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【Ⅲ】A goal without a plan is just a wish.1

【Ⅲ】A goal without a plan is just a wish./Antoine de Saint-Exupéry


 計画のない目標は、ただの願い事にすぎない。




 十一月になり、毎日の生活に大きな変化が起こった。


 トモが頻繁に外出するようになったのだ。


 イマーム・カーディルとかいう奴にやっと会える状況になったらしい。


 一緒に来るかい、と何度も誘われたけど、ラビだのイマームだの宗教関係者には興味が湧かなかったので遠慮しておいた。


 誘いを断っただけでなく、僕は頑なにトモがどこに通っているのか訊かなかった。知りたくなかったのだ。だって、もしもトモが通っているのがモスクでなかったら、イマーム・カーディルのフラットに入り浸っているってことになる。パブやカフェに入り浸っているのではないことは確実だった。外出から帰って来た時、トモの体に食べ物や煙草の臭いは無かったから。僕は、トモが僕以外の奴と親密に付き合うことに嫉妬して、少し腹を立てていたのだと思う。


 外出したトモが帰って来るのは、たいてい深夜十二時を回っていた。朝は以前と変わらず僕と一緒に七時に起きる。僕の分も朝食を作ってくれて、週に二回はTESCOで僕の分の買い出しもしてくれる。生活の基盤には変化は無い。ただ、留守がちで帰りが遅くなっただけだ。夜更けに外の冷気を纏って部屋に入ってくるトモは、厚手のダウンジャケットにくるまっていて、セカンダリースクールの生徒のようにしか見えない。マフラーに顎を埋めたトモは頼りなくて幼い感じがする。そんな僕の知らないトモの顔を、イマーム・カーディルは知っているのかと思うと、耳の後ろがチクチクした。


 ロンドンは北緯51度30分28秒にある。日本の故郷に比べて寒いとトモは言う。夏でも夜になれば冷え込む日が多い。十一月ともなれば尚更だ。街路樹のプラタナスは色付いた葉を落とし、古いレンガ造りの工場の排水溝は枯葉の吹き溜まりになっている。初めて会った時のトモは薄手のジャケットを着ていたのに、分厚いコート姿を見ると、いつの間にか冬になっていたのだと不思議な気分になった。


 僕の仕事は相変わらずだ。髭もじゃで黒い肌のマスードと組んであちこちのオフィスを巡っては資源ごみを回収して回り、シティ・ミル川の岸辺でランチのカバブサンドを食べて、ムスリムのお祈りの時間になったら小さなカーペットを敷いて地面に突っ伏すマスードを待つ。僕はこの習慣にだいぶ慣れて来ていた。仕事を急いでいるわけじゃないし、祈るのは悪いことじゃない。信仰は個人の自由だ。


 時々、カフェで本を読んでいるリアーナを見掛けたけど、声は掛けなかった。


 本と言えば、仕事を始めてからしばらくは読書の趣味から離れていたのだけど、トモの帰宅が遅い夜が増えると、僕は急に時間を持て余し、引っ越す時にママのフラットから持って来た本を、エミやマコトのいるリビングで読むようになった。無駄遣い出来る余裕は無かったけれど、ウォーター・ルーの古本市へ足を延ばして何冊か買い足しもした。


 一連の流れで、トモのベッドに置いてあった日本語の本が気になり、眠そうな顔をしていたトモにそれは何の本かと訊ねたら、ジョン・ル・カレというフランス風の名前のイギリス人が書いたスパイ小説だと説明された。


 トモの考えていることが少しは分かるんじゃないかと、僕も英語版のペーパーバッグを買ってみた。「われらのゲーム」を――


 そんな感じで、僕が眉間にしわを寄せて小難しいル・カレを読んでいる間、エミはひっそりとした植物のようにダイニングチェアに座っていたし、マコトは忍者のように忙しなく歩き回り、やたら大きな声で独り言を呟いた。


 僕は日本語が分からなかったから、エミとマコトが日本語で会話を始めると、ちょっとリビングに居辛い気分になった。日本語の響きは独特だ。抑揚が無く、のっぺりしていて何かの呪文を唱えているように聞こえる。会話に入れず手持無沙汰で困っていると、エミが気を遣って英語で声を掛けてくれるようになった。


「Would you like coffee or tea?」


 まあ、その程度だったけど。それでも進歩だ。最初の頃、エミは僕の前では真っ赤になって、会話なんてしてくれなかったし、何か言う時も聞こえない声でボソボソ呟くだけだったんだから。


 ところで、二人の英語はトモ以上に拙くて、これでちゃんと仕事が出来ているのだろうかと心配になるレベルだった。彼らは遥々イギリスまで来ておいて日本人同士でつるんでいる。アルバイト先も日本語の通じる日系レストランだ。日本語だけで事足りる生活をしている。それで英語が上達するのだろうかと少し気になった。留学費用が無駄になるんじゃないかと余計な事も考えたけど、そういう無駄な事が許されるのも豊かさなのだろう。勉強は金持ちの贅沢なのだ。貧しい僕は、エミやマコトとは違う。トモも、あの二人とは何かが違う。じゃあ、トモは僕の側なのかと言えば、それも違う。トモは金に困っていないように見えたし、どこにも属していない感じがした。


 トモはまだムスリムになるための洗礼を受けてはいないと思う。髭を伸ばしていなかったから。でも、いずれは髭を伸ばして、マスードのように「サラーム」と挨拶するようになるのだろうか。僕の中のトモはいつまでもツイッターの勇気ある騎士ナイトで、そのトモが変わって行くのを見るのは、あまり気分の良いものではなかった。


 例え、オンラインとオフラインでの性格が必ずしも一致しないのが普通だと理解してはいても――現実のトモはツイッターのトモほど毅然とはしておらず、むしろ気弱に見えるほど穏やかで優しかったけれど、トモは僕の騎士ナイトだった。


 トモがいない夜が次第に積み重なっていき、手持ちの本を読んでしまうと、ママのフラットから自分の本を取って来るしかなくなった。


 僕が本を取りに戻った時、最初、ママは幽霊でも見たような顔をして、それから無表情で「何か食べる?」と言った。相変わらずメイクはしていなかったし、髪もパサパサになっていたけれど、服はきちんと着替えていたし、ゴミも幾分かは処分されていて、僕が家を出る前より少しだけ元気になっているような気がした。母と子でも、一緒にいないほうが良い関係もあるのかもしれない。刑務所にいるダリルを今はどう思っているのか、あの豚野郎が出所してくるのをまだ未練がましく待っているのかどうか、その辺りのママの気持ちは分からなかった。ダリルの事を考えると気分が落ち込む。それに、元気になっているように見えたのも、結局のところは勘違いだった。


 三度目か四度目にママのフラットに行った時、リビングに、いかにも素人が手で巻きましたという態の出来の悪い巻き煙草が置いてあった。わざわざ職人以外が手巻きするということは一般に売れるものではないということで、要するに、ジョイントか僕の知らないハーブだ。それを見た瞬間、もうダメだな、と慣れた失望を味わった。


 ママはドラッグをやっている。


 解決しようのない決定的なモノを突き付けられると、ドッと血が下がるというか、体の中を砂が流れて行くような、圧倒的な空漠を感じる。ザラザラするし、高い場所から落下し続けているような、不安で嫌な感覚が手足に纏わりつく。一瞬で世界の色が抜けて白々しくなり、体だけを地上に残して、ひゅうひゅうと、どこまでも、どこまでも、心が、地球の中心に向かって、引力に引かれて、ものすごい勢いで吸い込まれて行くような、薄ら寒い感覚だ。耐え難い無力感。眩暈というには乾いていて、希薄で、それでも、スコンと心の底が抜けるから、その急降下が凄まじくて恐ろしい。


 ママをどう見捨てればいいのか、僕は考えなければならなくなった。


 早く、問題を起こさないうちに。


 早く、僕に迷惑をかけないうちに。


 早く、僕をこれ以上不幸にしないうちに。


 早く、僕の足を引っ張らないうちに。


 早く死んでくれ、と祈るしかない。


 早く、綺麗に死んで欲しい。


 死んで欲しい。


 トモには、ママがドラッグをやっていることは話さなかった。


 本当は話したかったけど、トモは忙しそうで、部屋には寝に帰るだけといった毎日だったし、金曜の夜は外泊して土曜の夕方に戻ってくるのが常になり、日曜日はグッタリしていた。一緒に暮らし始めた頃のように、トモとべったり過ごせなくなっていて、僕は、なぜだか世界中に見捨てられたような気分だった。



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