8.窓辺にて
ディックはその後も「また一緒に出掛けよう」と言ってくれたけれど、私は家の中にいなさいと言われているのが気になって、どうしても家から出る気にはなれなかった。
それに外に出たらまた私の姿を見て後ろ指を指されるような気がして。
私は居間のお気に入りの窓辺でぼんやり考え事をしていた。
お母様がいらしたらきっと日に焼けると怒られてしまうわね。だけれど、その温かい場所が私は大好きだった。
気が付いたら、あの状況が一変した日から随分日が経っていた。噂はそのうち忘れられていくとは思っているけれど、でも人々は私を見たらまた思い出すのではないかしら。
きっと私はこのままひっそりと誰かのところにお嫁に行って……そしてやっぱりその誰かのお家の中でひっそりと一生を過ごすのかしら?
あらあまり今と変わらないわね?
それなら夫、たとえばお年寄りの公爵様のお相手をするよりは、今の方が気が楽かもしれない?
まあ、それなら結婚なんてしない方がいいわね……。
ずっとこの家でレースを編みながら一人でのんびり過ごすのもいい。
もともとそんなに社交が好きなわけではないから、今の静かな生活もそれなりに楽しい。
のんびりレースを編んで、たまにお庭をお散歩して、そしてディックが訪ねてきては気の置けない会話をする今の生活はなかなか幸せだった。こんな生活がずっと続けばいい。
ああ、でもディックはいつか西の国に行ってしまうのか。
あんまりしょっちゅう顔を出すものだからつい忘れがちだけれど、そのことを思い出すと私はなんだか泣きたい気持ちになってしまう。
ディックの来ない一人の生活を思い浮かべてみる。
寂しい……。
でも今から他にお友達を作ろうと思ってもどうしていいかもわからないし、そもそも家から出なければお友達も出来ない気がする。
「やっぱり結婚した方がいいのかしら」
つい口に出して呟いたら。
「結婚? 誰と? そんな話が?」
と突然ディックの大きな声がして飛び上がってしまった。
相変わらず執事よりも先に部屋に勝手に来たらしい。最近は執事も諦めている気がする。勝手知ったるなんとやらで堂々と入ってくる。
「びっくりした! なんで突然そんな大きな声なの。心臓が口から飛び出だすかと思ったわよ?」
思わず同じように大きな声で文句が出てしまった。
あんまり驚くと人はちょっと怒っちゃうわよね?
「いや君が結婚するって言っていたから」
ディックが早足で、座っている私の前まで来て仁王立ちする。顔が怖い。
「やだ、結婚は今のところはしないわよ? ただこのまま家で一人ぼっちでずうっといるよりは、結婚したら話し相手が出来て少しは寂しくないかしらって、ちょっと思っていただけよ」
見上げながら一生懸命に説明する。いつもは笑顔の人が怖い顔をすると、不安になってしまうではないの。
でも私の弁明を聞いてもディックの怖い顔は直らなかった。
「話し相手なら僕がいるだろう。もしかして今まで寂しかった? だったら、もう少したくさん来るようにするよ」
そう言ってくれるディックは、優しいわね。
「でも、あなたはいつか西の国に行ってしまうのでしょう? それに好きな人があちらにいるのではなくて? 幼馴染というだけで、そんなに私に構ってばかりはいけないと思うのよ。あなたもいつかはその好きな人か、それか将来に好きになった人と結婚をするでしょう。そうしたら、ただの幼馴染よりその愛する人を優先しなければ」
寂しいけれど、でも私の寂しさを紛らわすために彼を犠牲にしてはいけない。
これ以上幼馴染という関係に甘えてはいけないだろう。彼には彼の人生があるのだから。そしてそれはきっと、西の国にあるのだ。寂しいけれど。そしてなぜか悲しいけれど。
「怖い顔はやめて?」
誤解を解いたつもりなのに、ディックの機嫌が直らない。
怖い顔のまま私を睨んでいるディックにとうとうお願いをしてしまった。
私は唯一の心からの友人を失いたくはなかった。
彼は私の大切な────友人だから。
でも結局ディックはその日、お茶だけを飲んで早々に帰ってしまった。
一見いつものように話をしていたけれど、私はディックが心から笑っているのではないとわかってしまった。優しい口調、優し気なほほ笑み。だけど、それは貴族らしい本心からではない完璧な仮面。
私はその日の晩はどうして彼の機嫌を損ねてしまったのかを悩んでしまって、なかなか眠ることが出来なかった。
好きな人とは結婚できない理由があった? その人とは違う人との結婚の話を持ち出したのが気に入らなかった? もしかして言い訳をした私に幻滅した? 怖い顔と言ったことに怒ったのかしら。それとも王族に婚約破棄されるような情けない女が、他の人と結婚することを考えていたのが図々しかったかしら。
彼は、婚約破棄なんてされて結婚のあてがなくなった私に同情していたのかもしれない。
なのに、他の人と結婚出来ると軽々しく考えていたのが気に入らなかったのかも。
そこまで考えて、彼の今までの笑顔と訪問が同情からだったのかもしれないと思って悲しくなった。
私に会いたいから会いに来てくれて、一緒にいるのが楽しいから笑ってくれているのだと思いたかった。
ああ、なのに私はその幻想を壊してしまったのかもしれない。
その日私はベッドの中で、少しだけ泣いた。
私は明日も家の中から出ないのだ。少々目が腫れていても、きっと誰も気にしないに違いない。
私は一人でできる趣味を増やした方がいいのかもしれない。
次の日、私はまたいつもの窓辺に座って考えていた。
ディックはもう来ないかもしれない。それは悲しいことだけれど、どのみちいつかは彼は西の国に行ってしまうのだから、それが早まっただけ。そう思うことにする。彼がいなくても、彼に嫌われてしまっても、私は生きてゆくのだ。寂しいけれど、受け入れなければ。
レースを編むのは楽しいけれど、誰に見せるでもない作品がただ積みあがっていくだけで、このまま一生レースだけを編んでいるのも少しむなしい。
でも、他に何があるかしら?
今まではお母様にお聞きすればなんでも答えが返ってきたけれど、自分で探すとなると、どうやっていいのかわからなかった。
相談相手もいなかったので、ふと侍女がいる時に彼女に聞いてみる。
「趣味でございますか……。貴婦人の趣味と言えば他に刺繍とか、読書とかでしょうか……?」
侍女はとても戸惑っていたけれど、それでも私よりはたくさん候補を挙げてくれた。
なるほど、刺繍は実はあまり好きではないのだけれど、読書は始めてみてもいいかもしれない。
前は忙しくてなかなか読む時間もとれなかったから、すっかり忘れていた。物語を読み始めると途中で止めるのが嫌でなかなか取り掛かれなかったけれど、今なら時間はたっぷりあるし、他の嫌なことも忘れられていいかもしれない。
私はさっそく図書室に向かった。
こういう時は貴族の家に生まれて本当に幸運だったと思う。
図書室にはたくさんの本があった。難しい本から気軽に読めそうな本まで。女性向けのものは少ないけれど、全くないということもない。きっとご先祖様で本好きの女性がいたのだろう。
私はその内の面白そうな一冊を抜き出すと、そのままソファに腰をかけてさっそく読み始めたのだった。