第三話「赤いコートの女の子」③
「あ、そうだ! 鍵はどうする? さすがに無施錠とか、落ち着かないんだけど……」
須磨さんが見送りに出て来てくれる。
女子に見送られるとか、人に見られたら、また要らない誤解を与えそうだった。
「ここ、俺の部屋よ? 合鍵くらい持ってるから、鍵かけちゃっていいよ。んじゃま、留守番って事で頼んだよ。誰か来ても別に出なくていいし、誰か一人が残ってれば、外出しても不都合はないだろうから、好きにしててよ。どうせ、俺らもすぐ戻るよ」
「そだねー。じゃあ、いってらっしゃい! 早く帰ってきてねー!」
洒落のつもりなのか、投げキッスとかやってる須磨さんに見送られて、部屋を出る……灰峰姉さんと、無言でアパートの敷地の外まででると、振り返ってみたりする。
アパートを囲んでたブロックも経年劣化で所々、崩れてて……はっきり言ってボロい。
ポストもサビサビで穴が空いてて、雨が降ると雨漏りするのは明白だった。
庭に当たる土の部分も雑草と苔やらで、びっしり覆われて、錆びついた物干し竿には雨の日用の防水布とカッパが無造作に干されたままになっている。
建物自体も、老朽化が進んでて、プラスチックの階段の屋根もヒビや割れてたりで、なかなかにみずほらしい。
冬場とか、あちこちから隙間風が入ってくるとかで、かなり寒いと聞いていた。
管理人……仕事してない。
そう言いたいのだけど、思いっきりお爺ちゃんとお婆ちゃんだし、すでに取り壊しも決まってるから、修繕しても無駄……そんな風に割り切ってるのだろう。
時刻は18時……時期的には冬至を少し過ぎた頃あたり。
すでに日暮れを過ぎて、辺りは真っ暗になっている。
照明は階段の上と、ポストの上に薄暗い蛍光灯があるだけで、廊下も窓から漏れる部屋の明かりだけで、昼間でも薄暗くて、何とも頼りない。
もっとも、これら部屋の明かりは、夜型の新聞屋従業員たちのせいで、滅多に絶えることはなく、深夜だろうがバタバタと出入りがあって、まっとうな生活を送ってる人間にとってはいい迷惑な話だった。
18時過ぎで、夕刊の配達もとっくに終わってる時間なのだけど、お店はそろそろ晩飯時で、明日の準備や折り込みがまだ作り終わってないようで、なんとも賑やかな様子だった。
迂闊に顔を出すと、問答無用で手伝いに動員されるので、こそーと手早く店の前を通り過ぎる。
新聞屋が静かなのは、日中の午前中、そして21時から日付が変わる頃までのほんの僅かな時間だけ。
こんな24時間体制で騒々しい住民ばかりになってしまったら、人ならざるものも逃げ出すだろ……おふくろがそんな風に言っていたけど、それも納得だった。
「灰峰姉さん……なんか気になる?」
「いやぁ、まだ何とも言えないなぁ……。とりあえず、歩きながら話そうか……お店、忙しそうだったけど、手伝わなくて良いのかい? それと親御さんに挨拶くらいした方がいいんじゃないかな? 私で良ければ、皆の代表って事で挨拶させてもらってもいいよ」
「今日は一応、休みだからね。でも、下手に近づくと絶対、なんか仕事押し付けられる。それに挨拶も別にいいよ……灰峰姉さんが家電にかけた時だって、店の連中に冷やかされまくって困ったんだ。挙げ句に顔まで見せたら、色々追求されたりするのが関の山さ」
灰峰姉さんとは、それなりに仲が良かったので、連絡も頻繁に取り合っていたので、必然的に親も彼女のことは知っていた……礼儀正しい、常識人なので、相応に信頼もされていたから、顔も知ってるはずだった。
「はははっ。私も最初、君の家に電話した時、ガラの悪いおっさんが出て、番号間違えたと思って電話切っちゃったからね。アレは流石に驚いたよ」
「家が新聞屋やってるって、言ってたし、電話かける時、要注意って言ったのに……。須磨さんや与志水もおんなじ事、やらかしたって言ってたよ」
「いやぁ、あれは驚くよ。まぁ、君には色々世話になってるし、この調子じゃ、皆も君の部屋をたまり場にしそうな感じだからねぇ。印象を良くするためにも今度、個人的に菓子折りでも持って挨拶でもしにいくとするよ……。挨拶は大事だよ?」
それだけ言って、灰峰姉さんが歩き出す。
全くもって、色んな意味で常識人なんだけど、彼女と居ると日常が唐突に非日常になるのだから、世話ない。
「いちいち、ごもっともなことで……灰峰姉さんは、ここらはあんまり詳しくないみたいだけど、町田に住んでたんじゃなかったの?」
聞いた話だと、かつて藤の台団地に住んでいたという話を聞いていた。
そう言う事なら、それなりに地理にも詳しいと思っていたのだけど……。
「町田市民だったのは、ずいぶん昔の話だからねぇ……。市民病院も何回か来てるけど、駅からバスで一本だったから、道順も何もって感じだよ。それより、公衆電話……一番近いのってどこにあるかな? バスで来て、浄水場前が近いって言ってたから、皆、そこで降りたんだ。町田街道沿いまで来たら、すぐだって聞いてたけど、かなり迷ったよ? なんか、滝の沢交差点ってとこまでいってたよ。あそこも相当来てるね……蔦に覆われた廃墟みたいなのがあってさ」
余談だけど、この灰峰姉さんの話に出て来た蔦に覆われた廃墟は、この辺りでも結構有名な事故物件だった。
前オーナーが灯油被って、焼身自殺をした……そんないわく付きで、かなり前から、売りますって看板がかかってるんだけど、誰も買い手がつかない様子だった。
けれど、その事故物件はこの数年後……我が家となる……。
……とは言え、それはまぁ、別の話だ。
「ああ、滝の沢交差点って、この先の渋滞の先頭って事で名前聞くけど……。そんなとこまで行ってたんだ……そりゃ、明らかに行き過ぎだ。ホントは、市民病院前が最寄りのバス停なんだけど、今の時間だと駅の方に行くのしか無くてねぇ……。あ、電話ボックスはこっちだよ」
そう言って、町田街道を横断して、市民病院の裏手の道へと入っていく。
……その公衆電話は、市民病院の当時、使われてなかった旧病棟の裏にあった。
「……まさか、これ使えと?」
引きつった顔で、空の電話ボックスを見つめる灰峰姉さん。
「なにか問題でも? 確かに、この旧病棟……外や階段とかに明かり付いてるけど、窓とか全部真っ暗で、すげぇ怖いね。そういや、この電話ボックスって、誰かが使ってるのって見たこと無いな。その様子からすると、あまりよろしくない?」
「ん、ああ……そうだね。さすがに、これは……と言うか、この通りはちょっと良くないね。何か事件起きたり、色々、曰くあったりするんじゃない? すまないけど、ここに長居は無用だと思う」
確かに、ここは、市民病院の横の道。
昼間は、市民病院の看護婦用の私設保育園があるせいで、いつも子供たちの声が響いてて、なんとも賑やかなのだけど……。
夜にもなると街灯もまばらで、誰も通らない、妙に薄気味悪い雰囲気が漂うような通りへと変貌する。
その通りの途中、坂を下っていく道があって、町田街道を潜るガードがあるのだけど、そこの近くには、南国風の植物が植えられた洒落た雰囲気のワンルームがあった。
その横は、むき出しの崖みたいになってて、鬱蒼と植物が茂ってて、街灯の光も植物に覆われて、陰りがちで何とも薄暗い……何とも言えないギャップのある……そんな場所だった。
今でこそ、市民病院はごっそり丸ごと建て替えられて、最新の設備の整った立派な大規模病院になっているのだけど。
当時は、打ち捨てられた旧病棟が取り壊されずに残されていて、町田市の中核病院の割には、一歩裏に入ると、なんとも不気味な雰囲気を醸し出していたのだ。
「この電話ボックスは、上半身しか見えない女の幽霊が電話かけてたりするって噂があるって、弟が言ってたなぁ……。でも、俺この前……車で良く通るけどなんも無いよ」
新聞配達のルートの関係で、この道は頻繁に通る。
と言うか、駅前から最短距離で、かつ万年渋滞の町田街道と鎌倉街道を避けるルートで、車を走らせるとここを通るのが店の前への最短コースとなる。
なので、昼夜を問わず、一日になんども通る道でもあった。
「都市伝説のテンプレだねぇ……とりあえず、ここはちょっと遠慮したいな。コンビニのでいいから、そっち案内してよ。ついでに、私も買い出ししたいしね……私もこれでも婦女子だから、泊まりってなると色々入り用なんだよ」
「……なんだ、姉さん付き合いで来たって割には、泊まる気満々とか。曲がりなりにも嫁入り前の婦女子がそんなんでいいの?」
「別に今更、そんなの気にする間柄でもないだろう? 君だって、一人でうちに来て、私の部屋で一晩明かして、私の手料理食べたりしたじゃないか……妹に彼氏? とか聞かれて、困ったよ」
終電逃した灰峰姉さんと、二人きりになって、一緒に歩いて帰って、誰も居ないから泊まっていけと言われるままに、お泊り。
本来、ドキドキのシチェーションだけど、二人して対戦ゲームやって、原稿手伝わされて、お礼って事でお手製チャーハン食べて帰った。
モノの見事に何もなかった……そんな事もありました。
「俺は、姉さんのファンの第一人者を自称してるし、今更、女性として意識しろとか言われてもねぇ……。そんな、姉さんの彼氏とか、恐れ多いでございますよ」
俺と姉さんの関係……一言で言えば、舎弟?
絵師として、姉さんの絵は最高だったし、様々な技術を教えてもらったりしたものだ。
ついでにいうと、釣りに関しての師匠でもある。
彼女に連れられて、夜の相模湖でいきなりブラックバスを釣り上げた。
この事がきっかけで、俺は釣りにハマる事になる。
「……はぁ、もう二年以上の付き合いになるのに、相変わらず、君は私を女子扱いしないね。もっとも、そう言うところが気に入ってるんだけどね」
「与志水とかと一緒にするなっっての。それより、別の公衆電話ならコンビニの所にあるよ。じゃあ、こっちが近道だから、案内しよう」
言いながら、もと来た道を引き返し、町田街道をくぐるガードに向かっていく。
昼間来ると、夏場なんかは緑が多い都会のオアシスのようなところなのだけど、冬の……それも夜、徒歩で来るとなかなか雰囲気がある。
左手側は5mほどの崖のようになっていて、土がむき出しになっていて、シダやら苔やらで山道でも歩いてるような気になる。
都心では、ありえないような風景だけど、ここは町田……限りなく地方都市とか、田舎と言われるようなところだ。
場所によっては、畑や田んぼもあって、夏場、雨が降りそうになるとどこからともなく、カエルの大合唱が聞こえてきたりもする。
「ううっ、そっち行くんだ……まぁ、確かにそっち行くのが近そうだね」
灰峰姉さんも落ち着かない感じで、しきりにあたりを見回しながら、薄暗いガードをくぐる。
昼間通るとなんてこともないのだけど、明らかに照明をケチってる上に、車がギリギリ一台通れる幅しか無い……知る人ぞ知る裏道ってヤツだ。
ガードの脇のコンクリの階段を登ると、小さな公園があって、そこを抜けて、更に階段を登ると、町田街道に戻れる。
徒歩限定の地元スペシャルショートカット。
歩きで通るのは久しぶりなのだけど……何とも言えない圧迫感を感じで、自然と無言になる……。
続きは、夜にでもアップします。
日常パートなので、ちょっと巻きます。
一点、注釈。
この話は、30年くらい前の話なので、「看護師」の呼称については、意図的に当時一般的に使われていた「看護婦」と言う呼称を使っています。