5.天国
そこはクラシカルで明るい内装のお店だった。店内の装飾が凝っていて、天井が高くて上品で居心地がよい。
人がたくさん楽し気に各々のテーブルでおしゃべりをしていて、静かな中にもざわめきがあってとても落ち着く雰囲気だった。
「ここは素敵ね。初めて来たわ。ディックは久しぶりに帰国したのに、こんな素敵なお店を知っているのね」
男の人は、あまりこういうお店に詳しくないと勝手に思っていたけれど、もしかしたら私の思い込みだったのかもしれない。
「君のために頑張って調べたんだよ? それはもう、こういう店に詳しそうな男たちを捕まえては根掘り葉掘り。君に喜んでもらえてよかった」
と言ってディックは笑って私にウィンクした。
「まあ……あのやんちゃでお世辞なんて言えなかった男の子がそんな気の利いたことを言うなんて、あなたも西の国でいろいろ苦労したのね?」
なんて思わず苦笑していたら、「本当のことなのに」と言ってちょっと睨まれた。
「あらごめんなさい? 紳士になったのねえ」
こんなに心から楽しいのはいつ以来だろう。
気の置けないお友達との遠慮のない会話。
貴族のお茶会では体験出来ないことだった。
貴族のお茶会は、特に母のいるところでは、常に情報収集と牽制と自慢をするための場だったから。
私はいつも空気を読んで、母の味方として正しく振舞うことを求められていたから緊張しっぱなしだった。
受け答えで母の思惑と違うことを言ってしまったら、家に帰ってから文句を言われてしまう。
私は母の毎回の指導のお陰で、今では母が言いたいことやしたいことを察知して先回りできるようになった。
でもたまに失敗してしまうのよね──
「アーニャ? 聞いているかい?」
気が付いたら私の目の前でディックが手の平をひらひらさせている。
「あら、ごめんなさい、考え事をしていて。何かしら?」
私はびっくりして目の焦点をあわせた。
ディックと目があって、ちょっと照れてしまう。
「ケーキは食べるだろう? 何がいいかと思ってね?」
ディックは店員さんの持ってきたトレイに綺麗に並べられたケーキたちを示しながら言った。
店員さんが見せてくれる銀のトレイの上には色とりどりのケーキが並んでいた。
まあ! なんて美味しそうなんでしょう!
赤や黄色やチョコレート、クリームに果物に砂糖菓子。
それは女の子の夢の世界だ。
「どれが好き?」
ディックが聞いてくれるけれど、ちょっとまって、そんなにすぐには決められないわ!
「じゃあ全部食べる?」
ディックが笑う。
「それは残念だけど無理ね。ああ、どうしましょう。世の中の人はこれを決められるものなの?」
目はケーキにくぎ付けのまま悩む。
「君はいつもはどうやって決めているの」
「いつもはお母様がおすすめを聞くの。だからその中から選ぶのだけど、普段はその時には選ばなくてもまた今度来た時に食べようと思えるじゃない。でも、このお店はまた来れるかはわからないから、失敗したくないのよ」
ケーキに集中しすぎていて、つい本音が漏れてしまった。
若い貴族の令嬢が一人でフラフラとお茶をしに来ることはできない。ますます後ろ指を指されてしまうし単純に危ない。
でもお母様と仲良くお茶に来ることも、もう無いような気がする。
そしてディックと出歩くのも今日限りにしようとさっき思ったばかりだ。
優しい彼に迷惑はかけたくなかった。私といることで、彼まで後ろ指を指されるようなことになってはいけない。
「また来ればいいじゃないか。僕と一緒に」
ディックは不思議そうな顔をしているけれど、今も誰かが私たちを見て噂を広めようとしているかもしれない。彼は久しぶりに帰ってきた母国で嫌な目にあうべきではない。
「それに選択を間違ったら、悔しくて今晩眠れないかもしれないわ」
そう言って、またしばし悩んで、私は贅沢にもケーキを二つ頼んだのだった。
二つも! お母様がいたら絶対に叱られているわ! はしたないって! でもどうしても食べたかったのだもの!
そう言ってはしゃぐ私を見ても彼は残念がらないし、はしたないとも思っていない様子だった。
お母様の言う通りに小食でないと幻滅する男の人もいるのかもしれないけれど、でももう私は男の人への印象を考えなくてもいいんじゃないかしら?
それにディックはそんな人ではないようだし。だいたい良い印象をいまさら与えようとしても、一緒に木登りしていたしね? 泣いて罵ったこともあったわね……。原因はなんだったのかしら。今となっては記憶の彼方だけど。
やがて並べられた二つのケーキは、それはそれは輝いて見えた。
つやつやして美しくて、フォークを入れるのがもったいないほどの完成度。
一緒に置かれたティーカップのお茶からはかぐわしい香りが立ち上っている。
ああまるで天国に来たよう。
思わず両手を握りしめて感動に打ち震えてしまう。
目の前でディックが肩を震わせて笑っているけれど私はそれどころではなかった。
なんという贅沢。
私が選んだ選りすぐりのケーキが二つも。そして大好きな紅茶がポットで。
素敵な店内、目の前には美しいかんばせとあたたかい笑顔。
これが幸せっていうものなのね……。
そう実感したら、なんだか涙が出そうになった。
ちょっと感動しすぎではないかしら、私。
でも幸せなら遠慮しないで享受してもいいわよね?
「感動もいいけれど、お茶が冷めるよ。どうぞ召し上がれ」
と言いつつ、まだ笑っているわよこの人。
まあ楽しそうだからいいけれど。
「私猫舌だから心配ご無用よ。でもありがとう、いただくわ」
そう言って私は一つ目のケーキにフォークを刺したのだった。
ちょっと頑張ったけれど、ケーキは小さめだったのでどちらも美味しくいただきました。
ええ、ちょっと苦しかったけれど。でも後悔はしていませんとも。
甘いクリームと甘酸っぱいソースもビターなチョコレートも、それぞれが絶妙なハーモニーで感動の美味しさでした。ありがとうございました。
合間に飲む紅茶がまた香り豊かで美味しいので本当に至福の時でした。
ちょっとずっとディックが笑っているのが気にはなったけれど、まあどうでもいいわね。むしろ楽しそうで良かったわ。幼いころはお菓子を取り合って喧嘩した仲だ。気取ってもしょうがない。今更よね、いまさら。
ディックもケーキを二つ頼んでペロリと食べていたし、私とあまり変わらない。
途中でディックが「一口食べる?」と聞いてきて、私もちょっと、いやとっても味見をしてみたかったけれど、さすがにそこは人目が気になってお断りしなければならなかったのが残念だ。
その二つもとっても迷った二つなのよ! ここがおしゃれなお店の中でなければ!
ああ残念。そんな気持ちが顔に出ていたらしく、ディックがケーキをフォークですくっては私に見せつけるようにしてから口に運んでいた。なんて悔しい……。
ケーキとお茶を堪能した後はまたいろいろなお店を見て回って、そして家まで送ってくれたのだった。
「ありがとうディック。とっても楽しかったわ。あなたの優しさに感謝します」
私は心からお礼を言った。
「また行こう。今度はどこに行きたいか考えておいて」
ディックが私の目を見て言ってくれる。
昔は悪ガ……こほん、やんちゃだったのに、本当にすっかり紳士になってしまって。
見た目もとても美しく格好良くなってしまったから、きっと西の国でもモテるのでしょうね。もしかしたら、この国でももう人気が出始めているのではないかしら。
私はもう社交界に顔を出していなくて噂は入ってこないけれど、きっと彼は人気者になるだろう。
そしてそのうち誰かが彼を射止める。
ふとそう思ったらちくっと心が痛んだが、私も大人になったのだから、幼馴染の幸せは応援しなければ。
いつまでも寂しいからと付きまとっていてははいけないだろう。
「そうね、考えておくわ」
社交辞令、それはとても便利なもの。
「楽しみにしているよ。どこへでも行きましょう、お姫様」
ディックはおどけて大げさにお辞儀をして、そして颯爽と去って行った。
閉まったドアを見つめながら思う。
優しいディック、楽しい思い出をありがとう。私はきっと、今日の事をずっと忘れないだろう。




