日常
俺の最寄り駅から7駅走ったところで降り、そこから10分ほど、特に坂もなく、曲がることもなく、平坦でまっすぐな道を進むと、俺達が1年と3ヶ月通い続けてる、九百合高校に到着する。
ちょうど都心と田舎が混ざった感じの程よい土地で、とても居心地がいい。一度学校の屋上で昼寝してみたいくらいだ。バレたら停学になるからやらないけど。
風紀委員の元気な挨拶が飛んでくる正門をくぐると、砂時計みたいに生徒達が詰まってなかなか前に進まない昇降口が見える。
毎朝の密かな恒例行事だ。見ていて滑稽である。
まあ、俺達もこの恒例行事に参加しなければいけない宿命なのだが。
学校側も昇降口を広くしようと動いて欲しいものだ。なんて心の中で愚痴をこぼしながらなんとか校舎に入り、朝の気だるさのせいで長く感じる階段を昇り、教室に到着した。
左手はポケットに突っ込んだままで、右手だけを抜き、目と鼻の先の扉を横にスライドする。
「おっはー」
「おはー」
「おー、おはよー」
教室内に足を踏み入れながら、少し低めのテンションで挨拶をした。教室内には既に何人かが席に座っている。そいつらが俺の適当な挨拶に、適当に返す。
椅子の背もたれに腰掛けて話している奴や、机に突っ伏して寝てる奴、今日の2時間目の数学の宿題を丸写ししてる奴…
いつも通りの光景だ。あ、俺も数学やってねぇや。後で写させてもらおう。
そいつらから返ってきた挨拶を聞きながら、自分の席に着こうとした。
「こいつもいつも通りか…」
しかし、本来俺が座るはずの、すなわち登校した時には空席であるはずの俺の席に、1人の女子が突っ伏して爆睡していた。気持ちよさそうに、涎をたらして。
他人の席で寝顔─マヌケ面─を晒しているこいつの名は貫井神奈。
1年の時に同じクラスで、その時に仲良くなった奴だ。最初に会った時は、PCゲームどころかスマホのアプリゲームすらやったことがない女─本人によると無料通話、無料メッセージアプリすらもダウンロードしてないらしい。何のためにスマホ持ってんだよと突っ込んだのはいい思い出─だったが、俺とシノが『EARTH』について話してばかりだったものだから、
「私もその話に混ざりたい!」
と言い、1年前に晴れて『EARTH』プレイヤーとなった。
そしてシノと神奈の3人で、今も毎日仲良く話している。毎日同じ話題にも関わらず、飽きることなく話しあっている。1年前から、何1つ変わっていない。神奈も、シノも。そして俺も。
毎朝必ず俺かシノの机を陣取っては爆睡している。そして今日に限っては涎という困ったハッピーセット付きだ。ハッピーの要素は微塵もないが。
さて、俺が無事に席に座るためには、こいつを叩き起こす必要があるわけだが、文字通り叩き起こそうとしても意味が無い。こいつの眠りは深く、世界史の資料集の角で思いっきり殴っても起きないのだ。1年の時同じクラスだった女子曰く、胸を揉みしだいても全く起きなかったと言っていた。何言ってるんだ俺。
しかし為す術が無いということはない。伊達にこいつと1年以上友達として付き合ってない。
手順はとても簡単だ。しかしここは百聞は一見にしかず、だ。実際にやってみよう。
俺はおもむろに顔を、神奈の耳に近づける。そして小声で、こう呟いた。
「おい誰だよー。ここにBL本置いた奴ー」
俺の持ち前の演技力で、誰かに問いかけるように、呟いたのだ。自分で言うのもなんだが、俺の演技力は小学校の学芸会で6年連続で主役に抜擢されるほどだ。甘く見られては困る。
そして、この呟きは、やはり効果てきめんだった。
俺が言い終わる途端…いや、「置いた」の所で既に神奈は反応し、ガタン!と椅子は後ろの席の机に勢いよくぶつけ、両手を俺の机に付け、目にも止まらぬ速度で立ち上がった。
そして、2人の間でしばしの沈黙。他のクラスメイトは、神奈が立てた物音にも気にせず、話を続けていたり、寝ていたり、ノートにペンを走らせている。
「……あれ?BL本は……?」
寝ぼけ眼に、口から涎をこぼしながら辺りを見渡し始めた。神奈の疑問に俺は、
「机に垂らした涎拭いて自分の席戻れ。」
と返した。内容が支離滅裂だが、こんな会話は日常茶飯事。一々気にしてたらやっていられない。
あと、どうでもいい話を1つ。貫井神奈は、同性愛主義者である。
男と男、女と女。同性間での恋愛こそが至高と毎日豪語しては理解不能の妄想をしている。
シノはこれに対して、「百合は分かるけどホモはちょっと無理かなー」と言っていたが、俺は女と女で恋愛することすら理解出来ないタイプだ。異性間恋愛が無難で最高だ。
神奈が『EARTH』を始めた頃は、よくシノと2人で敵をなぎ払い、神奈に武器や防具の素材集めを徹底させるなんて協力プレイを頻繁にしていたが、その時の俺とシノのコンビネーションを見て、神奈は〝ドーナツコンビ〟なんてネーミングを付けた。ネーミングの由来は言うまでもないだろう。
お前が言うとホモくさくなるからやめろと言ったが、神奈は『EARTH』内だけではなくクラスでも言い始め、結局それが学校でも浸透する羽目になり、一部の生徒からたまにそう呼ばれている。
閑話休題。
「もー、朝くらいゆっくり寝かせて欲しいのになー」
目を手の甲でゴシゴシと擦り、大きく欠伸をする。
「寝ることに関しては何も言わねえよ。ただ俺の席で涎を垂らすなって話だ」
「涎を垂らすくらい気持ちいい睡眠が出来てしまうこの机が悪いのだよドー君」
「どっかのガキ大将もびっくりのこじつけ理論だな。いいから涎を拭け」
「そんなことより、昨日やっと〝魔法職〟全部の熟練度がマックスになったんだ!」
「いきなり『EARTH』の話題にワープさせるな。そしてお前の口元の涎を拭けとは言ってねえ。机の涎だ」
こんな支離滅裂な会話すらいつも通りだ。
「……ん?魔法職全部極めたってことはもう賢者極めたのか?早くね?」
『EARTH』のワールドには、他のRPGでもおなじみの〝職業〟がある。
その職業を大きく分けると、〝戦士職〟〝魔法職〟〝職人職〟〝商人職〟の4つに分かれていて、そこからさらにそれぞれ10種類以上の項目が存在している。これらを〝項目職〟と呼んでいる。
その中でも魔法職は項目が多い部類で、それぞれの項目職を極めるのに必要な労力も大きい。
「昨日寝ないでモンスター狩りまくってたからね。おかげで指が筋肉痛よ。こりゃ5時間目のソフトボールは出来そうにないかなー」
職を極める唯一の方法は、モンスターを倒しまくることだ。
しかし先述の通り、魔法職の項目職を極めるのに必要なモンスター討伐数は途方もなく、さっき俺が尋ねた時に言った〝賢者〟は、全職業の、全項目職の中で頂点に位置している。
《項目職〝賢者〟に就いた状態で、Lv.300以上のモンスターを999体以上討伐》
これが賢者の熟練度を最大にするためのボーダーラインだ。俺も去年魔法職を全て極めたが、あれほど苦痛な物はなかった。もう2度とやりたくないね、あんな苦行は。
ちなみに『EARTH』はプレイヤーも、モンスターも、レベルやステータスの上限は存在しない。だからやり込めばやり込むほど強くなれるし、何よりどれだけプレイしているかというアピールにもなる。
確か俺は981だったかな?
「そうか。じゃあこれからは全部お前に回復役を任せるか」
雑巾に消毒液を染み込ませ、机を拭き取る神奈に笑いながらそう言った。
神奈は、何も言葉を返さなかった。しかし、こちらを見てニヤリと笑った。「任せとけ」と、そう言ってるように、俺は感じた。