第2話 似た者同士
数日分の金と食料を持って、街を出た。
行く宛てなんてない。ただ、あの街の空気に、もういたくなかっただけだ。
幸い、パーティーの雑用係だったおかげで、野営や調理くらいはそれなりにこなせる。
そうして気ままに歩いて、一週間ほどが過ぎた。
足の向くままに辿り着いたのは、北の外れにある放棄された森だった。
かつて魔獣の巣だったらしいが、今は誰も寄りつかない。獣も、人も、死も、何もかもが忘れ去られた場所。
――ぴったりじゃないか、今の俺には。
乾いた枝を踏みしめながら、人気のない林道を進む。
風の音だけが耳に入ってくる。
ふと、道の脇に崩れかけた石造りの建物が見えた。
教会か、古い集会所か……もう原型すらわからないが、雨風は凌げそうだった。
俺はそっと足を踏み入れる。
天井の半分は崩れていて、天光が差し込んでいた。空気は重く、埃っぽい。
「……寝床には、なりそうだな」
古びた椅子をどかし、壁際に腰を下ろす。
腹は減っていたが、食欲はなかった。
しばらく目を閉じて、ただ虚無の中に身を委ねていると――
******
ピシ……パキッ……。
何かの気配が、微かに聞こえた。
風か、獣か、それとも幻聴か。
……違う、これは――人だ。
「っ……」
奥の暗がりから、小さな呻き声が聞こえた。
咄嗟に立ち上がる。物音を立てぬよう、ゆっくりと近づいた。
崩れかけた祭壇の裏――そのさらに奥に、誰かがいた。
「…………!」
息を呑んだ。
そこにいたのは、一人の少女だった。
年の頃は自分と同じくらいか、やや下だろうか。腕を鎖で縛られ、ぐったりと倒れている。
銀色の長い髪が、薄汚れた床の上にさらさらと落ちていた。
肌は透き通るほど白く、薄衣の隙間からは鎖の食い込んだ痕が見えた。
思わず駆け寄る。
「おい、大丈夫か!?」
声をかけると、少女の肩がわずかに震えた。生きている。
でも、かなり衰弱しているようだ。
俺は手を伸ばし、鎖を外そうとした――その瞬間だった。
「……それ以上、近づかないでください」
鋭い声とともに、突き出されたのは小さなナイフ。
少女がこちらを睨んでいた。
その目は血走り、光を失いかけていた。
けれど、剣のような意思が宿っていた。
「あなた……王の命で動いているのですか? それとも、教会の追手……?」
「は? ……いや、違う。誰の手先でもない。通りがかっただけだ」
「通りがかった“だけ”で、こんな場所に立ち入る人間が、いるとは思えませんが……?」
疑うのは当然だった。俺が逆の立場でも、そうするだろう。
「でも、本当なんだ。ただ、ここで野宿しようとしただけでさ。君がいるなんて知らなかった」
「……偶然、ですか。ずいぶん、都合の良い“偶然”ですね」
皮肉めいた微笑を浮かべる彼女。
けれどその笑みはどこか儚げで、壊れそうだった。
「ですが、もう動けそうにありませんので……助けを、求めます。鎖を、外していただけますか」
俺は黙ってうなずき、錠前に手をかけた。
がちゃがちゃといじっていたら――なぜか、ポロリと外れた。
「……え? 今の、どうして……?」
「いや、俺にも分からない……なんとなく、回したら外れた」
「…………また、偶然……ですか」
彼女がぽつりと呟いた声は、今度は少しだけ柔らかかった。
鎖が外れた彼女は膝をつき、崩れるように座り込んだ。
そのまま、ゆっくりと顔を上げて、俺を見つめる。
「お名前を、お聞きしても?」
「……リオ。君は?」
「フィーネ・アーデルハイトと申します。……今では、ただの亡命者ですけれど」
アーデルハイト。
確か、聖王国の王族の名だったはずだ。
「“偶然”で見つけられて、“偶然”で鎖が外れて、“偶然”で命を拾われて。……あなた、いったい何者なんですか?」
「……運がいいだけの、無能だよ」
俺が肩をすくめて言うと、フィーネは一瞬目を見開き――ふっと、小さく笑った。
その笑みは、どこか救われたように見えた。
「ふふっ……妙な方ですね。でも、いまの私には……ありがたい偶然でした」
******
干し肉と水を差し出すと、フィーネは遠慮がちに手を伸ばして受け取った。
育ちの良さが滲むような、丁寧な所作だった。
火を起こし、朽ちた建物の片隅で俺たちは焚き火を囲んだ。
言葉は少なかった。けれど、不思議な静けさと、温もりがあった。
「リオさんは……これから、どうなさるのですか?」
「さあな。追放されたばかりで、何の目的もなく歩いてたら、たまたまここに辿り着いた」
「私も……同じです。“裏切り者”と呼ばれて、居場所を失いました」
ほんのわずか、声が震えていた。
きっと、彼女も痛みを抱えている。
「ずいぶんと似た者同士だな」
「だから、嫌なんですよ。……あなたの存在が。自分を見せつけられているようで、なんだか……落ち着きません」
ふいに目を逸らした仕草が、どこか照れた子供のようで――思わず笑ってしまった。
「じゃあせめて、次の偶然が起こるまでは、一緒にいようか」
「……バカみたいです。……でも、そうですね。もうしばらく、だけ」
偶然でも、運でも、何でもいい。
こうして今、誰かと火を囲めている――それだけで。
少しだけ、夜が温かく感じられた。