REPLY 《1》
僕の名前は斉藤友之。つまらない名前だ。平凡で、なんの特徴もない。知り合いはたいてい「トモ」と呼ぶ。友達は多くない。子供の頃から馴染めない性格だった。あらゆるものに馴染めない。何を見ても、聞いても、違うと思う。ズレていると思う。そう感じる僕が世界とズレているのだろうけれど、僕はいつも、砂を噛むような違和感に苦しめられていた。秘密を抱えている子供はえてしてそういうものだと思うけれど、僕は絶望に関して早熟だった。プライドの高い父が理不尽に怒鳴る横で、気弱で印象の薄い母がいつも張り付けたような微笑みを浮かべていたから。
僕の育った家は地方の農家で、山林だけは持て余すほど所有していた。金に困ったら土地を売る典型的な田舎者だ。父は二度、土地を売った。インテリ風の企業家に騙された時と、高校を中退した僕がイギリスへ留学したいと言った時。そうまでして息子に勉学の道を歩ませたい人だった、ということではなく、ただ「金が無い」と言いたくなかったのだと思う。とはいえ、不思議なことに、二度目に土地を売った時、つまり僕の渡英の際には「帰ってこないつもりだろう?」と言いながら、その時売った土地代を全額くれた。約二千万円が僕名義の口座にはある。
両親との思い出はあまりない。ほとんどないと言ってもいい。
父は某三流大の出身で実家の農業を継ぎ、知人の紹介で知り合った近所の工務店の事務員だった母と結婚した。母は子供を産めない体だった。結婚した後でその事が分かり、それから母の性格は変わったと工務店の社長が言っていた。
「あんたの母さんは明るい人だったんだよ。なにも、あんなに遠慮して小さくなってなくたっていいだろうに。可哀想だよ、あんなに痩せちゃって」
社長は、僕が自分の出自を知らないということを知らなかった。
子供が産めなかったから遠慮して小さくなって生きているというなら、考えなくても分かる。そういうことか、と合点がいった。
夫婦仲は冷え切っていて、父はいつも苛々していて、些細な失敗でも母を怒鳴りつけ罵った。父が母に手を上げることは無かったし、僕が怒鳴られることも無かったけれど、いつも不機嫌に黙り込んでいる父のせいで、家の中は暗く沈んでいた。
父は、養子にした遠縁の子である僕に負債があるように振る舞っていた。悪い事をしたと思い込んでいたのだ。お喋りな社長が言うには、僕の実の親は生活に困窮していて、僕の他にも四人の兄弟がいたから、僕は「貰われて運が良かった」という話だ。僕も正直なところ社長と同じ意見だ。金は無いよりあったほうが良い。
母は、僕を可愛がってくれたと思う。だけど、すべきことを過不足なくするだけで、まるで親戚の子供に接するような、奇妙な遠慮深さというか、空々しさがあった。
他人行儀――
僕は、他人しかいない家で育ったのだ。
物心付いた頃から愛想笑いをする子供だった。空疎な笑いは育ての母から習った。自分の意見など口にせず、なんでも肯定し、相手に合わせて笑っておけば、怒鳴られても罵られても生きていけるのだと育ての母が教えてくれた。
笑えば笑うほど、僕と世界はズレていった。
小学校も中学校も無難に愛想笑いを浮かべて切り抜けた。誰とも喧嘩せず、誰とも親しくならず、誰の特別にもならず、クラスメイトが集う輪の端で雰囲気良く微笑んでいるのが僕の役目だった。思春期になる前に、すでに物事を深く考えないようにする癖が付いていた。いつもぼんやりしていて、そんな状態で勉強に集中できるはずもなく、当然、僕の成績は振るわなかった。記憶力だけは良かったので歴史や地理、化学、物理などの暗記系の科目と、本好きが功を奏して国語は得意だった。基礎を覚えるための地道さと応用力が問われる英語と数学は、適当に上辺を撫でるだけではどうにもならず、いつも赤点スレスレの酷い点数だった。
微睡むように生きていて、ストレスは自覚の無いうちに溜まっていたのだと思う。地元の普通レベルの高校へ入学したが、卒業まであと半年を残した、三年生の九月、とうとう学校へ行けなくなった。学校へ行こうとすると嘔吐するようになり、ある日、耳が聞こえなくなった。完全に聞こえないというわけではない。耳に膜が張ったようになって、音がぼわんと割れてしまい、会話が聞き取り難くなったのだ。その症状は最初は軽く、聞こえ難い時と、普通に聞こえる時が混在していた。「耳が聞こえ難いから耳鼻科に行きたい」と伝えたところ、慌てた父と母に付き添われて病院へ行くはめになり、検査の結果、突発性難聴と診断された。
「ストレスでしょう。何か悩みがあるのかな?」
興味の無さそうな顔で親身なセリフを吐く医師に、僕は愛想笑いで「ああ、はい」と頷いてから、「あれ、悩みがあるって認めたら、両親に悪いかな」と付き添ってくれていた両親を振り返り、激しい嘔吐感に襲われ、その場で吐いた。
高校は中退したけれど、難聴は半年も経たずにケロリと治ってしまい、僕は立派な引きこもりになった。他人行儀の両親からは何も言われず、快適な自室で毎日インターネットと読書に耽って過ごした。
「うちは農家だからね。学歴なんて無くても大丈夫よ」
母はそう言ったけれど、父は――贈答用のメロンを栽培し、繁忙期には人を雇っていたというのに――僕に農業を手伝わせようとはしなかった。
「おまえは好きなことをしろ」
学校へ行けなくなった当初、不愛想な顔でそう言って、暗に僕が家業を継ぐことを拒絶した。養子を自分の下で働かせることは父のプライドを傷付けることだったようだ。つまり、「働かせる為に貰ったんじゃない」と。
暇を持て余した僕は、独学で英語の勉強を始めた。笑ってしまうことに、授業を受けた記憶が無い僕には、be動詞すら分からなかった。
中一の参考書から取り組もうとしたら、飽きてしまってダメだった。物語なら続きが気になって投げ出さずに済むのではないかと思い付き、とりあえず簡単な英語の絵本を読んでみることにした。イラストが好みだったので、まずFrog and Toadシリーズを全部買った。このやり方は僕に合っていたようだ。単語はひとつひとつ辞書を引き、分からない言い回しは一文丸ごとインターネットの翻訳サービスにかけてみた。意味の通る日本語になる場合は少なく、めちゃくちゃな訳文が出てくることが多かった。それでも、単語や熟語に分解して、なんとなく推理していくと、段々意味が分かってきた。文法も何も分からないまま、僕は三日で英語の絵本を読み終えた。
感動した。物語の意味が分かったということに。
分からない言語で、僕にも分かるありふれた物語が描かれていた。
読もうとすれば読めるのだという事実に、孤独が癒されるような気がした。
貪るように絵本を読み、あっという間にArnold Robelのペーパーバッグ絵本を読破してしまった。根気に自信が付いた僕は、少し難しい本も読もうと、Charlie and the Chocolate Factoryを選んだ。これはさすがに難関で、朝から晩まで一心不乱に英語の意味を調べ続けても二週間かかったし、読破するまでに約三千四百回辞書を引いた。検索も含めたら回数はもっと増える。ちょっと異常なやり方のような気もする。だけど、それが出来る自分の忍耐力を可笑しいと思ったし、同時に誇らしかった。
そこまでやってから、僕は参考書に取り掛かった。何もわからない言語をまず読んでから、文法を勉強したんだ。
英語を勉強する傍ら、インターネットの人間関係も広げていった。ネットゲームが好きだったなら、もっと交流できる相手は増えたのだろうと思うけれど、僕はゲームには興味が持てなかった。それでも、そこそこ対話のできる相手は見つかるものだ。高校を中退した僕のような引きこもりは世の中に大勢いた。いろいろな人と、たくさんのくだらない話をした。オフ会にも参加してみたけれど、人と顔を合わせると習い性の愛想笑いに徹してしまい酷く消耗した。ぐったりしては何週間も引きこもり、また思い出したように出かける。僕は十八歳から二十三歳になるまでの約五年間、ほとんどの時間を自室に引きこもって好きなことをして過ごした。一切実家に貢献していないというのに、衣食住にも趣味に使う金にも困らなかった。
そうまで自由にさせて貰うと両親に申し訳なくなり、二十歳の時に高等学校卒業程度認定試験を受けて、高校卒業者と同等の資格は得ていた。数学はギリギリの成績で、今でも苦手だ。もしかすると僕は数の認識能力に軽い障害があるのかもしれない。簡単な計算ミスを頻繁にしてしまって、日常生活でも暗算が苦手だ。
そんな弱点はあるけれど、実のところ、読むだけなら中国語もギリシャ語も読める。暇過ぎて無駄なスキルが身に付いてしまった。辞書さえあれば何語でも読めると思う。日本語版の辞書でなくてもいい。英語に訳せればなんとかなる。だからといって、それが何の役にも立たないということは、僕自身が、誰よりもよく分かっている。僕に出来るのは「読むだけ」なのだ。少しだけなら文章も書けるけれど、語学を専門に学んだ人にはまったく及ばない。文法ミスも自分では分からない。それでも、翻訳の仕事をしたいと思ったこともある。プロの翻訳家も辞書を引きながら外国語の文章を日本語に訳していると聞いたからだ。それなら僕にも出来る。僕が普段やっている「読むだけ」と同じ内容の仕事だったからだ。だけど、その業界はコネが必要だった。いわゆる学閥だ。僕には学歴が無い。仕事を回してもらえるはずもない。
僕は簡単に絶望した。仕事はコネで回るのだ。世界はコネで回る。
望んでも無駄だと分かり、何もしたくなくなった。
不平等な世界だ。格差は広がる一方で、決して埋まりはしない。
再び腐り始めた僕は、思想史にハマっていった。エリートの支配層に対するルサンチマンに満ちた反逆の歴史だ。僕は憎悪が揺蕩う暗い淵を覗き込んでいた。
そんな時、イマーム・カーディルを知った。
運命に巡り会ったと言ってもいい。
彼は偉大な師だった。博識で、苛烈で、威厳があり、公正だった。彼が読めと言った本はすべて読んだ。地中海沿岸に広がる文化圏とメソポタミアやヨーロッパに関連する本が多かった。ローマ帝国の歴史も、孫子やクウゼヴィッツ、マハン、リデルハート、マッキンダー、旧約新約の両聖書にコーランも読んだ。チトーを調べろと言われれば、その通りにした。イスラエル関連の本も、イスラム思想史も読んだ。
僕はイマーム・カーディルに心酔していた。恋に落ちていたと言ってもいい。彼が死ねと言ったなら、僕は死んだのではないかと思う。自爆テロを行う若者と同じだ。
アミンを見つけたのは偶然だった。
気まぐれでWinnie-the-Poohを読んでいた時に、なにげなくツイッターで「PIGLET」のワードを検索したら引っかかった。同じツイートを何度もしつこく垂れ流していて、可哀想な子供だと思った。
僕以上に孤独で惨めで可哀想な子供――
僕は本当に絶望していた。
だから、イマーム・カーディルにのめり込むかたわら、アミンにものめり込んだ。
助けを求めていたアミンにレコーダーをプレゼントしたのは、金があったからだ。父がくれる引きこもりの息子に与えるには多過ぎる小遣いが、使い切れずに財布に貯まっていた。自分が年上の友人として適切な対応をしたとは思っていない。それでも、彼が母親の暴力的な愛人を逮捕に追い込んだのは痛快だった。よくやった、と閉ざされた暗い部屋で快哉を叫び、密かに間接的な勝利に酔った。だから、一連の行動の後、アミンが母親と上手くいかなくなったと聞いた時は複雑な気分になった。自分のせいで……と気に病んだし、もやもやとして落ち込んだ。その事は心に刺さった棘になって、いつまでも僕を煩わせた。
僕はアミンに対して精神的な負債を抱えたのだ。
それはともかく、僕はどうしてもイマーム・カーディルの居るイギリスへ行かなければならなかった。彼に会わなければならないという妄執に憑りつかれていた。アミンと同居しようと思ったのは、実は、そのついでだ。どうせロンドンへ行くのだから、可哀想な少年の面倒を見てあげるのも悪くない、それで抱え込んだ心の負債を軽くしようと卑怯な僕は狡く考えていたのだと思う。
僕は、アミンの後見人になったつもりでいた。