第4話 この旅に目的はまだないけれど
森を抜け、開けた道に出たのは、牙虎との戦いから二日後のことだった。
木漏れ日の中、獣の気配もようやく消えてきて、ようやく人の世界へ戻ってきたような気がした。
「この先に小さな村があると、地図には記されていました」
フィーネが、丁寧に折りたたまれた古びた地図を手に歩いている。
「地図、見えるの?」
「はい。方向音痴ではありませんので」
「……なんか、遠回しに馬鹿にされてない?」
「いえ。遠回しではなく、わかりやすく、です」
「そっちの方が辛い……」
「ふふっ」
フィーネが、口元に小さな笑みを浮かべた。
これまでの彼女からは想像できないくらい、柔らかい表情だった。
******
「……それにしても、空が広いですね」
開けた高台を登ったとき、フィーネがぽつりと呟いた。
俺たちの視界には、緑の平原と、遠くに見えるいくつかの家々が広がっていた。
あれが目指している村だろう。
「久しぶりに……こんなに、何もない景色を見ました。剣も鎧もない、静かな場所……」
「懐かしい?」
「……少しだけ、です。子供のころ、城から見た草原がこんな感じでした」
そう言った彼女の横顔には、わずかに寂しさが混じっていた。
******
平原を歩く途中、運よく小川を見つけた。
俺はそこで水を汲み、フィーネは顔を洗っていた。
「水、冷たくて気持ちいいです」
「あんまり長く浸けてると、冷えすぎるぞ」
「はい……でも、気持ちいいので……」
顔を拭きながら、彼女はうっとりしたように目を細める。
思えば、あの朽ちた廃墟で出会ったときとはまるで別人みたいだった。
少しずつ、表情が増えてきている。
それが――なんだか、嬉しい。
******
「リオさん……あれ、何ですか?」
少し歩いた先、木陰の近くでフィーネが立ち止まった。
目線の先には、見慣れない果実がたくさん実った木がある。
「ん? あれは……」
適当に近づいて、手を伸ばして一つ取る。
見た目は青りんごに似てるが、皮に小さな斑点がある。
「……大丈夫か、それ?」
「毒がなければ、たぶん食える」
俺がそう言って丸かじりすると、フィーネが少し慌てたように駆け寄ってきた。
「ちょっ……! 毒味せずに食べるのは危険です!」
「うん、甘いぞ。ちょっとだけ渋みあるけど」
「……本当に、大丈夫なんですね?」
俺がうなずくと、フィーネも恐る恐る一つ取って、
じっと見つめ――ぱくりと一口。
「…………っ!」
「ん? どうした?」
「……お、おいしいですっ……!」
その顔が、今まで見た中でいちばん幸せそうだった。
両手で大事そうに果実を持ちながら、無防備に笑っていた。
……こんな顔、できるんだな。
「もうひとつ、いただいても……?」
「いくらでも食っていいよ。運よく見つけたんだし」
「……ほんとうに、リオさんの運は底が知れませんね」
「それ、褒めてる?」
「今は、褒めているつもりです」
******
その日の夕方、村の入り口にたどり着いた。
こじんまりとした木造の家が並び、風車がゆるやかに回っている。
冒険者や旅人向けの宿も見つかった。
「……久しぶりの、ちゃんとした屋根のある場所ですね」
「俺もだよ。雑魚寝じゃない寝床って、何週間ぶりだ……」
受付で宿をとると、主人が驚くような目をしていた。
「本当に、空き部屋が一つだけ残っていたとは……! 先週までは満室続きで、予約も取れなかったんですよ」
「へぇ……」
また運か。
こんなタイミングで、ぴったり一部屋だけ空いてるとは。
「……一部屋しかない、のですか?」
フィーネが困ったように眉を寄せた。
その表情が、なんとも言えず愛らしかった。
「ご安心ください。私は、床で結構ですので」
「いや、それはダメでしょ。ベッド使っていいよ、俺は椅子でも借りる」
「……では、交代で休むというのはどうでしょう。二交代制で」
「それもう宿とる意味ないよな……」
「ふふっ……たしかに」
二人で笑った。
それは、旅の始まりにふさわしい、穏やかな時間だった。
******
夜。
窓の外には月が浮かび、宿の灯りが柔らかく揺れていた。
フィーネはベッドに腰かけながら、ふとこちらを見て言った。
「リオさん」
「ん?」
「……こうして、誰かと一緒に旅をするのは、久しぶりです。誰かの横にいるって、こんなに落ち着くものなのですね」
「……そっか。俺も、そんなふうに言ってもらえて、嬉しいよ」
「……次の偶然も、楽しみにしていますね」
「ふふ、なんか無茶ぶりされてる気がする」
「気のせいです。……たぶん」
そう言って、彼女はくすっと笑った。
その笑みはもう、あの“亡霊のような顔”じゃなかった。
******
旅の目的は、まだない。
でも、隣に誰かがいてくれるだけで――
今は、それで十分だった。