【Ⅲ】A goal without a plan is just a wish.3
お互いに素っ裸でブランケットの下に潜り込んで、少し照れながらキスをして、それから、ラティファの体をしつこく触った。だって、女性の体がどうなっているか知りたいじゃないか。僕はひたすらラティファの言う通りにし、ベッドの中の女性はこういうものなのかと学んだ。
朝になって、僕は新しいラティファを発見した。彼女は僕より先に起きてシャワーを浴びていて、ノーメイクの、生まれたままの姿になっていた。こってりとしたメイクやつけまつ毛をしていないラティファを見て、とても綺麗だと思った。余計な色を塗りたくらない方が優しく見える。
「やあ、初めて君に会ったような気分だよ」
「そう?」
ラティファは髪を掻き上げて、あなたの言ってること、よく分かるわ、と微笑んだ。
改めて辺りを見回すと、ラティファのことが僕にもよく分かるような気分になった。彼女の部屋を、コトが済むまで、僕はろくに見ていなかったのだ。
緑色のアラベスク模様のカーテンが艶やかで、エキゾチックな置物があちこちに飾られていたし、よく手入れされた観葉植物もあった。ソファにかけられている豪華な布は見たことのない不思議なものだった。濃い赤地に金色の植物の模様が織り込まれている。
きっと、アラブの布だ。
「君も移民の血筋なの?」
僕は何の気無しにその質問を口にした。
「移民?」
ラティファは躊躇うように瞬きをし、それから思い切ったように言葉を継いだ。
「ええ、そうね。移民だわ。両親と一緒にイラクから逃げて来たの」
「イラクって、あのイラク?」
聞き慣れない国名を耳にして、僕はアヒルのようにまぬけに口を開けた。ラティファは困ったように口角を上げる。
「あまり話したくないんだけど……」
「どうして?」
「だって、みんな、信じないのよ。ジョークか作り話だろうって言われるの」
I don’t knowのポーズで肩を竦め両方の手の平を見せながら、ラティファは「やっぱりやめておくわ。つまらない話だし」と立ち上がろうとした。紅茶を淹れにキッチンに向かうつもりなのだろう。反射的に、僕は「待って」と彼女を引き留めた。なんとなく、話しかけたことを中断されるのは「どうせ分からない」と見捨てられるようで嫌だった。
「話してよ。信じるから」
「本当に?」
「うん、信じる。だって、ラティファが僕に嘘をつく理由が無いから」
「Oh, I see! 良い理屈ね」
小鳥の囀りのようにラティファは笑い、ソファのクッションに形の良いお尻を沈めた。
「パパが政治犯にされそうになったから亡命したのよ」
「え? 亡命だって!」
「やっぱり、突拍子もない話で驚くわよね。このことを話すと、みんな、あなたと同じような反応をするわ。イギリス育ちの人には嘘みたいに聞こえるみたい」
ピンと来なかった僕は、誤魔化すために一生懸命言った。
「確かに滅多に無い話だからビックリしたけど、でも、信じたよ。嘘をつくなら、もっと真実味のある嘘をつくさ。スゴイね、映画みたいだ」
「映画じゃないの。現実なのよ……」
あなたは善人だわ、とラティファは微笑み、僕はさらに的外れなことを言った。
「移民なのにオフィスで働けるの?」
まあ、それが、僕にとってのせいぜいの関心事だったということだ。ラティファの言葉の意味はとても重かったのだけれど、まだ知識の無かった僕には、その示すところが分からなかった。彼女の両親が亡命した当時、イラクがどんな状況だったのか、独裁政権下の恐怖政治がどんなものなのか、想像も出来なかった。自分の手元に引き寄せてしか物事を考えられなかったんだ。なんて視野の狭いマヌケ野郎だ。ラティファは僕の無知を咎めることなく、優しく包み込むように寄り添ってくれた。
「大学を出れば、なんとかね」
どうしたって突飛な話にしか聞こえなかったし、信じるのは難しかったけれど、つまるところ、ラティファは元イラク高官の娘だったのだ。
身分証を見せてもらったらシェリー・アディントンというイギリス風の名前が記載されていた。生活しやすいように亡命後すぐに改名したのだそうだ。ラティファというのは親しい人達だけの間で使っている祖国での名前らしい。慈悲深い――という意味のアラビア語だと教えられた。ラティファ(慈悲深い)……あまりにも彼女に相応しい。
結局、最後まで僕はラティファの身の上をよくは理解出来なかった。あまりにも縁遠過ぎて馴染めないものは、まるで蜃気楼のように遠く空々しい。
イラク、独裁政権、政治犯弾圧、秘密警察、内戦、亡命、そんなキナ臭い話は遠い世界の絵空事のように思っていた。だけど、よく考えれば、亡命した高官などという珍奇な人達も、亡命成功後、ただ単にニュースから消えるだけで、存在が消えるわけではないのだから、こうして近所で生活していてもおかしくないのだ。
ラティファはイラクからイギリスに亡命した仲間達のことも話してくれた。
彼らは決して豪華な生活をしているわけじゃなかった。ごく普通の市民として、普通に生きている。でも、普通に教育を受けられるレベルで、ということだ。つまり、国を捨てる時に資産を持ち出していた。インゴットか、株か、ドル紙幣か、ダイヤモンドか、美術品か、遺跡からの発掘品か、あるいはオフショアに隠してあったアングラマネー……
インターネットは何でも教えてくれる僕の味方だったけど、知らない方がいい事も淫蕩に耳に囁きかける底意地の悪いメフィストフェレスでもあった。
「そうか……」
耳の後ろがひやりとした。嫉妬だ。よりにもよって、ほんの数時間前に情熱的なセックスを教えてくれた女性に、優しく慈悲深いラティファに、僕は嫉妬した。
彼女の持っているモノは僕とは違う。
ラティファはツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)の一員だった。
なんとなく気詰まりに感じながら、僕はラティファと向かい合わせでショートブレッドとアラビア風の濃くて甘い紅茶の朝食を取った。
「また会ってくれる?」
昼過ぎ、彼女の部屋から帰る時、僕はマナーで通り一遍のことを言った。
「アミンは? 会ってくれるつもりがあるの?」
ラティファは質問に質問で返した。勘の鋭い女性だ。
「君が会ってくれるなら」
僕は責任を彼女に押し付ける。ラティファはもちろん僕の狡さに気付いて、少し眉根を寄せた。軽い失望が額に差す影になる。ごめんね、悲しませるつもりは無いんだよ。だけど、屈託なく君を愛していると言うのは、恵まれない僕には難しい。
情熱的な反応を期待したのよ、とラティファは表情で告げる。
でも、僕みたいな未熟な若い男を責めるほどバカな女じゃなかった。僕のママみたいなバカな女じゃなかったんだ。彼女には教養があるから。
「そんな言い方……ううん、いいわ。また会ってあげる。連絡してね、アミン」
ありがとう、と僕は言い、ラティファの左頬のホクロにキスした。
古いエレベータでエントランス階に降り、石畳の通りから彼女の部屋の窓を見上げたら、ラティファが手を振ってくれていた。僕も手を振り返し、肌寒い冬の街をリバー・リーの方角に向かって歩いた。




