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第8話 氷の宰相補佐の不器用な求婚

 断罪パーティから、そう時間はたっていなかったはずだ。

 けれど、王城のバルコニーに吹き込む夜風は、現実感を連れてきてくれない。


 足元には、灯りに縁取られた王都の屋根が広がっている。大通りの先、南寄りの一角には、甘い香りが似合いそうな路地が並んでいた。琥珀通り。スイーツだらけの楽園。


(……あそこ、今ごろまだ開いているお店もありますわよね)


 そんなことを考えてしまうあたり、我ながら平常運転だと思う。

 さっきまで大広間で、人生と王国の命運がかかった大騒ぎをしていた人間の思考とは思えない。


「エルヴィラ」


 背後から名前を呼ぶ声に、振り返る。


 深い青の官僚服。きちんと結われた灰色の髪。

 氷の宰相補佐、エリアス・フォン・クロイツェル様が、バルコニーの入り口に立っていた。


「こんなところにいたのか」


「少し、風に当たりたくて」


 完璧な令嬢スマイルを浮かべたつもりだった。

 けれどエリアス様は、わたしの顔を一目見て、ほんの少し眉をひそめる。


「……疲れただろう」


「ええ、少々。処刑フラグと王国破滅フラグを同時に叩き折る仕事は、残業案件ですわ」


「残業案件という表現はやめろ」


 小さくため息をつきながらも、彼の声はどこか緩んでいた。

 肩に薄いマントをかけられて、思わず瞬きする。


「風が冷たい。風邪を引かれると、俺の仕事が増える」


「そこですのね、心配の理由」


「もちろん、それもだ」


 それも、という言葉に、胸の奥がじわりと温かくなる。


 しばらく、2人で黙って夜景を眺めた。

 王都の灯りは、思ったよりも柔らかい。雪国育ちのわたしには、少し眩しいくらいだ。


「……終わりましたわね」


 ぽつりと漏れたのは、安堵なのか、寂しさなのか。

 自分でもよく分からない。


「断罪パーティのことなら、ひとまずは、だな」


 エリアス様は、夜空を見上げたまま答える。


「王太子位剥奪の正式な布告や、辺境送りの手続きはこれからだ。だが、きみの処刑行は、もう消えている」


 胸がどきりと跳ねた。


「……ご覧になったのですか、物語台帳」


「ああ。神殿の監査室に、さっきまでいた」


 彼は淡々と続ける。


「エルヴィラ・フォン・グランツ、公爵令嬢。断罪、処刑」


 聞き慣れた不名誉ワードが並ぶ。思わず背筋がこわばった。


「その行全体に、太い取消線が引かれていた。欄外には『旧ルート・台本修正済み』」


「……本当に」


 夢で見たページと、同じ光景。


「その下に、新しい行が浮かんでいた」


 エリアス様が、こちらを振り向く。


「『氷の宰相補佐と共に、王国新体制の監査役として参加』」


 言葉にされた瞬間、胸のあたりがきゅっと締め付けられた。

 怖かったあの数文字が、やっと過去形になったのだと、遅れて実感が押し寄せる。


「……やっと、ですね」


 視界がにじみそうになるのを、慌てて扇子で隠す。


「わたくし、本当に、処刑されずに済んだんですのね」


「済んだ」


 短い返事は、氷の二つ名が似合わないくらい、あたたかかった。


「きみが『要再検証』と書き込んだあの夜から、ずっと変わり続けていた。台本も、世界も、きみ自身も」


「書き込んだといっても、たった数文字ですわ」


「その数文字が、未来を丸ごとずらした」


 エリアス様は、淡々と告げる。


「最初は、監査一族として警戒した。世界の仕様書に赤を入れる人間など、危険因子として扱うのが普通だ」


「ごもっともですわね」


「だが、結果としてきみは、自分の処刑だけでなく、他人の過労死や小さな事故も、少しずつ減らしていった。……台本にとっては、想定外のバグ修正だ」


 バグ修正。

 前世で散々聞かされた単語が、今は褒め言葉みたいに胸に響く。


「エリアス様は、それでも見捨てずにいてくださったのですね」


「見捨てる理由がない」


 きっぱりと言われて、息が詰まる。


「きみは自分の首を守るために動き始めた。だが途中から、『どうせなら他人の悲劇も一緒に減らしたい』と考えるようになった」


「……そんなふうに、格好よくまとめていただくほどでは」


「自覚がないのが一番厄介だ」


 思わず笑ってしまう。

 すると、彼の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「エルヴィラ」


 名前を呼ばれるだけで、心臓の鼓動が早くなるのは、きっと世界補正のせいではない。


「さっきの大広間で、王は『王家として婚約を承認する』と言った」


「はい」


「俺も、監査一族の後継ぎとして、それを受け入れた」


 淡々とした確認。

 でも、その裏にあるものは、さっき見せられた公開プロポーズで、嫌というほど感じている。


(ほんと、あれは心臓に悪すぎましたわよ……)


 会場の歓声と悲鳴を思い出して、頬が熱くなる。


「ただ一つ、まだきちんと伝えられていないことがある」


 エリアス様が、少しだけ視線を落とした。

 あの氷の宰相補佐が、言葉を探している。珍しい光景だ。


「さっきのは、王と監査一族の判断としての婚約だった。国のため、新体制のための筋書きでもある」


「……そうですわね」


「だがそれとは別に」


 彼は、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 白い手袋をしたわたしの手を、そっと取る。


「ひとりの男として、きみを選びたい」


 夜風の音が、一瞬消えた気がした。


「前の世界で、きみは台本通りに働き、倒れた」


 どきりとする。

 断罪パーティの準備の中で、何度か話してしまった前世の断片。


「誰も『休め』『無理をするな』と言ってくれなかった。きみが倒れるまで」


「……はい」


 その通りだ。

 だからこそ、今世では絶対に同じ轍を踏みたくなかった。


「今世では、それを俺が言う」


 エリアス様は、はっきりと言い切った。


「限界になる前に、『疲れた』『怖い』と言え。言ったら、その場で仕事を止めさせる」


「なんだか、すごく有能な上司の宣言みたいですわね」


「上司ではなく、婚約者だ」


 さらりと訂正されて、心臓がさらに忙しくなる。


「仕事をしないきみの価値も、覚えさせたい」


「え」


「何もしていなくても、いてくれるだけで助かる人間がいる、と」


 世界補正よりもずるい言葉だと思った。


「きみが死にたくないと言うなら、筋書きごと変える。台本の外側で、生き続けられるように」


 それは、前世のわたしが、誰かに言ってほしかったすべてだった。


「……エリアス様」


 うまく言葉が出てこない。

 喉の奥がきゅうっと締め付けられて、代わりに涙がにじみそうになる。


「わたし、今でも怖いんですのよ」


 やっと絞り出したのは、綺麗でも強くもない本音だった。


「物語台帳はまだ、あちこちに過労死や戦死の行を書き込んでいますわ。ブラック企業顔負けの仕様書ですもの」


「知っている」


「わたくしの行は消えたとしても、世界のどこかで誰かが倒れるかもしれない。……全部を救えるわけではないって、分かっているのに」


 そこで、言葉が途切れた。

 エリアス様が、少しだけ近づく。


「全部救えなくていい」


 静かな声だった。


「だが、きみが『ここだけは変えたい』と思った行には、できる限り付き合う。監査一族と宰相補佐として」


「……共犯者として、ですわね」


「そうだ。そして」


 彼は、わたしの手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。


「共犯者であり、婚約者として。きみを甘やかす権利を、正式に要求したい」


「甘やかす権利って、新しい契約条項ですわね」


「監査一族の家訓には載っていないが、今から追加する」


 思わず、くすりと笑ってしまう。

 笑いながら、頬を伝いそうになった涙を、夜風に紛れさせた。


「……はい」


 わたしは、はっきりと頷いた。


「どうかこれからも、暴走しそうなわたくしを全力で止めてくださいませ、エリアス様」


「任せろ」


 短い返事なのに、世界で一番心強く聞こえる。


「それから」


「はい?」


「きみが本当に倒れる前に、定期的な点検をする必要がある」


「点検……健康診断の話でしょうか」


「甘い物の補給だ」


 真顔で言われて、思わず変な声が出そうになる。


「王都の琥珀通りには、甘い物の店が多いと聞いた。タルトが得意な店もあるらしい」


「……存じておりますわ」


 むしろ、前世から数えても、攻略したい店リストは頭に入っている。


「週に一度くらいは、宰相補佐室を抜け出して、きみを連れ出す。『甘味補給とストレスチェック』という名目なら、仕事の一環だ」


「ずるい理屈ですわね」


「誉め言葉として受け取っておく」


 彼が珍しく口元をゆるめたので、こちらもつられて笑う。


「では、その定期点検……いいえ、デートの件。喜んでお受けいたしますわ」


「了解した」


 王都の灯りが、さっきよりも近く感じられた。

 琥珀通りの甘い匂いが、ここまで届いてきそうな気がする。


   ◇


 その夜。


 眠りに落ちたわたしは、またあの廊下を歩いていた。

 果てしなく続く帳簿の列。インクと紙の匂い。


 前と違うのは、胸の奥の重さがいくらか軽いこと。


 ラグランジュ王国史の分厚い一冊が、ふわりと前へせり出す。

 ページをめくると、先ほどエリアス様が言った通り、「断罪。処刑」の行には太い取消線が引かれ、その下に新しい行が光っていた。


 氷の宰相補佐と共に、王国新体制の監査役として参加。


「……ここまでは、クリアですわね」


 ひとりごちてから、ふと視線を横に向ける。


 今まで気づかなかった扉が、帳簿棚の隙間に開いていた。

 引き寄せられるように近づき、そっと手をかける。


 中には、まっさらなページが1枚だけ、静かに浮かんでいた。


 何も書かれていない。ただ、上部に薄く名前が2つ。


 エルヴィラ・フォン・グランツ。

 エリアス・フォン・クロイツェル。


「……真っ白ですこと」


 思わず笑みがこぼれる。


「処刑エンドも、王国破滅も、残業死も書いていないページ。こんな上等なキャンバス、そうそうありませんわよ」


 指先で、そっと紙の端をなぞる。


「さて、共犯者殿。ここにどんな行を書き足していきましょうか」


 甘い物で埋め尽くされた休日の予定表でもいい。

 過労死フラグを片っ端から潰していく改革案でもいい。


 前世のブラック企業には絶対に存在しなかった、「自分で選んでいい未来」の余白。


「まずは、休日とスイーツ確保、最優先ですわね」


 そうつぶやいた瞬間、真っ白なページが、くすりと笑ったように揺れた。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!

第8話までお付き合いくださったあなたの時間が、少しでも甘くて楽しいものになっていたら嬉しいです。

「続きも読んでもいいかな」と感じていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると、今後の更新の大きな励みになります。


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