9.冒険
私は暗くなるまで図書室に籠って本を読むようになった。
本の中の冒険や素敵なロマンスは、どれもが私をわくわくさせて時間を忘れさせてくれた。自分の今の状況から離れて、ドキドキしたり幸せな気分になったりする楽しさを私は思い出していた。
「ここにいるのは珍しいね。今日はレースは編まないの?」
ある日黙々と本を読んでいるときに突然話しかけられて、私は驚きとともに声のする方へ目を上げた。何故ならその声はもう聞けないかと思っていた声だったから。
「まあ! ディック、久しぶりね。ご機嫌いかが?」
そこに嬉しい姿を見つけた私は、思わず喜びのあまり飛び上がってしまった。
来てくれた。それが何より嬉しくて。
ディックはほほ笑みながら部屋に入ってきて、私の読んでいる本をのぞき込む。
「君に会えてご機嫌はすこぶる良いね。何を読んでいるの?」
まあご機嫌がいいなんてよかったわ。本当に。
ディックからはこの前の少し他人行儀な感じが消えていて、前のように柔らかな空気を纏っていた。
私は心から安堵して、そして嬉しさも手伝って今読んでいる物語の内容や感想を一方的にまくしたててしまった。ディックが前のように優しい笑顔で嬉しそうに聞いてくれるものだから、ついついたくさん語ってしまうのよね。しばらくしてやっと私は彼を立たせたままだったことに気が付いた。
「まあ、私、お茶も出さないでごめんなさい。客間に移りましょうか」
でもディックが我が家の図書室を眺めまわして、何か考え事をし始めた。
「ここには沢山の本があるけれど、ほとんどはこの国の書物だね。君は西の国の本は読んだことがあるかい?」
ディックが突然言い出した。
「西の国の本? そういえば無いかもしれないわね。でも言葉も少し違うから、私簡単なものしか読めないわ。西の国にはこの国のものとは違う本がたくさんあるのかしら?」
「西の国にはこの国ではあまり知られていない情報も本になってたくさんあるよ。もし興味があるようなら今度送ってあげよう。言葉が心配なら辞書や言葉の本も一緒に入れればいいね。せっかく時間があるのなら、学ぶのもいいのではないかい?」
ディックは西の国に行ってもう何年もたつから、きっと西の国のことにはとても詳しいに違いない。
「ディックがそう言うなら、読んでみようかしら。辞書があれば何とかなるかもしれないわね」
「国が隣同士でとてもよく似ているから、そんなに苦労はしないと思うよ。僕もさほど時間もかからずに慣れたしね」
ディックがあまり苦労しなかったというのなら、私でもなんとかなるかしら?
ちょっと希望が持てた。
「じゃあ、この国にはない物語を読んでみたいわ。本は高いから私のお小遣いではあまり買えないかもしれないけれど」
と私が言うと、ディックが僕のもう読まない本をあげるからお金はいらないよ、と言うのだった。
まあディックにそこまでしてもらっていいのかしら? 本は、特に外国の本は本当に高いものなのに。
でももしディックがもう読まない本があるのなら、それならいただいてもいいかしら、と私はありがたくご厚意を受けることにしたのだった。
「じゃあ近いうちに本をここに送るよ。それで、話は変わるけど」
ディックが何故かちょっと緊張気味に切り出した。
「パーティーに行かないか?」
「パーティー? でも……」
「お母上に反対されそう? でも、仮装パーティーなら? 誰も君とはわからないようにするんだ」
「仮装パーティー? まあ、聞いたことがあるわ。楽しそうね。でも私、仮装なんてしたことがないから何にも持っていないわよ?」
「それは僕にまかせて」
ディックが得意気に胸を張った。
「実はもう手配済みだ」
そう言っていたずら小僧のようにニヤリと笑う。
「あら、じゃあもう私に断る選択肢がないじゃないの」
「そういうこと。だから覚悟を決めるんだよ?」
そうして久しぶりに二人で笑い合ったのだった。
こういうところ、昔みたいだわ。
その仮装パーティーは明日の夜とのことだった。
そしてディックはお父様を説得するのがよほど上手らしい。それともあまりご興味自体がないだけなのかしら?
でも許可されたなら行けるのだ。
ディックとの外出はお買い物に行った一回だけだったから、また二人でお出かけ出来るのがとても楽しみだった。
私は朝起きてからずっとそわそわして過ごし、本も読めないしレース編みも出来なかった。
どんな仮装をするのかしら? ディックは何になるのかしら? 他の人たちもみんな仮装をするのだろうから、一体何が見られるのかしら!
今まではお母様から、そういうパーティーは品がないからと禁止されていたので行けなかった。実際に身元を隠してよからぬことをしようとする人たちもいるとの噂もある。でも仮装パーティーに行ったご婦人の話を聞いた時にはとても楽しそうなところだと思ったから、それを実際に行って見ることが出来るというのは冒険に行くようなわくわく感があった。
まさしく冒険! お母様の監視のない、新しい世界を覗きに行くのよ。
ディックが居るからきっと大丈夫。
ああ、でも彼がモテモテで私から離れて行ってしまったらどうしましょう?
それに、私だとわからないように、あまりしゃべらない方がいいのかしら?
そんな風にわくわくドキドキしながら心配しているうちに、午後にはディックが迎えに来てくれたのだった。
「準備はいいかい?」
そしてディックに連れられて、私は新しい世界への一歩を踏み出したのだった。
私はディックと一緒に、どこかの館の一室に入った。
ここはどこなのだろう? そこには私のために流れるような白いドレープのドレス、黒い髪のカツラ、そして仮面が用意されていた。目の色だけは変えられないけれど、これならきっと私とわかる人はいないのではないかしら。
アンナと名乗る侍女らしき人がてきぱきと着替えを手伝って、そしてお化粧も施してくれた。
普段の自分より随分濃い化粧で驚いたけれど、そのおかげなのか鏡に映った姿は、まるで別人のように美しかった。
私の仮装が出来上がったあと、ディックも仮装を終えて合流した。
「君は船乗りを惑わす海の精霊セイレーン。そして僕は惑わされて離れられなくなった海賊だ」
仮面をつけて頭に布を巻いたディックがそう言ってウィンクをした。
海賊にしては仕草や姿勢が妙に上品な気もするけれど、まあたしかに衣装はちょっとおしゃれな海賊と言えなくもない。体格も肩幅と上背があってたくましいので、なかなか似合っていて素敵だった。
もともと美しく整った顔をしているから、仮面をつけてもなんだかかっこいい。思わずほれぼれと見惚れてしまう。
「かっこいい?」
いたずらっぽくディックが聞いた。
「そうね、たくましくて素敵よ」
こんな素敵で優しい人が本当に私に惑わされて、離れられなくなればいいのに、とチラリと思ったのは胸にしまって。
「それでは行きましょう、セイレーン」
「そうね、海賊さん。お名前は?」
「お好きなようにお呼びください、わが姫」
まあどうしましょう、海賊らしい名前なんて思い浮かばない。
もう「海賊さん」でいいかしら?