7.隙間
あれから私はなぜかずっと、ディックが恋している人はどんな人なのだろうと考えている。
西の国にいるのかしら? そうしたら、きっと早く帰りたいわね。お仕事が早く終わって帰れるといい。ああでもそうしたら、私は会えなくなってしまうのね。でも彼にしたら、戯れにたまに幼馴染とおしゃべりをするより、愛する人と一緒にいたいに違いない。どんなに心が繋がっていても、きっと距離が離れていては辛いのよね?
私が今まで読んできた小説では、登場人物みんなが恋をしたらずっとその相手と一緒にいたいと願っていた。一緒にいて、抱きしめて、キスをする。お互いにそうしたいと思うのよ。そしてそれが幸せなの。
私は自分で自分の体を抱きしめてみたけれど、何にも幸せにはならなかった。
私を抱きしめてくれる人は、はたしてどこかにいるのだろうか。抱きしめたいと思ってくれる人は。
お母様に抱きしめられたら幸せになるのかしら? とんと記憶にないのでわからないわね。抱きしめて欲しくてくっついていって、追い払われた幼い時の記憶しかない。ああ嫌なことを思い出してしまった。私は重くてうっとうしい娘だったのだ。
そんなことを考えていたら、ある日お母様が、療養のために田舎の領地へ帰ると言い出した。
やっと王子の心変わりがないと納得されたのか、それとも単に寝室にいるのに飽きたのか。
あの出来事の前は毎日意気揚々とお茶会やパーティーに繰り出しては生き生きと活動されていたお母様。ああ、きっと婚約を破棄されるような娘の母として王都にいるのが耐えられなくなったのだろう。
「あなたは好きにしなさい、アーニャ。でももしここに残るのなら、お父様のご指示にちゃんと従ってお家の中で静かに過ごしてね。私にもうこれ以上恥をかかせないで。これ以上何かあったら、私はもう二度と世間に顔向けできないわ」
それが私に対するお母様のお別れの言葉だった。きっと弟は今頃はお母様が帰ってきて喜んでいるわね。
私はというと田舎に帰ることも考えたのだけれど、でもここ王都に残ることにした。
どちらも結局は家に引きこもることには変わらない。でも、田舎に行ってしまったらきっともう、たとえまた今は仲良くなったとしても、ただの幼馴染にすぎない私をディックは訪ねて来てはくれないだろう。田舎に行って帰って来るには何日もかかる。お仕事が忙しいのか面倒なのか彼が田舎の実家に帰っている様子はなかった。
でも彼は最近の、私の唯一の友人であり、訪問客なのだ。
常に母に付き従い、母の指示通りに行動する人形のようだった私には、相変わらず訪ねてくるようなお友達は他にはいない。でも。
少し母と距離が出来てから気づくこと。
今までの私は母の陰のような存在だった。母に常に同意し寄り添い、時には慰め、そして母の夢を叶える、そんな便利な娘。
でも私に一番近い関係であった母との間にほんの少し距離が出来て、その隙間にディックが入って来たことで、私は最近思うようになったのだ。
そういう立場はもう嫌なのだと。
ならばどうすればいいのかまではまだ、わからないけれど。
わかるのは、たとえば母の知らないお買い物。それだけで私にどれほどの解放感がもたらされたか、母に知られてはならない。
この青いリボンたちはあの人の趣味ではないから、たとえ私がこのリボンたちを心から愛していても、きっと「変な趣味」と言われてしまう。だけどそれは私にはとても嫌なことだから。
――だから隠しておいたのだけれど。
お母様が田舎に行った今は、ちょっと出してみようかしら? 使うのは勿体ないけれど、飾るくらいならいいわよね?
「で、飾ることにしたの? 使えばいいのに」
その後訪ねて来たディックが、飾ってあったリボンたちを見つけて笑った。
しかしこの人は本当にしょっちゅう来るわね。おかげで最近はディックが来ないと寂しいと思うようになってしまった。私を思い出して、そして訪ねてくれるのがとても嬉しい。彼の顔を見るだけで嬉しくて、思わずにこにこしてしまうようになってしまった。
「あら、使ってしまったら汚れてしまうし、切ったら元に戻らないのよ? もったいないじゃないの。こんなに綺麗なのに。でも、そうね……なにかここぞというところでは、ちょっとだけ切って使ってもいいかもしれないわね?」
そうよ、とても大切なものになら、使ってもいいかもしれない。本当に本当に大切なものには。
真剣に考える私にディックは少々呆れているみたいだけれど、だってしょうがないじゃない?
本当に大切に思っているのですもの。
そう言うとディックは「裕福な貴族の令嬢なのに、なんでそんなに節約家なんだ」と驚いていた。
だけどたとえ私の家が裕福でも、私が自由に使えるお金はないのよね。
「このリボンをもっと欲しいと思っても、お家から出てはいけないと言われているし、使用人にお願いするにももうお店がどこにあったのか私にはわからなくて。それに考えてみれば私、自由に使えるお金を持っていないわ」
あらあら、言いながら私、今気が付いたわ。
私、自由に使えるお金を持ってもいないし、自分でお買い物をしたことも無かったわ。
「自分の小遣いくらいはあるだろう?」
「お小遣い? あるけど、それは大事にとっておきなさいって言われているのよ。何かどうしても必要になったり、とても大切な贈り物に使うものでしょう?」
だから全部とってある。それが多いのか少ないのかは私にはわからないけれど。
「小遣いというのは、自分の好きなものを買うためにあるんじゃあないのかな?」
「そうなの? そんなことをしてもいいものかしら? 贈り物でもないものを買うなんて考えたこともなかったわ」
「普通は好きなものに使うと思うよ」
「好きなもの……」
「たとえばリボンとか。アクセサリーとか、お菓子とか、欲しいものはたくさんあるだろう?」
「必要なものは全部あるのよ?」
お洋服も、アクセサリーも、帽子も靴も、家具も全部きちんと揃っている。
私はディックに私の持っているものを羅列して教えてあげた。
「でももっと素敵なドレスが見つかったら欲しくならないの? 素敵なアクセサリーは? かわいいバッグを見てしまったら?」
「もっと素敵な?」
考えてみる。ドレスはたくさん持っているけれど、もっと素敵なドレス……あったら嬉しいわね。
「でも贅沢じゃない? お母様ならもうたくさん持っているでしょうと言って買ってくれないでしょうね」
「そういう時に、自分の小遣いで買うんだろう?」
「自分で?」
まあ、それは目から鱗だわ。
「でもそんなことをしたらお母様にきっと怒られるわ。無駄遣いするんじゃありませんって。こんな趣味の悪いものを買うなんて、って言われそう」
そんな光景をまざまざと想像できてしまって思わず顔がゆがんだ。
「まあドレスは高いからね。でもちょっとしたアクセサリーとか髪飾りなんかだったら、どこの令嬢だってどうしても欲しかったら自分で買うんじゃないかな。ましてやリボンくらいだったら、目くじらをたてる人はいないと思うけど」
「まあ……そういうもの?」
「そういうものだよ」
ディックは物知りね、と思わず言ったら、君が世間知らずすぎるんだよと反対に言われて笑われてしまった。
でもディックのお陰で私の世界が少しずつ広がっていく気がする。
それは今まで色の無かった私の世界が突然鮮やかな色彩で彩られていくような、とても新鮮で嬉しい変化だった。