頭撫でられました。
「みんな、貼り紙は読んでくれたよな?」
翌日の保健体育の授業は、教室でスタート。先生のそんな一言から始まりました。
みんな顔を見合わせてます。あんなに目立つ場所に貼ってあったのに、どうして気づかないんだろ……。私はちらりと隼人くんを振り返りました。清々しいほどの無表情に、かえって少し心が傷みます。
「我が校の体育祭は基本的には生徒の自主的運営、自主的な活動を優先している。しかし中二の組体操だけは例外で、創立当初以来の伝統として今に引き継がれているんだ。だから、我々の代もやらない訳にはいかない」
堅い顔して先生は語ります。つまり、今年も組体操やるよって事です。
そこで、と先生は前置きしました。
「組体操の目玉として、『タワーブリッジ』というものがある。問題はこの競技の頂上を、いったい誰が引き受けるかという事なんだ」
組体操には『タワー』っていう技があります。
肩を組んだ六人を一段目、その上に同じく肩を組んで乗る三人を二段目、その頂に立つ一人を三段目とする演目なんです。で、『タワーブリッジ』というのがどんな技かと言うと、二つ並んだ『タワー』の三段目同士が手を繋ぎ、その状態で三十秒間を保ち切るという、この中学オリジナルの大技らしいです。
単なる『タワー』だけなら、私たちはみんな小学校の頃に経験してます。ちなみに私はその時、台座の一段目でした。
私がてっぺんになる事は、ないだろうな……。
机に頬杖をついてため息を吐くと、先生は教室を見渡して言いました。
「二つのタワーは男女別に建てる。つまり、頂上も男女一人ずつだ。バランスや高さなど、どんな人選が適切なのかをクラスでよく話し合って、三日後の昼休みまでに僕のデスクまで報告に来てくれ。──じゃあ、保健の授業を始めるぞ」
その日の昼休みは、まるで『休み時間』にはなりませんでした。なぜって、みんながみんな一斉に、
「誰がいいかなぁ」
「画面がいい方がいいんじゃない?顔面偏差値高そうな子にした方が安全そう」
「えー、私は登ってみたいなぁ。だって頂上なら漏れなく、男子と手を繋げる訳でしょー?」
なんて、好き勝手に話し合いだしたからです。
隼人くんはまだ、自分の机にじっと座って何かを考えています。私は身体測定後の昼休みの記憶を頑張って掘り返していました。確か隼人くん、身長は百七十センチ、体重は五十九キロだった気がします。その気になれば、上に登れちゃう体格です。
はぁ、とまたため息をついた私に、横から友達の石橋沙月ちゃんがささやきました。
「ねーねー、アオイは誰かと登りたいって願望はないの?」
「えっ、私?」
「好きな子とかさー」
地上三メートルの高みでカレと手を繋げるなんて、幸せだよねー。そう続ける沙月ちゃんは、すっかりもう妄想の中にいます。私、知ってるんです。沙月ちゃんは隣のクラスに、小学校からずっと付き合ってる彼氏の子がいるんです。
「好きな子……」
そう呟いたとたんに、三段目で私と隼人くんが手を繋いで笑っている景色が浮かんで、私は思わず首をぶんぶん振りました。やだ、そんなの恥ずかしい。恥ずかしすぎてタワーから滑落しちゃいます。
「あれ、照れてるの?」
沙月ちゃんはいたずらっぽく笑って、私の頬をつんとつつきます。気付かれた!?
「て、照れてない! 照れてないけど……」
「けど?」
「…………ううん」
口にするのさえも恥ずかしくて、私は逃げるようにその席を離れました。
有り得ない。
有り得ない。
有り得ないったら有り得ない。
私と隼人くんが頂上だなんて。
落ち着け、私。勢い余って廊下まで駆け出してきちゃった私は、そこで今日一番の大きな息を吐き出しました。こんな妄想が膨れるということは、きっと今の私は疲れてるんです。
ああ、隼人くんが自ら『そんなの有り得ないから』とか言ってくれたらなぁ。そうしたら私ももう少し、気楽になれるのに。
足が疲れちゃいました。私は廊下の真ん中に佇んだまま、膝を折り曲げて息をなだめていました。
と、頭上から声がかかりました。
「あのさ、ちょっとちゃんと立ってくれない?」
は、はいっ!
反射的に立ち上がったところでようやく私は、今の声が隼人くんの声だったと気づきました。そして、その時にはもう、私の頭に隼人くんの手が乗っていたんです。
「ひゃう!?」
あんまりびっくりしたから声が出ちゃいました。慌てて私が振り返ると、そこに隼人くんの胸がありました。その脇から伸びた腕が、私の頭をぽんぽんと優しく叩いています。
えっ? な、なんで!?
顔を見上げました。私を見下ろす隼人くんの瞳が、光を映して綺麗に輝いていました。
胸が、きゅうんと鳴りました。
隼人くんの手、ほんのりあったかいんです。まるで触れられた瞬間、その場所から疲れが吸い取られていくみたいで、安心するんです。
私よりも体格ではずっと優る隼人くんの、大きくて強い──けれど繊細な手。すっかり骨を抜かれたようになって、足がふらつきます。
女子がされて嬉しいシチュエーションランキング、堂々の一位に鎮座する頭なでなで。私、それを今、愛しの隼人くんから受けている──。
ああ。
毎日、こんな風に頭を撫でてもらえたらなぁ。
どんなに幸せなんだろう……。
そう思いかけて、私ははっとしました。そうか、これはもしかしたら隼人くんなりのアピールなのかも! このままの流れでぐいっと身体を引き寄せて、私の耳元できっとささやくんです。お前に惚れた、付き合ってもいい? ……って! きっとそういうフラグです!
きゃ────────!
好きです! 好きです私、隼人くんの事が大好きです! ずっと前から好きでした! 昨日の事は忘れます、だからどうか私をこのまま貴方のモノに────!
「俺が、百七十だから」
興奮して鼻血でも流しそうな私に、隼人くんは独り言のように呟きました。
「三笠の身長は、百五十五って所か」
えっ?
身長?
百五十五?
隼人くんはあっさり私の頭から手を外して、それをそのままポケットから取り出したペンに当てました。そして壁に寄ると紙を当てて、ペンで何かの図を描き始めました。
全てが唐突のうちに終わって、訳を把握する事も叶わなかった私はまだ、そこに立っていました。頭に手をやると、あのあたたかかったはずの感覚はとっくに消えちゃっています。
もしかしたら、と思いました。隼人くん、私の頭に手を置いて、身長を測ってただけなんじゃ!
なに、その斬新すぎて誰もやらないようなやり方!? 素直に聞いてくれればナノ単位まで教えてあげるのに! それなのにいちいち隼人くん、私を期待させるだけさせといて!
いや、でも勝手に期待してたのは私だし、というかそもそもどうして身長なんて……。
何事もなかったように歩き去っていく隼人くんの背中が、なんだか遠く見えました。フラグ立てといて自分で折る、それが隼人くんのスタイルなんでしょうか。
夢破れた私がとぼとぼと教室に戻ると、本を読んでいた沙月ちゃんが迎えてくれました。
「あ、お帰りー。何してたの?」
「別に……」
うん、ほんと何しに行ったんでしょうか、私。ただ出て行って勘違いして帰ってきただけ。
「変なのー」
ぽやんとした顔の私を、変な目付きで見ていた沙月ちゃんは。
あれ、とでも言いたげに眉を潜めました。
「そう言えばアオイ、成田とすれ違った?」
「え、うん。すれ違った」
「んで、どこに行った?」
私は廊下の左側を差しました。あっちが隼人くんの行く手だったはずです。……もっともとうの昔に、隼人くんの姿は見えなくなってるはずですけど。
マジか、と沙月ちゃんは首をかしげます。
「どこに行ったんだろう……。先生にもらった用紙、成田が持って行っちゃってるはずなんだけど」
用紙って?
あ、隼人くんが何か書き込んでたあの紙かな。
曖昧に頷くと、沙月ちゃんは勝手に事情を話し初めてくれました。
「つい今さっき、男子の方は話し合いが纏まって、頂上は成田で決まったのよ。女子は俺が適当に決めるって言ったきり、成田のヤツ、出て行っちゃってさ」
「へぇ……」
誰か、いい候補でも見つけたのかな。それともさっき私の身長測ったのは、その候補探しのため?
分かりません、もう。
期待はしないことに決めて、私は椅子につきました。
その一週間後、【決定事項】と書かれた紙が教室に貼り出されました。
紙を見たクラスメートの間から、色んな声が上がってます。一番下は嫌だな、とか。練習大変そうだな、とか。
何気なくそれを眺めた私は、目玉が飛び出したかと思いました。
だってだって!
そこには、こう書いてあったんですよ!?
『頂上 男子……成田隼人 女子……三笠葵』
って!