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第9話 新体制スタート! 世界の台本アップデート計画





 宰相補佐室の扉を開けた瞬間、私は固まった。


 山。


 そこにあるのは、書類の山以外の何物でもない。机の上、棚の上、床の上、窓辺にまで紙の塔が積み上がっている。


 懐かしくなんて、まったくない。


「エリアス様。率直に申し上げてもよろしいです?」

「言え」

「これは、災害指定レベルの書類過多ですわ」


 机の向こうでペンを走らせていたエリアス様が、顔を上げた。灰色の瞳が、うっすらと疲れている。


「王太子失脚と新体制の立ち上げで、一時的に案件が増えているだけだ」

「その『一時的』が何年続くおつもりです?」

「……言いにくい質問だな」


 ですよね。


 私は一番手前の書類の束をぱらぱらとめくった。


「決裁文書のフォーマットが全部ばらばらですわね。前例踏襲と、その場の気分で作っていません?」

「役所というものは、だいたいそういうものだ」

「前職でも聞いた台詞ですわ」


 ため息をひとつ。


「では、本日よりここを、脱・ブラック官庁仕様にいたします」

「そんな人事異動の発令は出ていないが」

「自発的業務改善ですわ。タルト代くらいは請求しますけれど」

「妥当な対価だな」


 即答された。そこはもう少し渋ってほしい。



 まず着手したのは、テンプレートの作成だった。


 案件ごとに微妙に違う決裁文書を、用途別に三種類に統一。決裁ルートの一覧を作り、誰がどこで止めているのか一目で分かるようにする。ついでに「進捗どうですか」禁止メモも、こっそり端っこに書いておいた。


「……本当に一日で終わるとは思わなかった」


 夕方、机の上の書類の山は、きれいに三つのトレイに振り分けられていた。


「『起案前』『決裁待ち』『差し戻し』。この三つに分けるだけで、誰が何を抱えているか一目で分かりますわ」

「きみが来てから、残業時間が半分になった」

「本当ですの?」

「体感ではなく、記録上だ」


 壁際には、今月からの退庁時刻グラフが貼ってあった。棒グラフが、私の出勤日から右肩下がりである。


(数字で見せられると、少しくすぐったいですわ……)


「ただし」


 エリアス様が、じっとこちらを見つめる。


「同時に、きみの作業量も尋常ではない。きみが過労死ルートに乗るのは論外だ」

「……そこは全力で回避したいですわね」


 お互い真顔で頷き合ってから、私はそっと目を閉じた。


 宰相補佐室の静かな空気の中で、意識だけを別の場所へ切り替える。


 ――果てしなく続く帳簿の廊下。


 世界の台本、物語台帳の中枢。


(今日は、別ページの監査ですわね)


 指先で、一冊の背表紙をなぞる。


 王国官僚録。


 ページを開いた瞬間、背筋が冷たくなった。


 そこには細かな字で、無数の名前と行が並んでいる。


 若手書記官、三年後、過労により倒れる。

 戦時補給官、補給不足により戦死。


 どの行も、インクがやけに濃い。


「……ちょっと待ってくださいません?」


 思わず本に向かってツッコミを入れてしまう。


「誰が承認しましたの、この仕様」


 処刑エンドこそ消した。けれど、この世界のブラック台本はまだ山ほど残っている。


(元社畜として、見過ごせませんわね……)


 私は赤ペンを握りしめた。


 若手書記官の行の横に、一文を書き足す。


 → 持病悪化前に、負担の軽い部署へ配置転換。業務量見直し。


 ペン先を離すと、こめかみがきりきりと痛んだ。インクの色が、ほんの少しだけ薄くなる。


 戦時補給官の行にも、別の案を添える。


 → 補給体制を改善。兵站の専門部署を新設。本人は前線ではなく本部勤務へ。


 その瞬間、ページ全体がぐらりと揺れた。



「……すごいな」


 現実へ戻ると、エリアス様が窓の外を見ていた。


「どうかなさいまして?」

「今、王宮の人事局から連絡が入った。『若手官僚の配置転換と、会計局の増員案が宰相に上がってきた』そうだ」

「仕事が早いですわね、世界補正」


 思わず苦笑する。


「補給体制の見直しも、将軍たちの間で話題になっている。『補給専門の部署を置くべきだ』と」

「それはぜひ置いてくださいませ。戦場でブラック仕様とか、笑えませんわ」


 私の愚痴交じりの一言に、エリアス様がわずかに口元をゆるめた。


「やはり、きみの赤ペンは世界規模の残業対策だな」

「そんな大層なものではありませんわ。ただの、前職からの恨みの結晶です」



 とはいえ、世界の仕様変更には反発もつきものだ。


「必要な犠牲というものはある」


 クロイツェル侯爵邸の応接室で、低い声が響いた。


 エリアス様の父、コンラッド侯爵。現宰相にして、筋金入りのリアリストである。


「戦場でも官庁でも、全員を救うことなどできん。過労死と言うが、国のために命を削った働き者とも言える」

「お義父様候補、その考え方自体がブラックですわ」


 つい敬語がおかしな方向へ滑った。隣でエリアス様が、わずかに肩を揺らす。


「グランツ公爵令嬢」

「はい」

「きみの功績と能力については、私も評価している。だが、すべての悲劇を消そうとするのは、夢物語だ」

「すべてを消すことはできませんわ」


 私は膝の上で、指先をきゅっと握った。


「ただ、『避けられたはずの死』まで仕様として固定する必要はないと思っております」


「……ほう」


 コンラッド侯爵の視線が、値踏みするようにこちらへ向く。


「過労で倒れる前に配置転換できたかもしれない人。補給さえ届けば死なずに済んだ兵士。そういった行を『仕方なかった』で済ませる台本は、わたくしの感覚では不良品ですわ」


「国のために命を削る覚悟を否定するわけではありません。けれど、『削らなくて済む命』まで、あらかじめ捨て駒にする必要はないと思うのです」


 言い終えたとき、自分の声がわずかに震えていることに気づいた。


 エリアス様が、さりげなく椅子を引き寄せ、指先が私の手の甲を軽く叩く。落ち着け、という合図だ。


「父上」

「何だ、エリアス」

「彼女の案は、決して夢物語ではない。物語台帳の行が変われば、現実もそれに『寄る』。すでにいくつかの部署で、統計上の改善が見え始めています」


 エリアス様の声は静かだが、芯が通っていた。


「犠牲がゼロになることはない。しかし、減らす努力を放棄する理由にはならない。これは、監査一族としての意見であり、宰相補佐としての結論でもあります」


 コンラッド侯爵は長い沈黙ののち、ふっと息を吐いた。


「……王に、同じことを言われた。『犠牲なしの改革などないが、減らす努力はすべきだ』とな」


 口調は皮肉めいているのに、目の奥にかすかな苦笑が浮かんでいた。


「好きにしろ。ただし、結果は出してみせよ」

「もちろんですわ」



 新体制は、地味に、しかし確実に動き始めていた。


 だが、過去の幽霊行は、そう簡単には消えてくれない。


「最近、この通りで事故が妙に多いのです」


 王都南側の石畳の通りで、町人たちが口々に訴えていた。


「誰もいないのに荷車がひっくり返ったり、子どもがつまずいたり。祈祷師を呼んでも、はっきりした原因が分からなくて……」


 私は通りを見渡す。


 昼間だというのに、妙な違和感が肌を撫でていく。


(この感じ、知ってますわね)


 視界の隅に、ふわりと紙片の影が浮かぶ。


 簡易版物語台帳。


 そこには、小さな一行が残っていた。


 王都南通り、馬車事故により子ども死亡。


「……ここ、わたくしの処刑ルートだと、断罪後に護送車が通る道でしたわね」


 前世のゲームのマップが頭に浮かぶ。断罪イベント後、悪役令嬢が護送されるルートで、画面の端に血の跡があった。あれは、こういうバッドエンドの名残だ。


「幽霊行か」

「ええ。台本上では『事故死』が予定されていたのに、断罪ルートを書き換えたせいで行き場を失っている、みたいな」


 説明すると、エリアス様は顎に手を当てた。


「行き場を失ったフラグが、あちこちで小さな事故として暴れているわけか」

「放置すると、そのうち大事故に化けかねませんわ」


 赤ペンを取り出し、簡易台帳の余白に書き込む。


 → 重大事故は発生せず。ただし、通りの構造的な危険性を早期に認識。

 → 看板設置、石畳の段差修正、夜間照明増設。


 ペン先が紙を走るたび、通りの空気が少しずつ変わっていく。


 近くの石畳が、職人たちの手で均され始める未来。

 「子ども飛び出し注意」の看板が立てられる未来。


 幽霊行の文字が、じわりと薄れていく。


「……頭、痛くないか」

「正直、少し。ですが、これくらいなら」


 言い終えるより早く、エリアス様の手がそっと私の肩に触れた。


「今日はここまでだ。残りの幽霊行は、明日以降に分割する」

「業務を分割するという発想、大好きですわ」

「元社畜の指導の成果だ」



 世界の台本アップデートを進めているうちに、もう一つ、重要な習慣も根付きつつあった。


「今週も、お疲れさまですわ」

「宰相補佐室と物語台帳監査室を兼務する婚約者殿こそな」


 夕暮れの琥珀通り。《青いティーカップ亭》の個室で、私たちは向かい合って座っていた。


 目の前には、今週の新作タルト。


「本日のおすすめは、蜂蜜とナッツのタルトです!」


 元侍女で今は店員のニナが、きらきらした笑顔で皿を置いてくれる。


「情報の代金は、いつものように感想文でお願いしますね、お嬢様!」

「もちろんですわ」


 ニナが下がったあと、タルトから立ちのぼる甘い香りに、思わず頬がゆるむ。


「いただきます」


 一口かじると、香ばしいナッツと蜂蜜の甘さが、舌の上でほどけていった。


「……幸せですわ」

「そうか」


 エリアス様が、じっとこちらを見ている。


「エリアス様もどうぞ。あー……」


 危うく前世のノリで「あーん」をやりかけたところで、急ブレーキをかける。


「……いえ、自分でどうぞ」

「途中まで言っていたな」

「記憶から削除してくださいませ」


 耳まで熱くなるのを感じながら、紅茶で誤魔化す。


「きみとタルトは、どちらも同じくらい甘い」


 さらっと放たれた一言に、紅茶が気管に入りかけた。


「な、何をさらっと言っておりますの」

「事実を述べただけだ」

「事実認定をする前に、心の準備時間というものをですね……!」


 私がばたばたしていると、エリアス様は、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「甘やかすと言っただろう」

「だからといって、糖分過多ですわ……」


 でも、嫌ではない。前世では一度ももらえなかった言葉だ。


「……では、その言葉を信じて、本日はこれ以上仕事の話はしないことにいたします」

「賢明な判断だ」



 その夜。


 寝台に横たわった私は、いつものように目を閉じた。


 帳簿の廊下へ。


 物語台帳のページをめくりながら、今日書き換えた行を確認していく。


 若手官僚の配置転換。

 補給官の生存ルート。

 王都南通りの安全対策。


 どの行も、以前より少しだけインクが薄く、穏やかな色になっていた。


「ふう……」


 赤ペンをしまい、ページを閉じかけたとき。


 視界の端で、別の一冊が強く輝いた。


 北方辺境記録。


 背表紙に指を伸ばした瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。


 ページを開く。


 そこには、見覚えのある名前が並んでいた。


 元王太子ハル・ヴァン・ルーヴェン。

 元聖女候補ミリア。


 二人の行は、太い取消線で王都の項目から消され、その下に新しい地名が記されている。


 北方辺境教会にて奉仕。


 一見すると、更生ルートへの移行に見える。けれど、その行のインクは、他のどの行よりも濃かった。まだ何かが決まっていないと主張するように。


「……落ち着いている、わけではありませんのね」


 小さく呟くと、インクがかすかにざわめいた。


 破滅フラグは折った。けれど、台本の外側へ踏み出そうとしているのは、私たちだけではない。


(そろそろ、様子を見に行った方がよさそうですわね)


 北方の雪、辺境教会、元王太子と元聖女候補。


 処刑ルートでは、決して到達できなかった場所。


 今度は、視察と旅行のついでに行けばいい。もちろん、雪国スイーツの新規開拓も兼ねて。


 そう決めた瞬間、ページの端に、新しい細い行が浮かび上がった。


 エルヴィラ・フォン・グランツ、公爵令嬢。氷の宰相補佐と共に、北方辺境へ視察に赴く。


「……本当に、何でも書きますわね、この帳簿」


 呆れ半分、期待半分で赤ペンを握り直す。


 次のページをめくれば、きっとまた、ゲームには存在しなかった行が続いている。


 台本のない物語を選んだ悪役令嬢の残業は、どうやらもう少し続きそうだ。


 ただし、その報酬はタルトと休日付きで。


第9話までお読みいただきありがとうございます!


元社畜悪役令嬢によるブラック官庁改革と、氷の宰相補佐との糖度高めな残業ライフを少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。

次回からはいよいよ北方辺境編。元王太子&元聖女との再会で、物語も大きく動いていきます。


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