27.決意
レールは敷かれている。
確かに彼はそう言った。あの口ぶりでは、もしかしたら彼が敷いたのかもしれない。
私を王太子妃にするためのレール?
そんなレールが存在するとは、露ほどにも考えたことはなかった。
ここで受けた教育は、まさか王太子妃となるためのお妃教育だった?
あの教育のお陰で今、たしかに社交に困る事はなかった。
どうやら私の意思とは関係のないところで私の将来が決まったらしい。
彼の手で。
私は彼の手で好きでもない人のところへ差し出されようとしているのか。
私は自室で遠い目をする。
まあ、一度前向きに考えてみる?
もともと昔から、政略結婚をするつもりだった。
もともと突然、あそこへ嫁に行けと言われて、そして「はい」と答えるつもりだったのだ。
それに相手はなんといっても王族だ。しかも直系、そして跡継ぎ。とりあえずは飢えることはないだろう。王太子は若くて、見目麗しく、そして今のところ礼儀正しい。多分今の状態の延長として、しばらくは熱愛している芝居もこのまま続けるのだろう。私も今はたとえディックのことが好きでもいつかは、そう、あと何年も何十年もしたら、王太子殿下とも温かな愛情を育めるようになるかもしれない。顔しか知らない年寄りの公爵に嫁ぐよりは、きっとあの人とならばまだ幸せになれるだろう。
それに、きっとどうせもう私の希望だけではこの状況は覆せないところまできている。あの言い方と表情では、多分根回しもしているのだろう。私も貴族の娘として、政略結婚が前提だとするならば今回の相手は最高の人だ。全てが理想的ではないか。むしろディックにお礼を言うべきところなのかもしれない。
理性ではそう言うのだけれど。
気付いて間もない恋心に蓋をするのは辛かった。
リンデンのおば様が羨ましい。駆け落ちが出来て。愛する人に愛されていたら、私にもそんな勇気が湧いたのかしら……。
「時間をちょうだい、ディック」
私は次の恒例のお茶会の時に言った。一晩と一日考えて出した結論。
「もし、もうそのレールから外れることが出来ないのなら、私は受け入れましょう。それが国のためだというのなら。でもお願い、気持ちを整理する時間をちょうだい。できたら一年」
一年したら、受け入れましょう。どのみちあなたを手に入れられないのならば、なんとか折り合いをつけて、気持ちを整理して。
一年後には、私はあなたのために駒になりましょう。
「……いいのか?」
「降りられるの?」
「……いや」
ディックが複雑な顔をしている。全部自分で仕組んだくせに。
「……君が気持ちよく嫁げるように、出来るだけのことはするから」
それが彼から突き付けられた、悲しい私の現実だった。
さよなら私の恋心。さよなら私が初めて見た夢──。
数日後、私と王太子の婚約が発表された。
婚約発表を前に、私は正式にリンデン伯爵家の養女になった。
私はロシュフォードの名を捨て、アーニャ・リンデンと名を変えて嫁ぐ。リンデン家ならばセルトリア王太子妃の後ろ盾になれるのだ。
これで私は正式にセルトリア王家の縁者となり、そしてイスト国王太子妃の義妹になった。なんとあのフリード様が義兄になりました。まあびっくり。
その手続きはディックと他の補佐官の人たちの手で、全く何の支障も無く、あっという間に終わったのだった。私なんて当日サインを一つしただけだ。
どれだけ彼らが前もって準備万端整えていたのかが伺われる。
イストの実の両親の承諾も事前にとりつけてあるという用意周到さにただただ驚くばかり。絶対にごねただろうに。
本当に、いったいいつから計画されていたのだろう。
幸いおば様は「アーニャちゃんが本当の娘になってくれて嬉しいわ~」と喜んでくださり、手続きのためにリンデン伯爵の代理としていらしたフリード様からも温かく迎えていただいた。そしてリンデン伯爵もイストの王太子妃さまも賛成してくださっていると聞いてとても嬉しかった。だけど、本当にいつの間に。
婚約が発表されても、ディックは一年という期限は守ってくれた。
結婚式は一年後。今は正式に婚約式をするための準備期間になった。
ちなみに殿下からはほほ笑みとともに「よく決断したね」とのお言葉をいただいた。
まあ、王族なんてそんなものなのかしら。とりあえずはにっこりしていたから、心底嫌がっているようではなさそうで良かった。彼が望んだというのは今でも眉唾だけれど、まさか消去法だったなんてことはないのかしら?
しかしそう考えてみるとあのイストの第二王子、私との婚約はよっぽど嫌だったのかしらね。私もあのまま結婚するよりは、こちらの王太子殿下と結婚する方が結果的に良かったのかもしれない。
今まで私を遠巻きにしていた貴族の方たちが、こぞって私にお祝いを言ってくださるようになった。ただしスローデル公爵の目を盗んで。
相変わらずの婚姻と血筋を最重要視する貴族社会だ。どこの国も一緒ね。
「正式に婚約したら忙しくなるだろう。だから婚約式までのしばらくの間は最後の自由時間かもしれない。やりたいことはある?」
この期に及んでまだ私の担当はディックで、そして侍女はアンナだった。
「そうね、特にはないわね。何かしようとしても、スローデル公爵に狙われるだけな気もするし」
人差し指を顎にあてて考える。
「怖い?」
ディックが心配そうに私を見る。
「そりゃあ怖いわね。でも逃げられないんでしょう?」
「……逃げたい?」
私は人差し指を顎にあてたまま、ちょっと考えてから言う。
「まあ、その時はその時かしら。人はいつかは死ぬものよ。どうせイストに帰っても面倒なことしかなさそうだし、それならここにいる方がまだマシなのよね。それにあなたが私を守ってくれるのでしょう? でも私に出来る対応策は出来るだけ教えてちょうだいね。そう簡単にやられるのも癪だから」
乗りかかった船だ。乗り切ってやる。お勉強は得意よ。まさかこんな内容の勉強をしたいと思う日がくるとは思わなかったけれど。
そういえば護身術も習ったわね。まさかこの為だったなんてことはないわよね?
ディック、あなたの方が怖いかも。
素直に何でも学んでいた過去の私が滑稽に思えた。
まさかこんなことになるなんて。
「じゃあ今のところ想定されているものとその対応を教えるよ」
ええ、まるで予定されていたかのように流れるように物事が進んで行きますよ。
さすが、外国人なのに王太子の補佐官にまで若くして出世しただけのことはある。
私はちょっと呆れてしまった。
「ねえ、もしかして、公爵が目的通りに追い落とせたら、この婚約も解消とか?」
「それはない」
……即答ですか、そうですか。容赦ないな、この人。
「だが……どうしてもというのなら、その時に話し合おう」
一応譲歩はすると。
まあ政敵が追い落とせたからやっぱり結婚止めますとも言いづらいか。王族は体裁も大事なのだろう。
まあその時になったらまた考えましょう。もしかしたら素敵な国内の令嬢が現れるかもしれないしね。あら? でもそうしたら私、婚約破棄されるのが二回目になる?
ま、まあもうあまり考えまい。
そしてそれからの毎日のディックとのお茶会は、暗殺対策の講座に早変わりしたのだった。
本当にこの人何でも出来るわね。なんで知っているのそんなこと……。
そして正式な婚約式を約二週間後に控えたある日、とうとう事態は動いたのだった。