プロローグ 『ゲームの世界へ』
夜の静寂は、まるで世界が息を潜めているかのようだった。
部屋の中には、パソコンの冷却ファンの音と、キーボードを叩く軽快なリズムだけが響いている。
春人――ハルは、モニターに映る画面をじっと見つめていた。
黒髪でやや長めの前髪が、無造作に額にかかっている。
細身の体にグレーのパーカーを羽織り、スリッパを履き、椅子に浅く腰掛ける姿は、どこか疲れた学生のようだった。
画面には、最新RPG『Memoria Chronicle』のタイトルが浮かんでいる。
友人に勧められて買ったゲーム。作り込みが凄いと話題で、近所のゲームショップで手に入れたばかりだった。
「ちょっとだけプレイして寝よう。明日早いしな……」
春人はマウスをクリックした。
その瞬間、画面がノイズに包まれ、ピリピリとした電子音が耳を刺す。
モニターが白く光り、春人の意識は闇に沈んだ。
*
――風が吹いていた。
草の匂い。空の青さ。肌に触れる陽射し。
春人は目を開けた瞬間、自分が“ゲームの中”にいるとは思えなかった。
それは、あまりにも現実的だった。
五感が、確かにここに存在していた。
「ここは……どこだ?」
彼はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡す。
広がる草原。遠くに見える森と山。
空には見たことのない形の雲が流れていた。
風は優しく、空気は澄んでいる。
だが、どこか違和感があった。
現実とは微妙に異なる色彩。空の青が、少しだけ濃すぎる。
「夢……じゃないよな。これ……ゲームの中なのか?」
春人は自分の手を見た。
感触はある。指も動く。
だが、HUDもメニューも表示されない。
ゲームのUIが存在しないことに、彼は不安を覚えた。
その時、遠くから誰かが駆けてくる音がした。
足音は軽く、リズムが一定で、どこか急いでいるようだった。
「大丈夫!? 君、倒れてたから……!」
声とともに現れたのは、ひとりの少年だった。
年の頃は15歳ほど。
栗色の髪が風に揺れ、額にかかる前髪の隙間から、澄んだ青い瞳がのぞいていた。
素朴な麻布のチュニックに革のサンダル。
腰には小さなポーチをぶら下げていて、旅人というよりは村の少年といった雰囲気だった。
その瞳には、心配と驚きの感情が宿っていた。
「えっと……君は?」
「僕はユウ。君こそ、どうしたんだ? こんな場所で」
状況を飲み込めてはいないが、とりあえず会話を続けるため、春人は適当な返事をした。
「道に迷ってしまって……ここはどこなんです?」
「ここは、リクヴィル村の近くの草原だよ。村まではすぐだ」
リクヴィル村――聞いたことのない地名だ。
少なくとも日本には存在しない。海外の地名でもないように思える。
「そうなんだ……ありがとう」
「そういえば、君の名前は?」
「春人。ハルって呼んでくれ」
「ハルか。よかったら、村に来ない? この辺りは夜になると魔物が出るから危ないんだ」
「魔物……?」
「うん。夜になると活性化して、凶暴になる。村の外で一人は危険だよ」
春人は頷いた。
ユウの言葉は理にかなっている。
それに、彼の話し方や表情は、NPCにしてはあまりにも人間らしい。
「じゃあ、ユウの村に行かせてもらうよ」
「もちろん。こっちだ」
そう言って、ユウは白い歯を見せて笑った。
その笑顔は、まるで本物の人間のものだった。
春人は、その笑顔に少しだけ安心を覚えた。
*
二人は並んで草原を歩き始めた。




