プロローグ
「日々は永い外気浴であり、我らが還るべき場所はサウナである」
と、とある聖者は言った。
この世の真理がここまで端的に表された言葉もそうあるまい。
サウナ―である私、戸々野井 康(37) は、熱く蒸された箱庭でその一文の響きを繰り返し味わっていた。
サウナ。それは楽園への旅路。
胎内から追放された我らが求めた楽園には、ただ安寧の地に身を置くことだけでは到達し得なかった。
サウナ、水風呂、外気浴という、三角の黄金律と呼ぶべきルーティーンの巡礼の果て、自らの中に見出すものこそが楽園なのである。
さて、サウナで煮詰まった身体に一喝する時間だ。
私は次の巡礼地である水風呂に向かう。
水風呂。それは楽園への旅路における転落的演出。
かけ湯でさっと汗を流したのち、水風呂に滑り込む。
悪魔の三叉槍が刺すような水温で、生命としての本能が研ぎ澄まされていく。
――生きている。
生きねばならぬ。
最初は毛穴に刺さるようだった水の冷たさが、今では私の体温と調和し始めている。
悪魔を退け、かつ害することはしない。
これは、必要な試練なのだ。
体温がぎゅうと私の中心に押し固められる感覚。
ここで私は巡礼の終着点へと向かう。
外気浴。それは旅の終着にして、新たな旅の始まり。
ととのい椅子へと赴く間、私は現世における人の貌を失い、破壊と再生、膨張と収縮を繰り返している。
サウナで膨張した自らの輪郭と、水風呂で収縮した輪郭が交差する。
さながら自らの存在が点滅しながらこの世に存在し、また存在が確定していないような感覚。
即ち、解放の予兆である。
用意しておいたバスタオルで体表の露を払い、最後の地へと足を踏み入れる。
秋空。
雲ひとつない、澄み切った青。
ひたり、ひたりと、乾いた石を踏んで行き、晴天を仰ぐような白い椅子に向かう。
静かに待っていた椅子に、私は背を預ける。
ああ、鼓動が。
私という存在の輪郭をくっきりと描き出すように脈拍が全身をめぐる。
耳の奥で血液が駆け巡る音がする。
そう、硬い地殻の下にたぎる溶岩を巡らせる、母なる地球のように。
ひゅうと、頬を風がなでていく。
私は母なる地球に抱かれているのだ。
何者にならずともよい、私は私のままで。
私という存在を絶唱するためだけに脈動を続けるのだ。
ああ、ととのう。
ととのっていく。
・・・
・・
・
・
・
解放の余韻の中。
私の体の感覚は戻ってこない。
どうしたことだろうと目を開けると、私ははるか秋空の高みから私を見下ろしていた。
そうか。
私は世界に溶け出してしまったのだ。
体を置いて、心だけ、この秋空に駆け出してしまったのだ。
不思議とその体験に恐れはなかった。
子供の頃、虫の甲の煌めきに駆け出してしまう時のような興奮と、そんな自分を現在の私がほほえましく見守っているような平穏とが、心の内に同居していた。
いつか、こんな日が来るような気がしていた。
見よ、私の顔のなんと穏やかなことか。
満たされた精神はもはや身体という拠り所を必要としない。
そう、サウナストーンがロウリュによって魂を解き放つように。
であれば、解放された私が秋空に溶けていくのは当然の帰結であろう。
溶け出した私は大いなる存在に袖をひかれた。
見えざる手。
この世ならざる者の袖引き。
意思を感じる引力。
ここではないどこかへ、私を連れて行こうというのか。
空の青のように冴えた思考で、私はその存在に問うた。
「―そちらの世界も、心身の調律を求め、迷うものがいるのですか。」
大いなる存在は、そうである、と返す。
「私は必要とされ、喚ばれているのですか。」
大いなる存在は、そうである、と返す。
未知の世界に飛び込むのに恐れがないわけではない。
けれど、そこに還るべき場所があり、私が私の黄金律を見失わなければ。
そして、そこに未来の仲間がいるのであれば。
――私は孤独ではない。
私は、よいでしょう、と返した。
遠ざかる意識の中、唯一つ。
私の体を置き去りにすることで、巡礼者の椅子を塞いでしまうことが気がかりだった。
◇◇◇◇◇
ところ変わって、異世界。
「伝令ー!南の関所が、ヒ―ティア軍によって突破されました!」
「なんだと!?」
コルデス軍とヒ―ティア国は南北に対面する軍事国家である。
氷の魔法を得意とするコルデス軍と、火の魔法を得意とするヒ―ティア軍は、
幾度も武力衝突を重ね、争いの中で力国とも疲弊をしていた。
今回はヒ―ティア軍の決死の電撃的な恐るべき作戦により、コルデス軍は窮地にたたされていた。
「おい、例の、召喚の儀は成功したんじゃないのか!?」
「まだです、聖女様からは、まだ連絡が…」
城門付近のコルデス軍の兵士たちの混乱は明らかだった。
「「突撃ー!」」
熱風と共に、ヒ―ティア軍が押し寄せる。
突撃の勢いをそのままに、あたりは強烈なアウフグースで焼き尽くされて行く。
「ぐぁあああああ!」
「まずい、これでは、氷魔法の威力が出ない」
「くそう、先手を打たれたか!」
コルデス軍の士気がみるみる下がっていく。
さながら、アイスサウナに放り込まれたかのように。
「くっ、冷静になれ、氷魔法の準備を…」
「ははははは、それじゃあ、焼け石に水だぜ!」
『―焼け石に水?』
瞬間。謎の声がその場に響いたかと思うと、強烈な湯気があたりを包んだ。
ボシュウッ という音と共に、城門前は一寸先も見えないスチームサウナのような空間に変わる。
「なんだこりゃ!?」
視界を奪われ、流石のヒ―ティア軍も勢いをそがれ、立ち往生している。
そんな城門付近の様子を見て、はるか高みの王宮で女性がつぶやいた。
「せ、成功しました・・・。召喚に成功しました!」
「おおおお!」
取り巻きの神官たちがにわかに色めき立つ。
「なんという制圧力・・・あれが、心身を自在に操る賢者・・・!」
「さすが聖女様、ここからが、我がコルデス国反撃の時ですな!」
「賢者様、どうか・・・。」
王宮の歓喜の声をよそに、城門では両軍の混乱の声が入り乱れる。
そんな中、謎の声はその平静を保ったまま、しかし地を這うような響きを持って続く。
『私は、”焼け石に水”という言葉が、”無駄”の代名詞のように使われていることが遺憾でならないのです。』
「くそっ、なんも見えねぇ!」
「誰か深そうな事言ってる奴がいるぞォ!」
「何者だァ!?」
『たとえ、一滴であれその水は石の中に滾るエネルギーを開放し、我らと邂逅させる』
その言葉に続き、さらに強烈な湯気の第二波が炸裂する。
もはやその勢いは激流にも近かった。
「ぐぁあっ」
「熱ッ! しかも、凄い湿気だ!」
「アーマーの内側に熱がこもる、熱ぃいい!!」
その熱は両軍に隔てなく伝染していく。
鉄でできた武具はもはや人が装備していられる温度ではなく、
両軍の武装がはがれ、地に滑り落ちていく。
『何一つ、無駄ではない。
一滴一滴の積み重ねなのです。』
「くそッ こんな状況で哲学してんじゃねぇぞッ!姿を見せやがれッ!」
その問いに呼応するように霧が晴れる。
唐突に開けた視界。
思わず空を見上げた両軍は、その青さに一瞬目を奪われる。
声の主はそのはるか下。
ひたり、と乾いた石に降り立った男。
一糸まとわぬ姿で、悠然と構える男。
『私、戸々野井 康と申します。』
混乱は、水を打ったような静けさに変わっていた。
『突然で申し訳ありませんが、今からここはサウナです。』
あんぐりと口を開け、固まる両軍に向け、戸々野井は続ける。
『黙浴にご協力をいただき、ありがとうございます。
――引き続きお楽しみくださいませ。』