日のことを書き込んだら、また何度も開こう。
歌いたい曲が、まだたくさんあった。
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