【Ⅵ】Control your destiny, or someone else will.1
【Ⅵ】Control your destiny, or someone else will./Jack Welch
自分の運命を支配しろ。さもないと他の誰かに支配される。
アミンは消えてしまった。
パリのホテルに到着したという連絡は受けたし、久しぶりにツイッターのDMを利用して会話もした。だけど、トルコへ向かう航空機に搭乗する前に「いってきます」と短いメールをくれた後、忽然と、僕の世界から消えてしまった。
ドーバーの岩だらけの城塞で短い諍いと上辺だけの仲直りをして別れたあの日が、アミン見た最後になった。
僕は甘く考えていた。アミンも僕を追いかけてすぐにイギリスに引き返してくると思っていたんだ。ラシードとハシムがアミンを世話してくれるだろうと思ってしまった。この時期は、まだアル・バグダディのISも、人員が出て行くことに強固な制限はかけていなかった。だから、帰ろうと思えば帰れるものだと信じてしまっていた。
刻一刻と変化する情勢を見誤ったと言われれば、返す言葉が無い。そもそもイマーム・カーディルを信じたことが間違いだった。
正確な状況認識も出来ず、実感も危機感も無かった僕が、いかに愚かだったか。
フラットに戻って独りで数日を過ごし、二週間が過ぎた頃、一向にアミンが帰って来ないので、やっと事の重大さに気付いた。
ラシードとハシムも、連絡は付かない。彼らも消息不明になってしまった。
僕はイマーム・カーディルのフラットへ押し掛け、問い詰めた。
「どういうことですか? どうして彼らと連絡が付かないんです?」
イマーム・カーディルは初めて見る表情をしていた。動揺、いや狼狽していた。
「こんなはずではなかった」
そう言って、長い時間、怒りを押し殺しているような蒼褪めた顔で黙り込んだ。
「どうして彼らを行かせたんです? あなたが行くなと言えば、ラシードとハシムも思いとどまっていたはずだ」
僕になじられて、イマーム・カーディルは再び黙り込む。何度も深い溜息をつき、私の苦悩を分かってくれとでも言うように首を横に振って両手を広げた。
「私はもうジハードを行えない」
「それが何の理由になんです?」
「足が不自由なんだ」
僕は苛々して冷たく突き放した。
「足が不自由なのは最初から知っています」
「違うんだ……違うんだ……」
イマーム・カーディルは、哀れっぽいそぶりで、自分は両足とも義足だと告白した。
「卑怯だ。今、それを言うなんて──」
彼は、イラクとアフガニスタンにはイギリス兵として従軍し、退役してから元同僚に声を掛けられ民間軍事会社《PMSCs》に入社し、それらの経験を経た後に、とある戦闘でイスラム勢力の側について戦ったらしい。その時、アメリカ軍の爆撃で吹き飛ばされて切断するしかない大怪我を負ったということだった。普段から松葉杖を突いていたし、時には車椅子も使用していたので、足が不自由なのは知っていた。でも両足を失っていたなんて。彼はそんなそぶりは微塵も見せなかった。真実を知って僕は驚き、怒りも覚えた。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか? 隠すような事ですか?」
「わざわざ言うような事でもない」
思い返せば、彼は弟子達の前であまり立ち上がらなかった。自分の弱いところを必死に見せまいとしていたのだ。彼はいつも日当たりの良い狭いフラットの窓際で、お気に入りのソファに腰かけて、僕達にイスラムの教えを説いていた。
静かに暮らすしかない傷病兵──それが彼の本当の顔だった。
「だからって、代わりにあなたを慕う若者を戦地に送って良いのですか?」
「良いか悪いかではない。為すべきことを為せと、私は説くしかない」
なお、世界の格差は是正されなければならないと確信的に説く彼の言葉は正しいように思えた。実際、アミンは、ラシードとハシムも、世界の不公正さのせいで苦しんでいたのだから。彼らを戦いに赴かせたのは、彼ら自身の怒りだ。
だけど……
イマーム・カーディルは、自分が従軍できないから、自分の代わりに社会に不満を抱く若者を戦地に送っている。言いなりになる若者に「ジハードを遂行せよ」と唆して、死地に送って、何人かは命を落としてしまっている。
いったい彼はなにをしているんだ。
僕は何をしているんだ──
僕は、この期に及んでも、イマーム・カーディルとの関係を断ち切れなかった。どのみち彼を尊敬していたし、争いのない平和な世界の必要性を語る彼の言葉はやはり正しいと思えた。なにより、彼が寂しそうだったから……
僕は今でも世界の不公正さや経済的な格差、与えられる機会の不均衡は是正されるべきだと信じている。そのためには声を上げる必要がある。世界を変えるために何か行動をすべきなのだ。
誤解を恐れずに言えば、必要な戦いもある。
でも、アミンが戦いに身を投じる必要はなかった。アミンが手を汚す必要はない。アミンが危険にさらされる必要はない。アミンだけは、犠牲に捧げたくない。僕は、そう思ってしまっていた。
僕を身勝手なエゴイストと罵ってくれていい。他の誰かが犠牲になるのは構わないのかと責められれば、ただ恥じ入るしかない。
だけど、アミンを愛していた。歳は離れていたけれど親友だった。血は繋がっていなくても大切な家族で、たった一人の弟だった。
僕が情けなかったせいで……
アミンは、世界を変えるための戦いに行ってしまった。
ラティファは絶対に僕を許さないと言った。
僕は、いたたまれなくて、アミンがロンドンに戻って来るのを待つ間、一旦は日本へ帰ろうとした。ただアミンを待つためだけにロンドンにいても仕方がないと言い訳して、罪悪感と苦痛から逃げようとしたんだ。
帰国しようと思う、と告げた時、ラティファは無表情でNOと言った。
「ここに居るのよ、トモ。アミンが無事にこの部屋に帰って来るまで、あなたはどこへも行かせない。日本に帰るなんて許さない」
ラティファは手段を選ばなかった。僕をイギリスから出さないためだけに、僕と結婚すると言い出した。イギリス人になれば、ずっとイギリスにいられる。だから──
「ここで、この部屋で、ずっとアミンを待つのよ」
僕には拒絶する資格が無い。
アミンを紛争地域へ行かせてしまったのは僕なのだから……
何も言わずラティファの無慈悲な命令に従うことにした。言いなりになることでしか自分を罰せないと思ったからだ。ラティファはラシードとハシムが賃貸契約を解約して空いた部屋を使うと言い、僕達のフラットに引っ越してきた。それまで住んでいた自分で所有していたスタジオは売ったらしい。ラティファは本気だった。アミンと僕が使っていた部屋はアミンの荷物ごとそのままにしておくと言い、僕にはハシムが使っていた部屋に移れと命じた。一人で使う寝室は妙に広く感じて、息苦しくなった。
近所の人が引っ越しの様子を覗きに来た時には、「スゴイ美人だな」と肩を叩かれた。幸せな新婚カップルと勘違いされたのだ。確かに、傍からは羨ましく見えるだろうと卑屈に笑ってしまった。ラティファは、人気のデザイン事務所に勤めるデザイナーで、しかも高学歴で教養のあるグラマーな美女なのだから。代わって欲しいと言う男はいくらでもいると思う。だけど、僕の実態は虜囚の身だ。ラティファとの間には何も無い。
日本の養父母には電話で簡単に報告した。結婚することになったよ、と告げると、母は珍しく弾んだ声を出した。あら、まあ、おめでとう、幸せになりなさい、と何度も繰り返した。父も、孫が生まれたら顔を見せに帰れ、と不愛想に言った。僕が日本を離れる時、帰って来ないつもりだろう、と言ったくせに……
曖昧に誤魔化し、僕は酷い罪悪感に押し潰されそうになりながら電話を切った。
感情を殺して書類を整え、友之・斉藤=アディントンという名前になった。
自分を絶対に許さない女と暮らすのは恐ろしい事だった。
いや、ラティファの名誉のために言わねばならない。彼女は決して酷い女じゃない。上流階級の家庭で品良く育てられ、教養豊かで礼節を守ることを知っていて、忍耐強く、不機嫌を抑える術も心得ている。不安や不満を僕にぶつけることも、声を荒げることもしない。僕の人格を否定するわけでもない。ただ、僕の罪を許さないだけなのだ。
それでも、彼女の側にいると、絶えず見えない刃で刺され続ける。




