第8話 『到着』
村を出てから、三日が経過した。ついに霧の谷の入り口に到着した。
「……あれが、霧の谷か」
春人が立ち止まり、遠くを見つめる。
谷はまるで深い眠りに包まれているように、静かに霧を湛えていた。
その霧は風に流れることなく、地面に這うように漂っている。
ユウも足を止め、真剣な表情で言った。
「ここから先は、気を引き締めないと。霧の中では、幻影が見えることがあるって言われてる。記憶に触れる霧……って、長老が言ってた」
「さてと、ユウ。どう攻略する?」
「霧の中では方向感覚が狂うらしい。だから、互いの声を頼りに進むしかない」
白い靄が地面を這うように漂い、視界はすでに曖昧だった。
「よし、準備はいいか。ユウ」
「あぁ……霧の谷に入るぞ」
*
二人は互いの声を頼りに、霧の谷を慎重に進んでいた。
足元の草が白く濡れ、視界は数メートル先までしか届かない。
音も、空気も、どこか異質だった。
そのとき――霧の奥で、何かが揺れた。
「……ユウ、今の見えたか?」
春人が立ち止まり、目を凝らす。
ユウもすぐに足を止め、警戒するように短剣に手を添えた。
霧の向こうで、影がゆらりと揺れている。
人影のような、幻のような。
風もないのに、輪郭だけがゆっくりと近づいてくる。
「……誰か、いる」
二人は息を潜め、じっとその姿を見つめた。
やがて、霧が少しずつ晴れていく。
ぼんやりとした輪郭が、次第に人の形を成していく。
そして――その姿がはっきりと現れた。
「……ミナ……?」
ユウがそう呟く。
そこに立っていたのは、確かにミナだった。
あの優しい瞳。あの柔らかな髪。
けれど、彼女は何も言わず、ただ霧の中に佇んでいた。
「ユウ、あれは幻影だ。本物のミナは村にいる」
「あぁ、分かっている」
攻撃してくる気配も、声を発する様子もない。
ただ、そこに“いる”。
「……どうするべきか」
春人は短剣を握り直しながら、思案する。
このまま素通りしていいのか。
それとも、何か反応を待つべきなのか。
霧が揺れる。
空気が、わずかに張り詰める。
――そのときだった。
ミナの体が、かすかに動いた。
ほんの少し、首が傾いたように見えた。
まるで、春人たちの存在に気づいたかのように。
「……ユウ、どうして私を置いていったの?」
その声は、霧の中からふわりと届いた。
柔らかく、けれど確かに胸を突く響きだった。
ユウの心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
その姿、声、仕草――すべてが、あまりにも“本物”だった。
「ミナ……? ミナ、なのか……」
思わず名前を呼んでいた。
足が勝手に前へ出る。
理性が止めようとしても、心が追いかけていた。
霧の中に立つ彼女は、まるであの日のまま。
眠る前の、笑っていた頃のミナだった。
ユウは短剣を下ろし、そっと手を伸ばす。
その指先が、幻に触れようとした――
その瞬間だった。
霧の中に立っていた“ミナ”の姿が、ぐにゃりと歪んだ。
髪が逆立ち、瞳が闇に染まり、口元が裂けるように広がる。
まるで人の形を模した何か――異形の魔物へと変貌していく。
「っ……!」
春人は反射的に木製の短剣を抜き、迷うことなくそれを投げつけた。
短剣は空を裂き、異形の胸元に突き刺さる。
だが、魔物は血を流すこともなく、ただ不気味に笑った。
「ユウ! そいつは、ミナなんかじゃない! 魔物だ!」
叫びは霧を突き抜け、ユウの耳に届いた。
その声に、ユウはようやく我に返る。
目の前にいたのは、記憶を喰らう幻影――
ミナの姿を借りた、霧の谷の魔物だった。




