前世の記憶
「……そうです。私が、ルミ王女です」
少し考えて、口を開いた。彼は自分から聞いていながら純粋に驚いたのだろう、口がポカーンと半開き状態になっている。執事の方は、彼とはまた違った意味で同じ顔をしている。
……分かっている。無闇に王女を名乗っていいものでは無いと。もともと、執事は何か考えがあって、私のどうせバレるだろうという単純な考えも粉にする計画を実行する術があったのだろう。しかしこの状況で、こんなに衰弱した彼のさらに絶望した顔を目にすることは、私には到底できない。
思っていた通り、彼の表情は段々と明るみを増す。
「みんな!聞いてくれ!」
彼が声を張り上げた。さっきの震えた声が嘘だったかのように、ピンと張った声だった。
下を向いていた人々が、ゆっくりと顔を上げていく。彼から視線を少しずらすと見える私を目にした人々の口数が増える。
「王女だ」、「ルミ王女だ」と。
その声は徐々に高くなっていき、歓声に変わる。私はその声を、眼差しを、否定したくなった。急に不安に襲われたのだ。
執事が私をここに連れてきたのは、私にこの状況の“原因”に対応できる力があると認めているからだ。そうでないと、王女を連れ出したりはしないはずだ。
だから……だから、不安など感じる必要はないのだ。恐怖など捨ててしまえばいいのだ。なのに、歓声が増す度にそれは濃く強く、私にまとわりつく。
「っ……」
つい、嫌だと言ってしまいそうになった。この人たちの期待を裏切ってはいけない。それこそ、この人達の心が死んでしまう。
「案内してください」
私は人々に不安や恐怖を悟られぬよう、必死に声を出した。皆の表情は明るい。大丈夫だ。
チラリ、と執事の方を見る。自分で連れてきたくせに、本気で心配をしているのが手にとるように分かる。私からすれば今日初めて知り合った赤の他人なのに、「ごめんね」と言いたくなるのが不思議だ。……と、悠長なことは言ってられない。
「さぁ、急いで」
私は執事と先程の男のゆく道をたどった。
「これが野獣……」
野獣と言っても、火を吹く上級の獣らしい。そいつは上に向かって今も火を吹き続けている。500メートルほど離れているが、とても近く感じるのは街全体に熱気と炎が広がっているせいだろう。それに、ざっとみて体長80メートル以上ある奴と500メートル離れたぐらいでなんだっていうんだ。
今私のいるこの場からさらに1キロほど離れたところに民衆が集まり、私を見守る。いや、見守ると言っていいのだろうか。たとえどんなに離れていたとしても、その目は明るくキラキラしたものではなく、黒く影のあるものに見えた。
彼の情報によると、この街1番の剣士でも、この大きな獣には敵わなかったようだ。私の苦い顔に、彼は口を滑らせたとでもいうような表情をし、「あの……」と言った。でも、口をもごもごさせたまま、「なんでもないです」とだけ言い、その後彼が続きを言うことはなかった。
「続きを教えて」とは言わなかった。
彼が続きを口にしなかった理由なんて、混乱している私でも分かる。おそらく、余計なプレッシャーをかけたことに、彼は謝りたかった。だが、相手は王女。「ごめんなさい」と言うことは、「あなたでも敵わないかもしれない」ということを意味するから。
でも正直、そんな気遣いは今の私にはいらないものだし、どうでもいい。こうやって処理している時間だって、普通ならば不必要な時間なのだ。
私はそのことに触れないまま、「ここから離れて。みんなのもとに行きなさい」とだけ告げた。
彼は一瞬戸惑って、「でも……」と口にした。私は素直に、優しい人だな、と思った。
「はやく。邪魔になるから」
こう言えば、離れやすくなるだろう。
「ありがとうございますっ……」
まだ何もしていないのに、彼はそう言い残して私に背を向け民衆の元へ走っていった。その姿に謎の安心感を覚えながら、「あと」と執事の方を見て言った。
「あんたも」
顔は執事に、指先は民衆のいる方に向けてそう口にした。だが予想通り、執事は「ここにいます」と答えた。
「王女ひとりでは危険です」
そう続けた執事の目は今までで……今日私が見た中で1番、真剣だった。私はかすかに口を開いて、でもすぐにぎゅっと口を噤んだ。
そしてそっと、口を開いた。
「行って。私ひとりで十分。それとも、私の……主の言うことが信じられないの?」
震えた声を悟られないようにできるだけ大きな声で喋った。執事は眉間に皺を寄せ、目を細めた。……いっそ、それが鋭く恨むような目付きであれば良かったのに。
なんで……なんで、そんな悲しそうな顔をするの。
「……はやく」
小声で呟くように言った。すると執事はそっと目を閉じて、また開いた。その瞳からは、なにかを覚悟したように感じ取れた。
「ルミ王女。私は見守っておりますよ」
「……う、ん」
少し泣きそうになって、たった2文字をはくのに喉が詰まった。
“見守っている”。この言葉には、戦いを見守っている、という意味ともうひとつ。多分……“いつでも味方でいる”という意味がある。
執事はすべて悟っている。きっと今までも、そうやって先回りした上で、私を、“ルミ”という人間を、優先してきたのだろう。
「ゔゔゔゔゔゔゔっ!」
目線がバッチリ合って、野獣が吠えた。もう戦うまでの時間を引き延ばすことも、この戦いから逃げることもできない。
「こわいよ……」
か細い声は、誰にも届かない。それでいい。……ただ。1番不安なのは、私がなんの力を使えるか。せめて、それを探っておくんだった。
執事からの優しい、わざわざプレッシャーをかけないように選んでくれた言葉をかき消すほど、不安は募る一方だった。
震える手を必死に抑えようと強く握って、溜まった雫が流れようとしたその時、執事がさけんだ。
「ルミ王女!貴女しかできません!いいえ、貴女だからできるのです!」
その言葉を聞いた瞬間、散らばっていたパズルのパーツが次々にはめられていった。
「知っている......」
そう。私は知っている。正しく言えば、前世の記憶を持っている。そしてこれは......「私が書いた世界」。
「……あんたがプレッシャーをかけてどうすんのよ。自分で選んだ言葉を無駄にするようなこといってんじゃないわよ、アホ」
吐き捨てるように言った。それも届くはずのない声で。
「ふぅ……」
深呼吸をして、ゆっくり目を閉じる。
「静」
その言葉をはなった瞬間、私と野獣だけを囲んだ結界が張られる。私は続けた。
「天。生。死。空……」
痛い記憶を蘇らせながら、それを唱える。閉じた目に、明るい光を感じる。成功しているのだろう。
「界」
「うおおおおおおおおお!!」
私が最後の一言を言い終えると、振動して伝わるほど大きな声で野獣が吠えた。
「……」
暫くしてその声がピッタリとやんだ。それは30秒ぐらいだった気もするし、30分ぐらいだった気もする。
私は胸のところで組んでいた手をほどかずに、そっと目を開けた。
そこは、ただの荒地だった。野獣の姿は微塵もなく、さきほどのことが嘘だったかのように日は堂々と顔を出していて、結界もいつのまにか外されている。
「っ……!」
私はハッとして、民衆がいた方を向いた。みんなポカーン、と口を半開きにしている。彼も、執事も。……どうやらまだ状況が呑み込めていないらしい。というか、私だってあまり理解できていない。理解していることと言えば、私が野獣を倒したことくらいだ。
「うーんと……」
私は考えに考えた結果、みんなに向けて手を振った。
「やっ……」
「たあああああああああ!!」
「た」の音はほとんどかき消されたが、みんなの嬉しそうな声に安心する。
「「「「「ルミ王女ー!!」」」」」
何人もの声が重なって…………え?
「ちょっ……」
「と待って」と言う前にはもう、みんなの体に押しつぶされて声も出せなくなった。
「やめてください!王女ですよ!」
慌てる執事の声が、きっと近いのだろうけど遠く聞こえる。
「……ぷはっ!」
やっと顔を出せたと思ったら、急に誰かに抱きつかれた。
「やったよ!やったよルミ王女!」
彼だった。あんなに弱っているように見えたのに、今ではただの逞しい無邪気な男の人にしか見えない。私はふっと笑みをこぼす。
「こんなに明るい方だったのですね」
「え?」
「いえ。ちょっと痛いと感じるだけです」
「ああっ!すみません……」
しょぼんとする彼に、「いえ」と微笑むと、彼もまた微笑んだ。
「ごほんっ」
わざとらしい咳払いが私の背後から聞こえた。その人はほとんど確定していて、私はにやけて上がった口角を自分の手で少し下げた。
「なに?見事に叫んで大目立ちした執事さん」
漫画に出てくるツンデレの主人公のようでなんだか笑えた。
「……ルミ王女。お疲れ様です。……改めて、ありがとうございます」
照れているような、泣きそうな、そんな声だった。
「……私の方こそ、ありがとね」
ニカッと笑ってみせた。すると執事はクルっと回れ右をして、背を見せた。
「では。私は先に宮廷に戻りますので、ルミ王女もすぐに戻られてくださいね」
完全に震えた声に、私は「うん」とだけ答えた。
あんなに心配していた執事が“先に戻る”ということは、“もう少し民と過ごしても大丈夫です”ということだろう。私はその言葉に甘えて、暫く人々と言葉を交わした。
たくさんお礼の言葉をくれる小さな子供を連れたお母さん。食べ物をどっさりくれた農家さん。一緒に遊ぼうといってくれる子供達。
あんなに怖いと感じていた瞳を、今は愛おしいと思えた。