2.謹慎
家に帰れば思いきり泣けるかとちょっとでも思った私は甘かったらしい。
結局何も事態が好転しなかった上に公衆の面前ではっきりと振られたことを知って、家に帰るなりお母様がまたヒステリーを起こした。
何をいまさら。
どうやらそう思っているのは私だけのようだった。
大声で泣きわめいてこの世の終わりかと思うような悲愴なご様子だ。
そしていつしか矛先が私に向く。
「なぜこんなことを許したのです! なぜもっとしっかり殿下を繋ぎとめておかなかったのです! あなたがもっとしっかりしていれば! 我が家に恥をかかせて平気な顔をしているなんて、なんて親不孝な娘なの!」
この役立たず、そうおっしゃりたいのですね。口に出さずともお顔に出ていらっしゃいますよ、お母様。
繋ぎ留められなかった私がいけなかったのですか?
私はてっきり婚約した身にもかかわらず浮気して、あっさり乗り換えたあちらの方がいけないのだとばかり思っておりました。
私の努力不足だったと? 私がもっと努力していたら、どうにか出来たと?
お母様のお顔から察するに、どうやら本当にそう思っていらっしゃるらしい。
確かにそんなに仲睦まじい感じではなかったかもしれない。でも政略結婚なんて、そんなものだと思っていた。
「お互いを尊重しつつ適度な距離で思いやりを持って接しなさい。常に笑顔で接しなさい。相手は王族なのだから、多少の我が儘は聞き入れて許して差し上げるのよ。そうすれば全てがうまくいくから」
たしかお母様の教えはそのような内容だったと記憶しておりますが。
まだ他にも心得なくてはいけないことがあったというのなら、それは非常に、なんというか、驚きですわ。
私、お母様の言う通りにしてきたつもりだったのですが。
そんな言葉が頭をよぎるけれど、ええ、口には出せませんでした。
半狂乱の母と途方に暮れる私。父はしばらくその光景を眺めたあとに、私に言った。
「アーニャ。お前はもう少しお母様の気持ちを汲んで優しくしないといけないな。こんなにお母様が悲しんでいるというのに、ただ突っ立っているとはどういうことだ。お母様の様子を見て何とも思わないのか? 本当はこんなことを私から言うまいと思って待っていたのだが」
そう言ってため息をつく。
「お母様にあやまりなさい」
え? 何を?
思わずきょとんとしてしまう私。
お母様も悲しいかもしれないけれど、人々の前で振られた当の本人である私の方がずっとショックで悲しい……とは思われていないのですね。私、それはもう先ほどからとても泣きたいのを、両親の手前だからとぐっと我慢しているだけなのですよ?
「何をしている。お母様をこんなに悲しませて、お前が悪いと思わないのか? お前には優しさというものがないのか。早くお母様にあやまりなさい」
お父様は、怒りはせずに私を根気強く「諭す」。でも怒っている雰囲気は隠しきれていませんよ? いつもながら見事な威圧です、お父様。
こうなったら私には選択肢は無い。それは昔から変わらない。
親が教え諭して子が従う。それが我が家の「教育」というものらしい。
選択肢が私に与えられたことなどかつて一度もありはしない。
親の判断は絶対的に正しくて、子供の意見はただのわがままなのだ。
親が謝れと言ったなら、私は謝らなければいけない。
これは決定事項。自分の意見を言う権利は私には与えられてはいない。
私が謝罪を口にするまでこの威圧は永遠に続く。
「申し訳ありませんでした」
心を無にして言葉にする。
「本当に反省しているのか」
父が問う。
「はい」
「なら、もう行け」
そうして私は解放された。
ドアを閉めるまでに聞こえてきたのは、
「あんな冷たい態度をとっていたら、王子に愛想をつかされるのも仕方がないだろう。正しく育てたはずなのだが」
という父の言葉だった。
想像できたことではあったが、母はあの後寝込んでしまった。
きっと世間からはいたく同情されているに違いない。
あんなに得意げに私の婚約を吹聴、いや漏らしていたのだ。
さぞや今回のことはショックだっただろう。
お陰で私はあの日以来、両親の指示で家から出ずに、誰にも会わずに静かに過ごしている。
どのみちどこのパーティーやお茶会に行ってもきっとヒソヒソと後ろ指を指されるだけだろう。しかも今まで必ず付き添っていたお母様は今日も寝室で寝込んでいる。
こうして毎日家でぼんやりと何もせずに過ごしているのは、もしかして人生で初めてのことかもしれなかった。
今までは物心ついた時から習い事が山ほどあったし、常に母がそばにいて、やれお行儀が悪いだの背筋を伸ばせだのここは笑えだのと、細かい注意が飛んでくる生活だった。
でも今は王族との結婚どころか、このままでは貴族との結婚さえもあやしいかもしれない。
私にお妃教育はもう必要なくなったのだ。そのために王宮に行くことももうないだろう。
捨て置かれる日々も最初は戸惑ったが、慣れてくると私はそれなりに快適に過ごすようになっていた。
お気に入りのデイドレスを着て、好きなところでのんびりくつろぐ。
今までは母が全て決めていた服装も、すっかり母に放っておかれているので今や私が何を着ていようが母の寝室に行かない限りはわからない。いやもしかしたら、もう母は私が何を着ていようが興味がないのかもしれない。数少ないお気に入りを短い周期で何回も着ていても文句を言われないのは嬉しかった。
それでも時間を持て余し気味だったので、ふと思いついて昔の趣味を再開させてみた。
細い編み針で白い糸を編んでいく。美しいレースが紡ぎだされるその様は、私にとって幸せな光景だった。
レース編みなんて辛気臭い、へんな趣味。そう言って嫌な顔をしていた人は今は寝室から出てこない。
父とも母とも会わない生活は、私にとって自分の世界に籠れる心休まる日々になった。
こんな日々もいいな、私は心からそう思った。
幸い我が家は侯爵家。父が存命なうちは王都のこの館か田舎の領地の館にはいられるし、父が亡くなっても幼い弟が後を継ぐ。何も持たずにいきなり追い出されることはないだろう。
何よりも体面を気にする両親は、きっと娘を「捨てた」と思われないように細心の注意を払うだろう。
だから多分私が野垂れ死ぬことはない。
もしかしたらどこかのお金持ちのご老人の所に嫁に行けと、よくある物語のような展開にはなるかもしれないけれど。
でもお金さえあれば、食べ物に困ることはない。それにそのご老人が紳士で優しい人だったら、もしかして良い信頼関係を持てるかもしれない。
レースを編みながら、つらつらと考え事をする。
でもやっぱり。
私もまだうら若き乙女なので、素敵な王子様、はもうこりごりだけど素敵な男性が目の前に現れて欲しいと願っては贅沢かしら?
誰か素敵な人が私を攫ってくれたらいいのに。夢を見るのは自由だから思いつく限り考えてみる。意志が強くて背が高くて、そして浮気しない人がいいわね。私だけを好きだと言ってくれる人。目を見張るような美しい素敵な男性が、私を見つめて愛を語るのよ……。
ふふっ。
想像して思わず一人で笑っていたら。
「なんだ、落ち込んでいるのかと思っていたのに随分楽しそうだね、アーニャ」
突然若い男の人の声がした。
驚いて見上げると、私の座る居間の入り口に背が高くて麗しい青年が腕を組んで立っていた。ドア枠にもたれかかっている姿が少し気障だがなぜかそれが似合っている。
あら? 誰? 幻? 私の想像力って、こんなにたくましかったのかしら?
思わず目をぱちくりしてしまう。
これが幻なら幻聴もセットだ。でもこんな男性と会話できるなら幻でもいいかしら……。
などと目まぐるしく頭の中を現実逃避した考えが廻ったが。
「ええ、僕を忘れてしまったの? ひどいなあ」
そんな風に言って困った顔をしているこの男。やれやれという風に肩をすくめたあと、さすがに幻ではないとわかる存在感でこちらに歩いて来た。
だけど、うん。全く記憶に無い。ええっと……誰?