近くて遠い、あの日のふたり
「お、おえぇぇぇえええ…………げほっ……げほげほっ……」
「……大丈夫? まったく、もう……」
そんなに呑んで大丈夫? 結構アルコール度数強いお酒だけど、それ。お酒、そんなに飲める人だったっけ? うん、大丈夫、これでもお酒強いほうだし、お酒好きだし、いろいろ呑んでみたいから。そう、それなら良いけど、無理はしないように。うん。
賑やかだった同窓会の席でそんな会話をしたのは何分前だったか。
美味しそうにお酒を口に運ぶ彼女、こんなに楽しそうに飲んでるなら大丈夫だろう、そう思ってしまったのが不味かったのかもしれない。途中でまた呑み過ぎないように注意を促したりすべきだったんだろうけれど……もう、後の祭り以外の何物でもない。
まあ、数年ぶりに顔を合わせる面子も多かったし、少し舞い上がってしまうのは仕方の無いところではある。現に、私もいつもよりも少しだけペースを早めてアルコールに手を伸ばしていたわけだし(とはいえ、全然酔いつぶれるボーダーラインには届いていないのだけれど)。
数年ぶりに顔を合わせる面子。うん、招待状を郵便受けの中に見つけたときは「卒業してから顔も合わせてないし、断ろうかな」と思ってしまうぐらいには、疎遠になっていた。
別に仲が良くないとかクラスに馴染めなかったとか、そういうのは全然無かったし、今でも良い友達だなと改めて痛感はしたのだけれど、卒業と同時に新しい人間関係のほうに忙しくもなってはいたし、どんどん疎遠にはなってしまっていた。
そう、今隣で盛大に嘔吐している彼女、青春と言われる時期を一番多く長く一緒に過ごしていた彼女の顔さえ、今日再び出会うまで忘れてしまうほどに。
「おええええぇぇぇぇぇ……はぁ……はぁ……も゛、も゛っ゛た゛い゛な゛……うぷっ……」
「……勿体無いことないから、出せるだけ出したら良いから。そのほうが楽になるし」
「う、うん、でもも゛っ゛た゛おぇぇぇぇえぇえ」
同窓会のほうはまだまだ盛り上がっている時間帯だろう。というか、アルコールが回ってきて今の時間が一番愉しいと感じられる時間かもしれない。
私のほうは彼女の様子が少し変だなと感じて、彼女が嫌がるのも、周囲が茶化すのもお構いなしに少し離れた場所にある公園に連れてきたわけだけども。居酒屋のトイレでも問題は無かったんだろうけれど、酔い覚ましに丁度良い夜風が吹いている季節と時間帯だという判断での選択。と、あとなんとなくふたりきりになりたかったのもあったし、周囲が茶化すのも強ち間違いじゃなかった。あのころよりも堂々と出来てはいたけれど。
彼女の横に、彼女と同じ方向を向いてしゃがみこみ、背中をさすってあげる。飲み屋街の近くにある公園ということもあって、彼女と私を気にする通行人は殆ど居ないに等しいようだった。そもそも、私が周囲を特に気にしていないというのもあったのだけれど。
そんな周囲のことはどうでも良くて、あの頃よりもほんの少しだけ、背中が丸くなったような、とかそんな思いで頭が満たされていく。
なんだかふたりきりでこうしてしゃがみこんでいると、昔のことを思い出す。
もうずっと昔のことなのに、まるでつい昨日のことのように。
あのときは――まだ制服に袖を通していたあのときのあの日は、ふたりでお弁当を食べていて、何か面白い話をしていたんだと思う。話の内容は覚えていないけれど、楽しかったのは覚えているから。
私はうんうんと彼女の話を聞きながら笑っていた。そうしたら彼女も笑ってくれて、身振り、そして手振りまで加えて話をし始めて。ちょっと危なっかしいなぁと思った後だったか思う間もなくだったか、その大きな手振りがお弁当を直撃して、壮大に床に散らばっちゃったんだっけ。
あのときも彼女は涙声になりながら「もったいない」って言っていたと思う。そして私は「私のお弁当、分けっこしよう」、そう言ったんだった。うん、本当によく覚えてるもんだ。
今になったら彼女は見た目こそ大人の女性という感じだけれど、まだ制服を着ていたころは、なんというか「一緒に居てあげないと心配だな」そう思ってしまうような子だった。お弁当の件と似たようなことは、数え切れないほどあったし、そのたびに私は世話を焼いてあげたものだった。
少し、ほんの少しだけ文字通り「ヤレヤレ」と感じていたのも否定しない。けれど、それ以上に今思い出しても心がぽわわんと暖かくなってくるし、嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。
「あ゛……ふぅっ……すっきりしたぁ……」\
「すっきりしたなら何より。はい、水だけど飲む?」
「えーっ、お酒はー? せっかくお酒呑みに来たのにー」
「……あんだけゲーゲーやっておいてまだお酒飲む気だったりするのね……」
「あははっ、冗談冗談。お水、頂きます」
「はいはい、どうぞ」
ごめんね、ありがとう。そう言って遠慮がちに微笑みながら彼女は私の手からペットボトル入りの水を受け取ってくれて、失った水分を取り戻そう身体がしているのか、ごくごくと音が聞こえてきそうなほどの勢いで水を飲み始める。
雑踏を遠くに聞きながらも、私は彼女のほうに意識の殆どを持っていかれていることに気が付いていた。
居酒屋から肩を抱いて歩いてきたさっきまでの時間よりも、ほんの少しだけ距離を置き、夜の空気越しに感じられる彼女の存在。アルコールと香水の混じった匂い、数年ぶりなのに昨日までも、そして明日からもずっと自然に居てくれそうな、そんな空気。
あの頃とは私も彼女も、何もかもとは言わないまでも大きく変わってしまっているはずなのに、まるであの頃と何も変わっていないような、そんな感覚すら覚えてしまう。
ちょっと呑み過ぎたかも、いつもはこんな調子じゃないんだけどなあ。でも、今日のお酒はすごく美味しくてついつい口に運んでしまったんだよね。そう言って笑う彼女に、「私も今日は会えて嬉しかったよ」という言葉を返すことはしなかった。
学生のころをふと思い出すときに、その殆どの光景に彼女は居た。いつからなんて覚えていなくて、それでも一番古い記憶の引き出しを開けると、やっぱり彼女はそこに居る。
いつも放っておけなくて、私が居なかったらダメだと思ってしまって。でも、それは全くの逆で。いつの間にか、私にとって彼女はなくてはならない人になっていた。そして、その想いは自ら違和感を覚えるほどに膨れ上がる。
「ふぅ。夜風も気持ち良いし、酔いも覚めてきたかも」
「そっかそっか、それなら良かった。立てる? もうちょっとこうしてる?」
「大丈夫、立てる、と思う。ちょっとまだぼわーっとするけど」
そっか、と相槌を打ち、先ずは私がすくっと立ち上がる。そして、間を置くこと無く彼女へ差し伸べる手。昔のように、彼女の手が差し出される前に、私が手を。
そしてその手を、昔は「ありがとう」という言葉の代わりににこりと微笑んで取ってくれたのだけれど。
「ありがと」
その言葉にどういたしましてと短く返し、握った手に少しだけ力を込めて彼女を立ちあがらせる。私よりも少し体温が高くて暖かい手、それがまた握ることが出来る日が来るだなんてと感慨に耽る間もなく、立ち上がってすぐにその手は離れていってしまう。
私の手のひらに残った彼女の暖かさと柔らかさを、冷たくもない夜風が洗い流してしまった。
「んーっ……なんかごめんねー? 折角盛り上がってたのに私のせいで」
「いえいえ。私もなんかちょっと外の空気吸いたいなーって思ってたし」
そう? それだったら良いけど。そう言う彼女の優しく微笑んだ目は、まるで私の嘘なんか見透かしているようだった。
別に、誤魔化さずに「ふたりきりになりたかった」と言っても良かったのかもしれない。いや、良くない。それはきっと、私には言えない。言えないことだった。
今更そんなこと、私には言えない。言う資格なんてない。
だって、私は彼女を――
「ねね、じゃあ……もどろっか?」
「あー……うん、具合悪いの良くなったんだったら良いけど……」
なんてね、まだちょっと本調子じゃないし、少し歩かない? すぐ戻りたいんだったら構わないけど。ううん、私もすぐ戻りたいわけじゃないし、酔い覚まししたいし付き合うよ、散歩。ありがとう、なんか……いつもありがとう。どういたしまして。
そう言いながら彼女が歩きだそうとするのに合わせて、私も歩き始める。同じ速度で隣に並んだ瞬間に、彼女が私のほうに半歩寄ってくれたのが分かった。自然に。昔そうしてくれていたように。
どこへ行こうか? そんな会話すらなく、ある程度の広さがあるであろう公園の中を歩き始める。何を話そうか。私は、何を話したいんだろう。何を話したら良いんだろう。
彼女の何でもない話に、短い言葉を返しつつも頭の中で反芻する。私には、話す資格なんてないのかもしれない。
「それにしても、本当に久しぶりだね。卒業以来かな?」
「かな。みんな、進学とかであっちこっち行っちゃったから」
あんなに毎日一緒に居たのにね、そう呟かれた言葉を私は拾うことなく、そのまま夜風に溶かす。ほんの少しだけ私を攻めるような響きを持ったその言葉に、どう返せば良いか、どう返すのが正解なのか分からなかった。
それじゃあ、またね。あの日、あのとき、たったそれだけの言葉を残して、彼女の元を去ったのは、私なんだから。
「もうすぐ紅葉の季節だね。学校の楓、綺麗だったなあ」
「そう、だね。季節になると掃除当番とか大変そうだったかも」
「あー、うんうん、わかるわかる。毎日掃除してるのに、どんどん積もっていくもんねー、落ち葉」
きっと彼女が今頭の中で想像している紅葉は、きっと私が今想像しているものと一緒だと思う。同じ紅葉を、ふたりで並んで見上げている、あのときの光景。ああ、本当に、彼女と一緒だとあのときのことが昨日のように思い出される。
日に日に降り積もっていく落ち葉も、少しずつ低くなっていく気温も、日に日に降り積もっていく想いも、少しずつ高くなっていく体温も。
もちろん、学生時代には他に友人も居た。けれど、ほぼ彼女と居ることが普通になっていた。仲良しグループというのも当たり前のように存在していたし、私たちも、極ありふれた仲良しグループのひとつだと思っていた。言いたいことが言い合えて、一緒に居ても苦にならなくて、ずっと一緒に居られるような、そんな友達だと、思っていた。
それなのに、私は彼女と距離を取った。彼女からは埋められないような、そんな距離を。
物理的にも、手段方法的にも、縮め難い距離を、まだ未成熟な思考回路で一生懸命に。
そうしないといけないと思ったから。勝手に、私が勝手に誰に相談することもなく、彼女との距離を0から100くらいまでに。
だって、私は……彼女が大好きになっていたから。気が付いたときにはもう、戻ることなんて出来ないくらいに大好きになっていたから。友人としてなんかじゃない、本来ならば異性に向けるべき感情を彼女に抱いてしまっていたから。
そこに気付いてしまってからは彼女との時間が天国と地獄が薄い紙を一枚挟んで隔てているような、そんなもの以外のなにものでもなかった。彼女と一緒に居るときに感じる高揚感と絶望感。触れてしまい、もっと近くに。そう思うこともあったし、触れることももっと近くに、彼女の近くに身を寄せることは恐ろしく簡単だった。彼女にとって、(恐らくではあるけれど)私は『仲の良い友人』だったんだから。私から近付くことをしなくても、彼女のほうから勝手に近付いてきてくれることもあった。嬉しかった。本当に嬉しかった。気持ちに気付く前から嬉しかった。気持ちに気付いてからはさらに嬉しくなった。けれど、辛かった。本当に辛かった。
これぐらい、越えていけるんじゃないか。そう、楽観的に考えようとした時期もないこともなかった。けれど、私たちがまだ学生だったころは今と違って情報に溢れていなかったし、若かった私はただただ『同性を好きになるなんておかしいこと』と決め付けてしまっていたし、ともすれば越えられたかもしれない薄い壁すら越えようとしなかった。
……越えようとしなかったかと言えば、そうでもなかった。本当は越えたかったし、越えようかとも思った。でも、越えようとすることのメリットよりもデメリットにしか目がいかなかった。気持ちを伝えて断られてしまったら、もう隣に居られないかもしれない。それだけならまだ良い。良くないけど、それだけだったらまだ良い。嫌われたくない。それが大きかった。
そうなるくらいなら、気持ちを殺す。伝えない。伝えるものか。そう決めた。一緒に居てしまったら、気持ちが抑えられなくなるかもしれない。だから私は距離を取った。
自分でもなんて極端で、頭の悪い選択なんだろうと思う。でも、あのときの私にはそうすることしか思いつくことが出来なくて、その一番安易とも取れる道に走った。
携帯電話は社会人になるときにに持ちはしたけれど(周囲に比べるとかなり遅いほうらしい)周囲には番号を教えることはしなかったし、実家に電話が掛かってくることもあったみたいだけれど、取り次がないよう言ってあった。
それほどまでに頑なだった。月日が流れて、彼女のことを想う日が少しずつ少しずつ減っていって、大好きだった笑顔も、大好きだった声も、想いだけを残して少しずつ少しずつ記憶の向こう側に消えていって。そう、きっとこのまま綺麗な記憶だけを残して、この想いは過去のものになる。はずだった。
「それにしても、電話、出てくれると思わなかったなー。何年かぶりに電話したけど、昔からいつも居なかったもんねー。一人暮らしで実家になかなか戻らなかったみたいだし」
「う、うん。結構うちの親ってほら、忘れっぽいから」
「あははっ、あんなにしっかりしてそうな親御さんなのにー」
あれで結構だらしないところがあるんだよと、両親(特に母親)に対して申し訳なく思いつつ、今になってはあの偶然にちょっとだけ感謝した。
今思い出そうとすると思い出せないほどにちょっとした用事で実家に帰ってきていたときだった、その電話が鳴ったのは。そのときに電話の一番近くに居たのが私だった。特に警戒なんてすることもなく、コールの回数が片手で収まる範囲で受話器に手を伸ばし、そして耳元に。余所行きの声で「はい」と応対する。
その次に出てしまった言葉は「あっ」と言う意図せず発してしまったもので、そこから先は何を喋ったのか覚えていなかった。覚えてなんていられるはずがない。受話器から聞こえてくる、つい数秒前まで殆ど忘れてしまっていた声。まるで朝霧の中にいるかのように霞んでいた記憶が、たったの数秒で私の隣のはっきりと見える位置まで帰ってきてしまったんだから。
「でも、ええと……今日は来てくれると思ってなかったよ」
顔なんて見なくても分かる位に、表情が声に表れていた。私の心を揺らして止まないその声に、丁度時間が空いていたからと返すのが精一杯だった。
本当は、もしこうやって旧友が集まる機会があったとして、私は言い訳を並べて出席しないつもりだった、はず。そう決めていたはずだし、そうするつもりしかなかった、はず。少なくともこうやって出席しようとは思っていなかった。のに。それなのに。
「やっぱり、本当は、会いたかったから」
つい出てしまった言葉なのか、彼女に伝えてみたかった言葉なのか、自分でも分からなかった。それぐらいにあっという間に、月日の壁は崩れ去り、私の気持ちをあの頃に引き戻した電話口で聞いた彼女の声。引き戻されてしまったら、会いたくないわけなんてなかった。会わずに済ませられるほど、あのときに戻った私は強くなかった。今の私も強くなんてなっていなかった。
会えば何かが変わるわけでも無い、会えばどうにか出来るわけでもない。それでも、会いたかった。大好きだった、ううん、大好きな彼女に、会いたかった。
「私も会いたかったから、嬉しいよ。皆に会うの、久しぶりだったし」
「……うん、私も、そうだよ」
そう、想いは伝わらない。伝えようとしていないから。だから、彼女の反応は至極真っ当なもので、私も外灯の光がわずかに射すだけの暗闇に、落胆を溶かす。
ただ、声を聞いたらまた会いたかった。あの日の、あのときの笑顔を思い出したら、ただただ会いたくて仕方がなくなった。それ以外は考えていない。ううん、考えないようにした。考えたってそれこそ仕方がないし、きっとあのときと同じ結末に至ろうとする自分しか想像出来ない。
まだ幼かったあの頃に比べたら大人にはなった。あの頃には知りえなかった世界だって、知ることが出来た。私が彼女に向けるような感情も、異性のそれと変わらないということも。
だからといって、彼女に気持ちなんて伝えることは出来ない。それは、これだけ時間が流れて大人になったにも関わらず、もしかしてもう二度と会うことが無くなるかも知れないのにも関わらず、私は嫌だった。彼女に嫌われてしまうことが。自分から距離を取ったくせに、彼女が離れていくのが嫌だった。自分から勝手に離れるのは良くても、彼女が離れていってしまうのが。
「んーっ……そろそろもどろっか。それとも……このままふたりでどこか行っちゃう?」
不意にぴたりと足を止めて放った彼女の言葉に他意は無いのは知っている。知っているけれど、言葉が胸を打ってどうしようもない。きっとここで「うん」と言ってしまえば、ほぼ確実にふたりきりになることが出来る。彼女にはなんの他意も無しに。友達として。
「……皆を待たせたら心配するだろうし、戻ろう」
それもそうだね。私の声に、彼女は短く答える。今まで連絡すら取らなかったことを謝りたいとか、卒業してから今までのこととか、ふたりきりで話したいと思えることはまだまだたくさんある。けれど。きっと、それは、私は望んではいけないことだと思った。望むべきことじゃないと思った。ただもう一度、こうやって彼女に会えたことだけで既に奇跡なんだから。これ以上の奇跡なんて、望んだらバチが当たる。
「よーし、それじゃあ、戻ろっか」
「うん、付き合ってくれて有難う」
「あははっ、付き合ってもらったのは私なのに、変なのー」
「……なんとなく、ね。じゃあ、戻ろう」
うん、と呟いてから踵を鳴らして、彼女が一歩だけ私の前へ。
隣を歩いているときにふと何かを思いついて、そして私の一歩前に出る癖。何を思いついたのかは私には分からないけれど、昔と変わってないんだなと思えて心が温かくなった。
まるであの頃と変わらない、大人びているのに無邪気さを残したような笑顔で振り返る彼女。どうせまたどうでも良い、下らないことでも思いついたんだろう。彼女は何を言おうとしているんだろう、そんな邪推なんてせずに、ただ彼女の言葉を楽しみに待つ。ああ、なんだかこんなに時間も距離も離れていたのに、本当にあのときのまんまだ。
この公園を出るときまで、ううん、そんな贅沢は言わない。彼女の笑顔が終わってしまうまで、その瞬間までで良い。あの日に、あのときに。
「今度は私が手を伸ばすから」
彼女が笑顔で差し伸べてくれた手。はにかんだ笑顔で、少し遠慮がちに私に差し出してくれた手。私じゃない、彼女が差し伸べてくれた、手。
柔らかく吹く風が、木の葉を揺らす音。遠く近くに聞こえる喧騒。それよりも大きく聞こえてくる、自分の鼓動。
あの頃の私だったら、彼女の手を取っただろうか。
今の私は、彼女の手を――