20.お仕事
毎日たくさん勉強して、全てにだいたい及第点をいただくことができてほっとしていたある日。
やっと黒幕がやってきましたよ。
「アーニャ! 会いに来たよ! 会いたかった!」
ディックが満面の笑顔で応接間に入って来ました。
「アー……怒ってる?」
私の目がすわっていることに気が付いて、ディックが足を止めて不安げに聞く。
そうね、なにしろ説明も無しにあなたのせいでこの状態ですからね。そんな気持ちがきっと顔に出ていることだろう。
「会いに来れなくてごめん。仕事が忙しくて、全然時間が作れなかったんだ。それに君のことは極秘扱いだったから……でも僕はまたやっと会えて、君の元気な顔が見られて嬉しいよ」
そう言いながら、ディックは私の前まで来て懐かしそうに目を細めて私を見つめた。
「また君に会えて僕は本当に嬉しい。会いたかったんだ。そして君もよく頑張ったね。君ならやってくれると思っていた。君に決めて本当に良かった。さあ、これで君を表舞台に出せる」
は? 表舞台? お仕事ってこと? なに、突然?
ディックはにこにことそれは嬉しそうなのだけれど、私の頭には疑問符ばかりが浮かんでくる。いきなり来て、何を言い出したの?
「君に仕事だ。僕は今日、それを伝えるために来た。大丈夫、悪いようにはしないから。最初の仕事は二週間後、王太子主催のイストからの使者の歓迎パーティーだ。間に合ってよかった」
ええと、悪いようにしないから、という言葉に不穏さを感じるのは私だけかしら?
ディックの笑顔がなぜかちょっと黒そうなのも、まさか気のせいよね?
ディックが言うには、私は最近リンデン伯爵夫人を訪ねて来た体でおば様と一緒にそのパーティーに出て、この国の社交界にデビューするのだという。
そして、この国の王太子と知り合って、母国イストの使者との会話の時にさりげなく入り込んで補助するのが仕事だそうだ。そして王太子に気に入られてイストとの交渉の席に呼ばれるようになるという手筈らしい。ええっと、秘書みたいな立ち位置になるのかしら?
勉強ばかりで忙しく、隙間時間の外出もままならなかったので、私はちょっとした空き時間にはこの国の雑誌や新聞を読むようになっていた。
この国の王太子はたしか教養もあってスポーツも出来て、人格的にも素晴らしくて国民に人気な完璧な人だったはず。昔はちょっと病気だったみたいだけれど、今はすっかり元気になられて活躍中と。新聞の挿絵の王太子は、それはそれは溌剌とした美男子として描かれていた記憶がある。
ではそんな万能な王太子というのは国民に見せる作ったイメージで、実は語学が苦手ということなのかしら? あら、秘密だったらどうしましょう。え、だから通訳の存在が秘密なの?
しかしここまで用意周到ということは、王太子としてはイストの使者の言っている言葉がいまいちわかりませんとは万が一にも立場的に言えないということかしら。
大変ねえ、大国の王族っていうのも。それともただの見栄っ張り?
思わず遠い目をしてしまう。
まあ、デビュー自体は母国では経験しているし、何年も社交界で生きてきているので基本はそんなに変わらないとしたらなんとかなるだろうと思う。それにこの国では私は無名の田舎貴族の娘みたいなものだろう。誰にも注目はされはすまい。
……まさか婚約破棄の話がここまで伝わってはいないわよね?
それさえなければ、きっと私は人々の中で静かに過ごせるだろう。王太子のそばにいたとしても大人しくしておこう。影のようにひっそりと近くにいて、たまにこそこそ助太刀すればいいのよね? うむ、私は地味な秘書になるのだ。
だから控えめで間違っても目立たない恰好にしようと、華々しくデビューさせたいと言うおば様の反対と戦っていたら。
なんと突然ドレスが届けられたのだった。
大きなドレスの箱を抱えて、アンナが部屋に入って来た時には何事かと思ったわ。
「これ、今度のパーティーに着るように支給されたドレスだそうです。お仕事だから制服みたいなものですね。サイズはぴったりなはずですが、ちょっと今度着てみて合わないところがあったら直してもらいましょう。あ、あとその指輪、似合っているから着けてこいとのことです。それ、素敵ですよね。プレゼントですか?」
「あ、そうなの。ディックから。綺麗よね」
元々もらってからはずっと愛用していたのだけれど、それを見たディックが凄く嬉しそうにしてくれたから、私も嬉しくなってますますつけたままになっていた。そして今では左手に無いとなんだか心もとない気持ちになるようになってしまった。
ディックが喜んでくれるなら、これからもずっとつけていたい。
なんだかディックの手のひらの上で上手く踊らされているような気がしないでもないけれど、だけど、それで少しでも国や彼の力になれるのなら、頑張ってもいいわよね?
私が、国や誰かのために何かができるというのは純粋に嬉しかった。
人の役に立てるというのは、幸せなことよね。
私は少しでも彼の力になれるかしら?
私が誰かの為に何かできるのなら、私は頑張りたいと思ったのだ。
少なくとも家に籠ってレースを編んでいるだけの人生よりは、自分のことが好きになれそうな気がするから。
そのドレスは空色の、豪華で見事なドレスだった。生地も裁縫も最高級、実際に着てみたらとても私の肌の色にも合っていて、可愛らしすぎもせず、とても上品で華やかで、私は一目で気に入ってしまった。すてき。
……パーティーに行くのでさえなければ。
だって地味にしたかったのよ。どこに私の醜聞を知っている人がいるかもわからないのに。張り切って別天地で再デビューしたのね、なんて笑われるのは嫌だった。
でも考えてみればイストの使者って、誰かも知らないけれど私の醜聞を知っていることは確実ではないか。
そんな人に見つかりたくはない。何を言われるかわからない。悪い噂というものは、あっという間に広がるものだ。
ああ、イストの関係者とは会いたくない。
……まあ、通訳として行くならどだい無理な願いなんですけれどね。
やっぱり地味に大人しくした方がいいのではないのかしら。いっそ仮面をつけてしまう?
はい、もちろん駄目でしたね。知ってます。アンナの無言の笑顔は結構怖いと思う今日この頃。
そして豪華なドレスには、豪華な装飾品が必要なのだけれど。
一応いくつか持っては来ていたけれど、私の手持ちの宝石ではこの豪華なドレスには釣り合わないと悩んでいたら、なんとリンデン伯爵夫人が、太っ腹なことに見事なサファイアの首飾りとイヤリングのセットを貸してくださった。
いいのかしら?
「もちろんよ~。アーニャちゃんは娘みたいなものなのだから、遠慮しないで使ってちょうだい。ほら! 今日のドレスによく似あうわ!」
そう言ってはしゃぐおば様もそれはそれは美しく。
おば様は濃紺のやはり見事な美しいドレスを身にまとっていた。
私より大きなお子様がいらっしゃるのに、そのプロポーションと美しさは一体どこから来ているのでしょうか。これではきっと私のちょっと年の離れた姉と言ってもわからないだろう。もしかして、一番私が学ばなければいけなかったのは伯爵夫人の美容術だったのかもしれない。
「アーニャちゃん、なんて綺麗なんでしょう! こんな綺麗な娘を紹介できるなんて、私とっても鼻が高いわ! ほら、笑って? ああ、本当になんて可愛いんでしょう!」
今日のおば様は一段と絶好調のようだ。
もしかしてパーティーがお好きなのかしら?
でもおば様には、こちらの国に来てからずっと一緒にこの館で過ごしてくださって、私はとても感謝している。
私一人だったらきっと心細くて、あんな実家でも帰りたいといって泣いていたかもしれない。何故か自分の意思に関係無くこんな生活をすることになっても、おば様が、
「まあ、なるようになるでしょう。待遇も良いし、食事も美味しいし、楽しめばいいのよ、せっかく来たんだから~。今は大変なお勉強も、いつか役立つ時が来るわよ、きっと。うふふふ~」
なんて笑い飛ばしてくださったから、なんとか頑張れたのだと思う。
私が弱音を吐くたびに元気づけてくださったおば様には、どうやって返せばいいのかもわからないくらいに恩を感じていた。
おば様が喜ぶのなら、私は何でもしてさしあげたい。
今日も頑張ろう。ただし自分の出来る範囲で。




