第3話 私とあなたが生きているという結果
朝露が残る森の空気は、冷たいというより、少し痛かった。
フィーネと共に、朽ちた礼拝堂を後にして半日ほど歩いた。
今日の目的は決まっていない。ただ、彼女の足取りが少しだけ軽くなっているのを見て、俺は少し安心していた。
「……やはり、森は静かですね。獣の気配も、魔物の咆哮もない。少し、違和感があります」
「魔獣が絶滅したとか?」
「いいえ……静かすぎるのです。“気配を消している”ような、不自然な静けさです」
そう言った直後、彼女がふいに立ち止まった。
そして、しゃがみ込んで地面を指でなぞる。
「足跡……牙虎です。しかも三体分。おそらく、近くに群れがいるかと」
「牙虎って……たしか、筋骨隆々の猫みたいな魔獣か?」
「そうです。Bランクの討伐対象ですね。腕の立つ冒険者でないと、囲まれればまず助かりません」
「……逃げる?」
「できるものなら、そうしたいところですが……」
フィーネが周囲を見回す。
「足音も風の流れも、変です。……気づかれています。来ますよ」
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その瞬間、茂みが音を立てて揺れた。
黒い影が飛び出してくる。鋭い牙、分厚い前脚、金色の目――牙虎だ。
しかも、左右からさらに二体。計三体。完全に囲まれている。
「下がっていてください、リオさん。ここは私が――」
言い終わる前に、フィーネは剣を抜いた。
銀色の細身の剣。それが朝日を浴びて、一瞬だけ星のように光った。
牙虎の一体が唸りを上げながら突進する。
フィーネは構えたまま、ほとんど動かず、それを待っていた。
そして――一閃。
「――っ!」
刃が風を裂き、牙虎の鼻面を斬り裂く。
だが、傷は浅い。怒りに燃えるような咆哮とともに、さらにもう一体が横から飛びかかってくる。
「っ、く……!」
フィーネの動きが一瞬鈍った。足場が悪いのか、それともまだ完全に回復していないのか。
このままじゃ――!
「危ない!」
俺は叫ぶと同時に、咄嗟に手にした石を放った。
それが、なぜかちょうど飛びかかった牙虎の目元に直撃し、進行方向が逸れる。
牙虎の爪が、フィーネのすぐ横の地面をえぐる。
「……え?」
フィーネが、信じられないという顔をして、俺を見た。
「今の、偶然……ですか?」
「うん、多分。運がいいんだ、俺」
「……いえ、それにしてはタイミングが良すぎます」
そんなことを話している間にも、最後の一体が回り込んできた。
「……さすがに三体同時はきついですね。リオさん、下がってください。本当に」
「無理だって。ここで逃げたら、俺、絶対後悔する」
「……もうっ、仕方ありませんっ!」
フィーネはそう言うと、口調がわずかに崩れ、剣を再度構えた。
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そこからは、めちゃくちゃだった。
俺は武器もスキルもない。
けれど――運だけは、働いた。
石を投げれば牙虎の足に当たり、足をもつれさせた。
足元の枝を踏めば、それが跳ねて魔獣の目をかすめた。
地面が崩れ、偶然転げた俺がフィーネを押した瞬間――彼女の剣が、敵の急所に突き刺さった。
「…………え?」
一番驚いていたのは、フィーネ本人だった。
そして数分後――三体の牙虎は全て地面に沈んでいた。
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「はぁ……はぁ……」
フィーネがその場に座り込み、額の汗をぬぐう。
俺もへたり込んだ。
「……すごい戦いだったな」
「ええ……正直、途中で負けると思いました。ですが……なぜか、あらゆる不運を回避して、最後は勝ててしまった」
「……俺の“運”かな」
「……やはり、あなたのスキル、ただの【運】ではないのでは?」
そう言われて、俺は少し黙る。
「……もしそうだとしても。俺は、ずっと“無能”扱いだったよ。証明もできない、説明もつかない。だから……信じてもらえるの、すごく変な感じだ」
「…………」
フィーネは、少しだけ視線を落とした。
「私は……証明よりも、結果を重んじます。私が生きているという“結果”が、あなたの力であることは……否定できませんから」
そう言ったあと、恥ずかしそうに目を逸らした。
「……っ、べ、別に! だからといって、信頼しているわけではありませんっ!」
「はは……わかってるよ」
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その夜。
ふたりで焚き火を囲むのは、もう三度目だった。
でも、最初の夜とは空気が違った。
言葉は少なくても、沈黙が不快じゃない。
フィーネは、火をじっと見つめたまま、ぽつりと言った。
「リオさん……」
「ん?」
「……その、さきほどの戦い……助けてくださって、本当にありがとうございました」
素直な声だった。
けれど、少しだけ震えていた。
「うん。……どういたしまして」
それだけ答えると、彼女はふわりと微笑んだ。
気高くて、どこか壊れそうだった彼女が、
ほんの一瞬、年相応の女の子に見えた。
世界は、きっとまだ冷たい。
でも今は――この焚き火のぬくもりだけで、十分だった。