妊娠8週間目
病院に着くと、魅花は病院のベッドで束になった折り鶴を眺めながら横になっていた。横になったいた……というよりは上半身を傾けた様な体勢と言った方が正しいだろうか。世に言うリクライニングという機能を持つベッドだろう。
「あ、パパ。 お疲れ様」
いつもの笑顔で魅花は言う。
魅花はこういう時、いつも笑顔なのだ。何か笑える事や面白い事があるわけでも無いのに、辛い事・悲しい事……そんな時でも魅花は笑顔なのだ。
「魅花はいつも笑顔だな」
そんな自分の言葉に魅花は疑問を浮かべた顔で問いかけてきた。
「だって、私から笑顔を取っちゃったら、何にも取り得が無くなっちゃうんだよ? 残るのは小さい身体に動かない両足。それに……子供に笑顔を見せなかったら、子供が笑顔を見せてくれなくなるでしょう?」
「でも、全部が全部そうとも限らないだろう。悲しい時は泣けば良い。無理に涙を流さないなんて……自分はそういう魅花が可笑しいな……とは思うけどなぁ」
確かに子供を想う気持ちは大切だが、過保護……という言葉もあるように、子供を甘やかし過ぎると子供が言うこと聞かなくなり、収拾が付かなくなってしまっては手遅れになる。飴と鞭を使い分ける……そんな言葉もあるが……案外難しいものだろうな。
「気分…どう?」
自分は魅花に心配しながら問いかける。
「大丈夫。今は全然平気。あの時は、心配掛けちゃってごめんね……」
あの時……というのは、先日前に起きたアパートでの出来事である。
自分は部屋を掃除し、魅花が台所でいつもの様に必死で料理をしていた時、タンスの上を雑巾で拭こうとした時に、台所から何かが落ちる様な音がした。自分は気になり台所へ向かうと、いつもの様に車椅子から背筋を伸ばしている魅花の後ろ姿。
「何か落としたの?」
返事が無い。
不思議に思い、魅花のもとへと近付くと台所のシンクが赤かった。包丁にポタポタと刃先に滴り落ちる赤い液体を、伝う様に見上げると、魅花の左手の甲が大きく切れていた。
「おい……魅花! 何してる!! 何で固まったままなんだよ!?」
自分の怒鳴る声に魅花は気が付いたのか、ハッと辺りを見渡す。
「…ふえっ? 何? 何で肩掴んでるの?」
「手を見ろ左手を!! タオル持って来るから傷口抑えてろ!!」
洗面所へ急ぐ自分の後ろからは、魅花の悲鳴が聞こえていた。
その後、魅花を最寄りの病院へ車で送り、先生に見てもらうと、傷口自体は浅かった為に安静にしていれば大丈夫だそうなのだが……それ以前に魅花が何故、手の甲を切ったのかを先生に聞くと。
「吐き気……若しくは立ち眩みの類が原因でしょう。此方に彼女が来たときは、しんどそうで……顔面蒼白でしたから」
と、先生は言っていた。
話を聞いて魅花の病室を覗くと、ベッドに横になっていた魅花には笑顔が無かった。暗く、いつもの表情からは想像出来ない程の。
後に聞いた話だが、何でもアパートの大江さん曰わく、妊娠8週間目っていうのは、つわりの症状が頻繁に起こるらしい。台所で立ち眩みが起こった時に、フラッと包丁を持った手が偶々左手の甲を切ったのだろう。続いて大江さんが言っていたのだが、今妊娠8週間だという事は、あと7ヶ月もすれば子供が産まれるらしい。
長い様で短い期間だが、その期間を全て病院で暮らすという訳でも無い。手の傷が治るとアパートで生活する予定なのだが、魅花曰わく…
「妊娠なんて初めてだし、アドバイス無しでなんて心配で……病院で赤ちゃんが産まれるまで……良いかな?」
魅花の言う事も間違っては無いのだが、過剰に心配しているのではないか? と自分は思う事がある。
7ヶ月も病院で生活って……そりゃあ、自分の親も魅花の親も手伝えない状況下ではあるし、魅花自身妊娠は初めてだし、また魅花に何かあった場合、今度はもしかすると自分の居ない合間……即ち仕事中に事が起こってみろ。魅花の命が本当に危ない。
そう考えるとやはりアパートよりかは病院の方が安心だけど、その分……お金が………最終的には、今こうして魅花と病室で話しているという事は病院を選んだ訳なのだが……
お金なんて後でも必死で頑張れば取り戻せる。
優先すべきは赤ちゃんの命なのだ。
「明日も仕事が早く終われば来るから。お休み」
そう言って自分は魅花の病室を後にする。