11. この場所
「綺麗な女性だったわね。あの人は何の仮装だったのかしら」
私は私の隣に戻って来たディックに、内心を隠してできるだけさりげなく言った。心の内面を無表情で隠すことなんて、貴族のたしなみの基本中の基本だ。きれいに隠した上で優雅にほほ笑んでみせるのだって、年季が入っているから完璧にこなせる。だてに何年も社交界で令嬢をしていたわけではない。
ここで拗ねたり怒ったりしたら、それは下品だし幼馴染としての立場を越えていると思ったから。
彼はそんな私の方をちらと見て、「ああ、そうだね、なんだろうね」とだけ言った。なんだか少し不機嫌そう。あの女性が言った何かが気に食わなかったのかしら。それとも聞いてはいけなかった? でも。
私は彼の邪魔をしてはいけないと思いつつ、戻って来てくれたことが嬉しかった。
もう少し。
もう少しだけ私が彼の一番近いところにいたかった。
西の国へ行ってしまったら、きっと彼は私の知らない生活に戻るのだろう。
だけど、この国にいるときは。
せめて同じ場所にいるときだけでも。
私はこの居心地の良い場所を誰にも譲りたくないと思ったのだった。
ディックはしばらく何か考えているようだったので、私は彼の近くで周りの人々の観察をすることにした。
音楽とさざめく人々。それは最近遠ざかっていた華やかな風景だった。見栄と虚構と噂話が交錯する煌びやかな世界。よくよく見てみると、なんだか不道徳な感じのする人たちもいる。私は小太りの中年男性にしなだれかかる、肌の露出がびっくりするほど高い女の人に目が釘付けになってしまった。あれが愛人というものなのかしら? そしてしばらく後には、どうやらその逆の関係と思しき人たちも見つけた。まあ凄いわね!
しばらく興味津々で会場を見ていたら、
「アーニャ、庭に出てみるかい?」
ディックがそう誘ってくれたので、私は喜んで行くことにした。
夜でも小道の周りには照明が置いてあるので歩くのには困らない。他にもあちらこちらに照明が置かれたり吊るされたりしていて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
私はきょろきょろ周りを見ていてもっといろいろ見たかったのだけれど、ディックがずんずん奥の方まで進んで行ってしまうので、彼の腕につかまっていた私も一緒に行くことになってしまった。
「どこまで行くの? ディック」
もう他には人がいなくなってしまったのにディックは止まらなかった。返事もしないでまるで目的地があるかのように歩いていく。
しばらくしてようやく彼が止まったのは噴水の前だった。
水が絶えず流れていて水音が心地よい。月と噴水と私たち二人だけ。なんだか夢の中のようね?
と私がうっとりしていると、今まで黙っていたディックが口を開いた。
「実は、君に伝えなければならないことがあるんだ」
月明かりに照らされたディックの顔にはほほ笑みは無くて……。
なにか嫌な予感がした。
「もうすぐ僕は西の国へ帰ることになった」
頭がその言葉を理解した瞬間、私の心が凍った。
「帰る? 西の国へ?」
いつかは。
いつかはその日が来ると思ってはいたけれど。
いざ目の前に来てしまうとショックで動けなかった。
「お別れなのね?」
そう言ったとたんに涙が込み上げてきた。
だめ、泣いては。ディックに心配をかけてしまう。
彼にはあちらの国での仕事や生活があるのだ。彼は「帰る」と言った。きっともうあちらの国の人としてこれからも生きていくのだろう。
知っていた。わかっていた。
だから泣いてはだめ。
どうしても涙が込み上げてきて視界がぼやけてしまったけれど、なんとか涙がこぼれるのは我慢した。
「また会いにくる。必ず。だから待っていてほしい。僕は……」
ディックは思いつめたような顔で私を見ている。
私は思った。幼馴染として正しい態度をとらなければ。気持ちよく彼が「帰」れるように。
また会いに行きたいと、いつまでも思っていてくれるように。
けっして泣いてすがるような重い女ではなく、快く見送る幼馴染として。
私は必死で笑顔を作って言った。
「待っているわ。待ってる。だから、また私とおしゃべりしましょうね。その時は、今度は西の国のこともいろいろ教えて? そういえばいつも私ばかり話して、あなたはあまり……」
思わず嗚咽が漏れそうになって言葉が途切れた。
涙も限界になって今にもこぼれそうだ。とっさに下を向いて隠そうとしたけれど。
ディックはそんな私の顔を上げさせると、私を見つめたあと私の額に優しいキスをした。
「待ってて」
そう言って、次は頬にキスをする。
「僕を待っていて」
そして反対側の頬にキス。
「必ずまた会いにくるから」
そして一瞬私の唇を彼の唇がかすめたあと、私は彼に抱きしめられていた。
待っている。もう一度そう言いたかったけれど、その時にはもう涙がこぼれてしまって言えなかった。
涙が彼の服に浸み込んで申し訳ないとは思ったけれど、でもどうしても止められない。
私はただ温かい彼の体温と男らしい香りを感じながら、抱きしめ返すことしかできなかった。
さようなら、私の楽しかった日々。
幸せな思い出をたくさんありがとう、ディック。
私が泣き止むまでいつまでも傍にいてくれた優しいひと。
だけどあなたは行ってしまった。私の手の届かない遠い所へ。
私はディックからの旅立ちの挨拶の手紙をきれいにたたんだあと、そっと机の引き出しにしまったのだった。
第一部終わりです。鬱パートを読んでいただきありがとうございました。
次回からは明るくなっていきます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。




