3.幼馴染
私の戸惑いなんてお構いなしにその男は優雅な仕草で居間に入って来て、顔だけで「座っても?」と聞いて来た。
私にはこんな図々しい男は知り合いにはいないのですが?
だいたい執事は何をしているのかしら。知らない人を家に上げたあげく、若い娘の居る部屋に通してしまうなんて。
明らかに不審な人を見る目になっている私にその男は苦笑している。
そりゃそうでしょう。
「僕を忘れてしまったんだね。昔はあんなに一緒に遊んだのに。幼馴染の顔を忘れてしまうなんて、なんてあなたは薄情なんだ」
男が美しく整った顔のまま大仰に嘆いてみせる。器用だな、とちょっと思った。
しかし幼馴染? そんな人は……たしかにいたわね? 遠い昔、まだ小さいというよりも幼かった時代。田舎の領地で一緒に遊んだお隣の領地の兄弟たち。
私は一生懸命に遠い記憶を呼び起こした。
「おやおや、本当に忘れてしまったのか。本当にあなたは冷たいな。一緒に魚を捕まえようとして池に落ちた仲じゃあないか。一緒に木登りもしただろう?」
こんな美青年と一緒に木登りなんてととっさに思ったけれど、いや今話しているのは子供のころの話か。きっとこんな誰もがうっとりしそうな人もやんちゃだった時代があったのだろう。ちょっと想像ができな……あら?
想像できてしまったわ?
ダークブロンドの髪、何かを企んでいるような表情。こんな悪ガk……こほん、男の子を知っているわよ?
「まさか……ディック?」
「ご名答!」
目の前の男はすべての女性がうっとりするようなほほ笑みを浮かべながら、くるりと両手を広げてその場で回った。いちいち仕草が気障なのに妙に優雅で美しい。
私はびっくりして両目を見開いて固まってしまった。
だって、あのディックよ? 小さかった私といつも遊んでいたちょっと年上の男の子。いつも私をいたずらに誘い込んでは一緒に走り回ったり転げまわったりしていた男の子。
それが、こんな完璧な美青年に成長すると誰が思うかしら!?
神様は一体どんな魔法をお使いになったのでしょう。
ディックならば田舎の領地がお隣同士の貴族の子息なので、執事が中に通したのも理解ができた。ご近所の、親同士も仲の良いおうちの子弟では家族同然とみなされたのだろう。
ということは本当にディックなのか。
「あなた、確か随分前に西の国に留学したわよね? いつ帰ってきたの? 私を思い出して会いに来てくれて嬉しいわ」
懐かしさで思わずニコニコしてしまう。
考えてみれば使用人以外の人と話すのは久しぶりで、こうして誰かと気安く話が出来るのは嬉しかった。
「仕事で帰国したばかりなんだよ。でも帰って来てびっくりしたよ。大変なことになっているようだね」
ディックは優しい目で私を見つめる。その眼差しに軽蔑の色が無いことに私は安堵していた。
こんな風に人から優しくされるのは、いつ以来だろうか。
もうずいぶん前にディックは西の国に旅立って、私も王都に主な生活の場を移した。
考えてみれば、それ以来親しく友情を育んだことはなかった。友人と呼ぶ人はいるけれど。
でもそれは母に選ばれた「将来のために仲良くするべき」友人たちだったから、馬鹿笑いもしないし、本音も言えない知り合いという方がふさわしい人たちだった。みんないい人たちだと思っていたけれど、あの日以来、誰も私に会いに来ようという人はいない。
私がその程度の人間だったのか、それとも母が寝込んでいるから遠慮しているのか、はたまた他の理由か。
ただわかるのは、私に本当の友人が出来たらきっと母は嫌がるだろうということだけ。確証はないけれど、ずっとなんとなく私はそう感じていた。だから特に親しくなるような友人を無意識に作らないようにしていた気がする。
「娘は私の分身だから」
そううっとりと言っていた母は今、婚約破棄に私よりも傷ついて寝込んでいる。
私を通して自分が王子と婚約していたつもりだったのだろうか。
「大変? ……そうね、大変だったわね。でも最近は静かな家にずっといるから、なんだか今となっては夢のようで。でも現実にお母様は寝込んでいらっしゃるし、お父様もイライラしているわね。そして私は放っておかれているの」
ディックの眼差しの優しさについ弱音を吐いてしまう。なぜかしら、この人にはつい本音が出てしまうみたい。私を気遣ってくれているのが感じられるからなのかしら、それとも幼馴染だと思うと気が緩むのかしら。
くすりと笑ってディックが言った。
「放っておかれているの? 監禁ではなくて? ああでも今は家の外には出たくない気分なのかな?」
「外出を禁じられているの。今はお母様が外に出られるような状態ではないから、付き添ってくださる方がいないのよ。お父様は私が出かけるような所には行きたくないようだし。でも、そうね。あえて外出する気もあまりないかもしれないわね」
「侍女を付き添いにすれば買い物くらい行けるだろう? ずっと家に籠っているらしいじゃあないか。ちょっと気晴らしに買い物にでも行くのはどう? 君は買い物は嫌い?」
ディックは私を家から出したいのかしら?
「お買い物は別に嫌いではないと思うけど……。でも今まではお母様のお買い物に同行していただけだから、私一人では何を買っていいのかもわからないわ。お買い物の仕方も知らないし」
そう言ったらディックが驚いた顔をした。私何かおかしな事を言ったかしら?
「自分の買い物はしたことがないの? かわいいリボンとか、素敵な帽子とか、そんな小物を買ったりしたことは? ないの?」
「お母様がいつも選んでくださっていたから。私の趣味はあまり良くないんですって」
そう言ったら、ディックが目を見張って絶句していた。
あら、うっかり私の趣味が悪いことを告白してしまったわ。驚かせてしまったかしら?
「すべてお母上が選んでいたの?」
「ええ、そうよ。お母様なら何が私にふさわしいかをご存知だから。私が選んでもいつもお母様に嫌な顔をされてしまうのよね」
そうしていつしか、選べと言われたときにも母が喜びそうなものを選ぶ癖がついた。そうすれば褒めてもらえて、そして母の機嫌が保たれるから。
私も大人になって、学習したのよ。平和に過ごすために身に付いた技ともいうけれど。
「君はたしか青い服が好きだったと思ったが」
なぜか困惑顔のディック。
「そうね、青は好きよ。今日のこのデイドレスも青い花が描いてあるから気に入っているの」
「でもそれは黄色の服だよ?」
「そうね。でも全体が青い服はお母様がお嫌いなの」
そう言うと、ディックが小さくため息をついた。
「じゃあやっぱり買い物に行こう。僕が付き添えばいいだろう? 何か青い小物を買いに行こう」
「お気持ちは嬉しいけれど……お母様が何と言うか」
考えもしなかった提案に狼狽えてしまう。そういえば、私は自分から買い物に行こうと思ったことが今までなかったかもしれない。
「私がお父上にお話しするよ。お母上は具合が悪いんだろう? だったらお父上の許可があればいいのでは?」
「お父様はお母様の意向に従うのよ。でもそうね、お父様が良いとおっしゃったら、行ってもいいかしら」
きっと許可は出ないに違いない。そう思っていたのだけれど。
数日後、あっさり許可を取り付けたディックと、私はお買い物という名の外出をすることになったのだった。
まあこの人、魔法でも使ったのかしら?