第8話 お前、何歳だ
「もう無理」
小さく言った。
「ごめん」
次の瞬間、酒場が消えた。
風だった。強い風が全身に当たった。足元を見た。何もなかった。空中だった。
反射的に叫びそうになった。でも声が出なかった。
マイが隣にいた。同じように宙に浮いていた。当然のような顔で。
見渡した。
街があった。
ビルだった。見覚えのある形のビルが、どこまでも続いていた。道路があった。車が止まったままだった。信号が消えていた。洗濯物が風に揺れていた。誰も取り込んでいない洗濯物が。
全部知っていた。
足元に、巨大な塔があった。赤と白の、見間違えようのない形だった。
声が出なかった。
「ここ、日本だよ」
マイが静かに言った。
わかっていた。見た瞬間にわかっていた。でも言葉にならなかった。
東京だった。人だけが消えた東京だった。コンビニの看板が光っていない。駅の改札が開いたままだった。公園のベンチに、誰かが脱いだ上着が置いてあった。
どのくらいそうしていたかわからない。マイは何も言わなかった。風だけが吹いていた。
ようやく声が出た。
「いつから」
「2年くらい前」
「俺が来る前から」
「うん」
「最初から異世界じゃなかった」
「うん」
また黙った。夕日が街に差し込んでいた。誰もいない交差点が、オレンジ色に染まっていた。青信号に変わる必要のない交差点が。
「魔法陣も」
「私が作った」
「ギルドも」
「私が作った」
マイが続けた。
「私は」
一拍置いた。
「私はなんでもできるの、本当になんでも」
風が吹いた。どこかの窓が開いたままで、カーテンが揺れていた。
カイは何も言えなかった。怒る気にもなれなかった。ただ、眼下に広がる誰もいない東京を見ていた。
2年前まで、ここに1400万人いたはずだった。
「一人だったから」マイが言った。「誰かと話したかった。でも二回失敗した」
「失敗?」
「普通に話しかけた。うまくいかなかった。」
「なんで駄目だったんだ」
「信じてもらえなかった。どちらも最終的に気味悪がられた」
マイは東京を見ていた。
「カイも同じになると思う。でも、もう無理だった」
カイは答えなかった。
誰かの洗濯物が、まだ風に揺れていた。
◇◇◇
カイはしばらく東京を見ていた。
それから気がついた。
「え、そういえば、山梨は」
マイが黙った。
「俺の家族は」
「……日本全体が同じ」
頭が真っ白になった。
「俺の父さんは」
「うん」
「死んだのか」
「うん」
答えが早かった。知っていたんだ、と思った。最初から全部知っていたんだ。
カイは目を閉じた。父親の顔が浮かんだ。山の中で罠を仕掛けながら、無口で、でも丁寧に教えてくれた父親の顔が。
怒りが来ると思った。でも来なかった。ただ、抜けていく感じがした。何かが全部抜けていく感じが。
「日本全体?世界全体じゃないのか?」
「日本だけ。最初は」
「最初は?」
「今は広がってる。でもまだ日本が一番濃い」
カイは目を開けた。東京を見た。誰もいない道路に、2年前の車が止まったままだった。行き先のない車が。
「なんで日本だけ」
マイは少し黙った。
「私のせい」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。
カイは聞かなかった。今は聞けなかった。
風が吹いた。どこかのコンビニの袋が、道路を転がっていった。誰も捨てたわけじゃない袋が。
◇◇◇
しばらく、二人とも何も言わなかった。
風だけが吹いていた。
カイはやっと口を開いた。
「お前、何歳だ」
「16」
そうか、と思った。それだけだった。
「カイは」
「18」
マイは小さく頷いた。
また沈黙が来た。
誰かの洗濯物が、まだ風に揺れていた。
「どうしたい」とカイは聞いた。
マイは少し考えてから言った。
「わからない」
「そうか」
「カイは」
「わからない」
東京が静かだった。夕日が沈んでいく。誰も見ていない夕日が。
カイはマイを見た。
「聞かせてくれるか」
「何を」
「私のせい、って言ったこと」
マイは東京を見たまま、少しだけ目を細めた。
風が吹いた。
「長くなるよ」
「どこにも行かない」
マイはそれを聞いて、ゆっくりと息を吐いた。
夜が来ようとしていた。誰もいない東京に、二人だけがいた。




