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山間部にて

作者: ゆめの

鎌倉時代、この場所には人の営みがあったらしい。

令和の今、その土地は森の手前に広がる、ただの草原だった。荒れ果てて、人の気配もない。


そこへ行きたいと言い出したのは彼女だった。着いてからは、森の方をぼんやりと見つめていたが、やがて地面に座り込み、メモを取りはじめた。

何を見ているのか、何を書いているのか。私にはわからないし、理解する必要もないと思った。


きっと、二時間もすれば疲れ果てるだろう。そうなったらブランケットをかけて、車に戻らないといけない。

獣が来なければいいが──。

そんなことをつぶやいて、私は持ってきた100円ショップの折りたたみ椅子に腰を下ろした。


ウォークマンで音楽を聴きながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。

何もすることがないのに、何もしないにはあまりに空虚な場所だった。


予想通り、二時間が過ぎた頃。彼女がげっそりとした顔でこちらを見てきた。

私は立ち上がり、そっとブランケットをかけてやった。彼女は一度うなずき、それを体の前でぎゅっと抱え込んだ。


身じろぎもせずに書いていたせいか、身体は冷えきっているようだった。

私が歩き出すと、彼女もついてきた。


山間の二時間で景色は一変していた。昼に着いたはずが、あたりはもう薄暗い。

東京に戻るのは無理だろう。近くに温泉旅館があった気がする。素泊まりでも泊まれないか、問い合わせてみるつもりだ。


彼女は、たとえ東京に帰れても体調を崩すだろう。その時に面倒を見るのは私だ。

だったら今、休ませた方がいい。

「旅館に泊まろうか」

そう言うと、彼女は小さくうなずいた。しゃべれないほど、疲れきっているらしい。


彼女には、限界の前に休むという判断はできないのだろう。だから、したいようにさせるしかない。


旅館は、来る途中に見かけた場所だった。創業百年を超えるというが、外観はくたびれていた。

けれど、中は驚くほど清潔に保たれていて、古いけれど品があった。


「素泊まりですか? この辺り、食事処はありませんし、よければ何か召し上がりませんか?」

出迎えてくれた女将は、にこやかで感じのよい妙齢の女性だった。


「いいんですか? 予約もしていないので、素泊まりしか無理かと思っていて……。いただけるなら、ぜひ」


そう答えると、女将は穏やかに笑って、私たちを部屋へ案内してくれた。


「では、二十時に玄関の奥、お座敷でお待ちしていますね」


部屋に入ると、彼女は無言で座布団の上に腰を下ろした。

私は荷物を置いて、部屋の中をなんとなく見て回る。といっても広くはない。だが窓の外には一面の緑が広がっていて、ここまで来た甲斐はあったと思えた。


振り返ると、彼女はそのまま静かに横になっていた。


「身体が冷えてるだろう。先に温泉、行こうか」

彼女は小さくうなずき、のろのろとコートを脱ぎ始めた。だが、倒れたままではなかなかうまくいかない。

仕方なく、私は手伝ってコートを脱がせてやった。


彼女の歩みに合わせて、温泉へ向かう。抱えて運びたい気持ちはあったが、彼女は抱えられるサイズではなかった。


旅館の古めかしい外観とは裏腹に、温泉は現代的で清潔だった。露天風呂からは山々が見え、美しかった。


彼女は億劫そうに身体を洗っていたが、湯に浸かると、次第に頬が赤らんでいった。


「さっき、鹿がいたよ。見た?」

「いや、見ていないな」

「そうなんだ。大きかったよ。立派だった」


彼女は、めったに見られない動物との出会いに満足そうだった。

どうして今言うんだ、と思わなくもなかったが、言っても仕方がないので黙っていた。


「そりゃあ、よかったな」

「うん。連れてきてくれて、ありがとう」

「そりゃあ、どうも」


湯から出ると、彼女はすっかり元気になって、廊下をスキップで進んだ。

なんて即物的な生き物だろうと、思わず苦笑した。


夕食は立派なものだった。川魚、山菜──すべてこの地で採れたばかりのものだろう。

「なんか、すっごく美味しい」

「それはよかった」


食事に興味の薄い彼女が、箸を止めずに食べ続けているのは珍しい。

滋味とは、こういう味を指すのだろう。


「いい小説は書けそうか?」

「うん。書けると思うよ。もう、わかったから」

「そうか」


何が「わかった」のかは、教えてくれない。聞いたところで説明されるとも思えない。

彼女との会話は、いつもこうだ。

あとは彼女が、何かしらの形に仕上げるのを待つしかない。小説になるかもしれないし、彫刻や絵画になるかもしれない。

そればかりは、私の関与するところではないのだ。


何があるのかもよくわからない山間部。

彼女は何かを“わかった”と言い、私はそれを信じることにした。

それだけで、この旅は、たぶん十分だったのだ。

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