4.リボン
お父上の許可は得たから買い物に行こう、そう言うためだけにディックは昨日私の家に来て、ちゃっかりお茶を飲んでから帰っていった。
「ちゃんとおしゃれをして、何を買いたいか考えておいて」
そう言って爽やかな笑顔を残して。あんな笑顔をする人だったのね。子供の時とはさすがに違う。
でも温かい視線が心地よかった。
なにしろディックは、あら何年前かしら? たしか7~8年前? にはもう西の国へ留学に行ってしまって、それからたしか一度も帰国していないはずだった。ひょろりとした少年だったのに、もう今は立派な成人男性だ。背も伸びて、肩幅も広くなって、そしてなによりも幼さが微塵もなかった。昔とは別人のような意志の強そうな目と顎は、きっと西の国でたくさん勉強したのだろうと思わせた。もしかして苦労もしたのだろうか。
今回は仕事で帰国したと言っていたから、きっと西の国でお仕事をしているに違いない。ということは、いつかそのうちまた西の国へ行ってしまうのかしら。
そう思うと少し寂しい気がした。
でも彼は子爵家の三男だったから家督からは程遠く、自分で生計をたてなければいけないのだ。
我が家が侯爵家だということを何よりも誇りにしているお母様からしたら、親しく付き合ってはいけない人なのかもしれないけれど。
でも、やさしく話し相手になってくれる友人に、身分がどれほど大事なのかしら?
私の目を見て、嬉しそうにお話ししてくださる方が今までどれほどいたでしょう。
貴族の態度としては当たり前なのかもしれないけれど、みなさん笑顔でおしゃべりしていても、どこか作ったキレイな笑顔ばかりだったから。もちろん私も。感情を表すのは下品なことって、一体誰が言い出したのかしら。貴族社会ってめんどくさい。
でもだからこそ、久しぶりに会った幼馴染の心からの笑顔が嬉しくて、私はもっと笑顔になって欲しくて、一生懸命に何を着ていこうか考えたのだった。
でも何を着れば彼が喜んでくれるのか全然わからなかった。そんなことを今まで考えたこともなかったから。
仕方がないから、お母様が「とてもよく似合う」とおっしゃっていたドレスにしましょう。
それが私のさんざん悩んだあげくに出した結論だった。
約束した日は幸いお天気に恵まれて、日差しも空気も過ごしやすい温かな日だった。
「こんにちは、ディック」
母の付き添いもなしに王都で出かけるのは記憶にある限りは一度もなかったと思う。だからちょっと緊張してしまう。
おかしくはないかしら?
いつもはお母様が全身をチェックして「完璧よ」と言ってくれるのだけど。
ディックはそんな不安げな私の姿を見て、にっこり笑って、
「うん、かわいいね。一緒に出掛けられて光栄だよ」
と貴族の子弟らしく、きちんと褒めてくれた。
良かった。どうにも褒められないほど酷い恰好ではないようだ。
何度母に決めてもらおうと思ったことか。でも私の姿を見るだけで鬱々とした気分になるようなので、お部屋を訪問するのも最近は遠慮していた。
会うたびに辛そうな顔をされるのは私も悲しい。きっと私とそのまわりの事を全部忘れてしまいたいのだろうと思う。だからあまり私を思い出さないように、今日のこともお母様には何も話していない。それに話して万が一ディックと出かけるのを反対されても嫌だった。
久しぶりの外出は新鮮で、なんだか街中がキラキラしているような気がする。
最初にディックが綺麗なリボンやアクセサリーのお店に連れていってくれた。
「青が好きなら青いリボンは持っているべきだ」
と主張する彼が何種類もの青いリボンを並べてくれて、この世にはこんなにたくさんの「青」があることを初めて知った。淡い青から深い青までたくさんありすぎて、どれを選んでも良いと言われても、私には迷ってしまって決められない。だってどれもが素敵で魅力的。
途方にくれていたら、
「決められないなら、どれが好きか言ってごらん」
ディックが助け舟を出してくれた。
「そうね、好きなのは……」
好きか嫌いかなら決められそう。
そうしたら、彼は私が好きだと言った色のリボンを全部買ってくれたのだった。
「全部!? そんなに買ってもいいの?」
「だってリボンだよ? 宝石ならちょっとおかしいかもしれないけれど、リボンなんてちょっとした飾りじゃないか。このリボン全部で、そこのブローチよりも安いんだよ? 何を遠慮することがあるの」
ディックはそう言って笑うのだけど、私には驚きしかない。
そうか、好きなものを買ってもいいんだ。しかも全部買っていいんだ……。
好きなものを買う。なんて素敵なのかしら。
母がいたら絶対に母が選んだ「私に必要な」リボンを買って終わりだったし、そういうものだと思っていた。
そうか……。
ポンと私の手に乗せらせた小さな紙袋は、今までのリボンに比べてちょっと重い気がして、私はとっても幸せな気持ちになった。
私が選んだ私の好きな色のリボンたち。
ああ素敵。何に使おうかしら? でもきっと嬉しくて、眺めているだけかもしれないわね。それなら並べて飾ってもいいかもしれない。
嬉しくて思わずニコニコしてしまう。
「リボンだけでそんな笑顔が見られるのなら、安いものだね。他に何か欲しいものは思いついたかい?」
ディックも私につられたのかニコニコしてくれている。
「あら、リボンだけで十分嬉しいわ。ありがとうディック。私は必要なものは何でも持っているから、買わないといけないものは何も無いのよ?」
と伝えたのだが、ディックは納得がいかなかったらしい。
「せっかく買い物に来たのに他には何も買わないなんてもったいないだろう。手袋は? バッグは? 今の流行りは何だろう」
と言って店を出て歩き出した。
「手袋もバッグもたくさん持っているの。それにもうきっと私はパーティーやお茶会にも行かないだろうから、新しく買う必要もないのよ」
そう、最近は家に籠って誰にも会っていなかったから忘れがちだったけれども、私の評判にはもう傷がついてしまった。実際さっきのお店でも、私の姿を見て「あっ……」と驚いてからヒソヒソと何やら噂していた人たちがいたのにも気付いていた。
婚約したのに一方的に破棄された女。その事実はこの国の貴族社会では致命的なのだ。しかも破棄したのは、つまり妻にする価値がないと烙印を押したのは王族だ。
「そういえば私と一緒にいたら、あなたの評判も落ちてしまうのではないのかしら? 振られた資産家の娘に言い寄る三男坊とかなんとか言われてしまうのではなくて?」
思わずディックの心配もしてしまう。ディックもこの国の貴族社会の中では弱い立場なのだから、心ないことを言われやすいだろう。
「ああ、言いたい人は何でも言うからね。物好きとか、王子の、うーんと、拾う、とか」
最後は言うつもりはなかったのだろう。うっかり流れで出ちゃったわね?
でもなるほど、そんな風に言われているのね。
王子の捨てたものを拾いに行く物好きと。
これは、一緒にお出かけをしたのは間違いだったかしら。
早く帰った方がいいかもしれない。そうでないとこの優しい人にいらぬ苦労をさせてしまうだろう。
「そんな顔をしないんだよ。言いたい人には言わせておけばいい。どうせ私はいつかは西の国に帰ってしまう。目の前に本人がいなければ、誰も噂なんてしなくなるから大丈夫」
「そう……」
一瞬目の前が暗くなった。
彼は今「西の国に帰る」と言った。やはりいつかは西の国に行ってしまうのか。
きっとそうだとは思っていても、直接彼の口からその言葉を聞くと悲しかった。
しかも「帰る」だなんて。すっかりあちらの国の人になってしまったのね。
生活と仕事があちらにあったら、それは仕方のないことなのかもしれない。きっと友人もたくさんいるに違いない。
でも。
それを本人が当たり前のように話すのは、やはり寂しくて悲しかった。
この人は今は優しくかまってくれていても、いつかはいなくなってしまう……。
「疲れたかい? ちょっとお茶でもして休もうか」
彼は私の様子をよく見てくれている。私が元気がなくなったのもお見通しらしい。
私は本心を隠してにっこり答えた。
「まあ素敵。何かお菓子もいただきたいわ」
寂しいなんて言って、せっかく連れ出してくれたこの人を困らせたりしてはいけない。