垣間見
普段から夜中に目が覚めるなんてことはなかったのだけれど、ふっと、その時は潜水から急浮上したかのように、意識が急に引き戻された。重い瞼をゆるゆると上げて、ぼんやりとした頭で今は何時だろうと思う。夏と冬にしか来ない祖母宅の天井の、ともすれば何かにも見えてしまいそうな木目が少し不気味に思えた。障子の向こう側はまだ闇に沈んでいて、同じ部屋で寝ている兄の微かな寝息と時計の秒針の音だけが部屋を満たしていた。
どうして目が覚めたのか、理由がわからなかった。生来おやすみ三秒という言葉がしっくりくるほど寝つきがよく、一度寝たらちょっとやそっとのことじゃ目が覚めないというのが周囲からの評価だったからだ。事実、少し大きめの地震が起きても一人だけ目を覚まさなかったり、近所でパトカーのサイレンが鳴り響いていても安眠していたので、てっきり自分でもそうだと思っていた。夜中に自然と目が覚めるなどということは、今まで一度もなかった。もちろん枕が変わろうとも、環境が変わろうとも今まで問題はなかった。ましてやここは、何度も来ている祖母の家。年に二回しか来ないとは言っても、既に勝手知ったる他人の家と思えるほどに慣れている。
部屋の中はぬるく湿気がこもっていたが、喉の渇きも、尿意もなかった。不思議に思いながらも再び夢の世界に戻ろうと、寝ている間に蹴とばしていたタオルケットを腹にかけ、布団に横になる。背中に普段は一緒に寝ることのない兄の気配と寝息を感じつつ、何気なく視線を部屋の奥に向けた。
布団と座布団しか入っていないはずのふすまの隙間から、ちらちらと揺れる光が漏れていた。
はて、あんなところに光源はあっただろうか。布団を出す時に中を見たが、ごくありふれた押入れだった。全面板張りの、少しだけ湿気のある、押入れ独特の淀んだ空気が満ちた狭い空間。もっと小さい頃は秘密基地のような扱いで、中に入っていた布団を引っ張り出しては懐中電灯を持って兄と二人、押入れに引きこもって遊んでいたこともあった。そんな思い出が頭を掠めたが、電灯が中についているなんてことはなかったはずだ。
細く開いたふすまの隙間から洩れる光はオレンジに似た、温かみのある色をしている。ちらちらと不規則に揺れては、時折誰かが通ったかのように影で瞬きかき消え、また漏れ光る。引き寄せられるように体を起こし、音をたてないようにそっとふすまに近寄る。穏やかな寝息を立てる兄を起こさないよう、四つん這いで畳を這い、ふすまの隙間を覗き込む。
最初に目に入ったのは、朱塗りの門。その前には無数の提灯が地べたに並べられていて、どれも温かく優しい色をした蝋燭を中に灯している。牛の頭をした、どこか異国情緒の雰囲気を持った昔風の服装をした兵たちが両側から門を開けると、中からどっと人が出てきた。雪崩のように出てきた人たちはどことなく浮足立っていて、門を出ると並べられた沢山の提灯の間を歩いてはきょろきょろと探しものをしている。そうして目当ての提灯を見つけると手にとっては、嬉しそうに歩き去っていく。中には提灯を持つと緑の鮮やかな馬が現れ、それに跨って去っていく人もいた。
映画の一部分のように、妙に現実味のない光景だった。声は聞こえないから、まるで無声映画を見ているようだ。声が聞こえないと気づいたのは、ある老人が提灯を持った時に馬ではなく紫紺の牛が出てきた時だった。周囲が一瞬呆気にとられた後、楽しそうに笑っていたからだ。笑われている本人も苦笑しながらも仕方ないと寛大な態度で、牛の紐を引っ張ってゆっくり去っていった。ゆったりとした足取りでその人の後をついていく牛は、よく牛乳のパッケージで見るような白黒の牛より、テレビで見た南国で人の生活の一部を担っている牛に似ている気がした。
一度ふすまから目を離し、これはなんだろうと考える。考えるけれど、よくわからない。見てはいけないものを見てしまったような、見なくてもいいものを見てしまったような。ごそりと後ろで空気が動く気配がして、振り向くと先ほどまで背を向けていた兄が寝がえりをうち、こちらを向いていた。顔の近くにふすまから漏れ出る光の帯が走り、起こしてしまうかもしれないとふすまを閉じた。小さく音を立ててふすまが閉まると、部屋の中は再び暗闇に沈んだ。夢だったのかもしれないと思いつつ、布団に戻って横になる。目を閉じてしまえば、次に目が覚めたのは空が明るくなってからだった。
布団を片づける時にふすまを開ければ、そこに広がるのはいつもの押し入れだった。変なこともあったもんだ、と首を傾げつつ布団を戻したのは、高校二年の盆だった。これが、最初だったと思う。
▲ ▼ ▲
大学生になって、実家から離れたところで一人暮らしを始めた。お盆には帰ってきなさいよと言われていたけれど、二年目の今年はバイトと勉強と教授の手伝いで都合が合わなかった。帰省で少しがらんとした大学構内は、どことなく寂しげだった。
「夏だし、百物語でもしようか」
教授があまりにうきうきとした様子で言うから、まさかしたくないとは口が裂けても言えなかった。正直面倒くさかった。その上、蝋燭はないからアルコールランプが代用品となり、情緒もへったくれもない。少し硬い顔をした院生の先輩と研究室の先輩、あと同輩と遊びに来ていた後輩を合わせたら結構な人数になって、公平にじゃんけんをした結果、俺ともう一人で他の研究室にアルコールランプを借りに行く羽目になった。ついていない。
いつも何かしら人の気配のする研究室棟は盆休みのせいか静かで、電気のつけられていない廊下に足音が妙に響いた。近くの研究室は閉まっていたから、上の階にいつでも絶対に誰かがいる研究室に行くことにした。窓の閉め切られた階段と廊下は昼間の熱気がこもっていて、肌がじわりと汗ばむ。階段から三番目の研究室のドアをノックしたが、反応がない。でも、ドアの嵌め殺しの窓に貼られた紙の隙間から光が漏れている。
「いねえの?」
「電気ついてるんだけどな」
この暑さだから、中で倒れていても不思議ではない。少し心配しながら、嵌め殺しの窓の隙間から中を窺う。無機質な光が漏れる隙間から見えたのは、水で満たされた研究室だった。水族館で見るような色鮮やかな熱帯魚がいるかと思えば、食卓で見るようなおなじみの青魚が眼前を横切っていく。鮫っぽいのが自分の腕くらいある魚に食らいつき、血で水が赤黒くなったところで正気に返る。それでも、隙間から見える光景は変わらない。魚と水が、研究室を埋めている。と、奥の扉が開いて、中から大きなマンタが姿を現した。ゆらりと体を羽ばたかせるようにして、まっすぐこちらに近づいてくる。急に背筋が冷えて、俺はドアから離れた。
「どうした?」
「あ、いや……な」
なんでもない、と言いかけたところで、遮るようにドアが開けられた。隣にいた奴と一緒に驚いてそちらを見れば、研究棟の住人と言われている助教授が顔を出した。細められたキツネ目は開いているのかわからないが、いつ見てもこの笑顔だ。
「どうかしたかい?」
「あ、えーっと、俺ら堀研なんすけど、アルコールランプ貸してもらえませんか」
「ああ、堀研の。いいよ、入って」
「ありがとうございます」
よれた白衣を翻し、助教授は奥に戻っていった。その後ろを追うように連れが入っていったので、俺も入らざるを得なくなる。冷えた空気が流れ出るドアの向こうは水で満たされているはずもなく、助教授以外に人の気配がなかった。
「堀先生も毎年好きだよねえ、百物語。この棚にあるから好きなだけどうぞ」
「なんかすいません。あれ、毎年やってんすか?」
「そうだよ、僕が来る前からずっとだって。で、毎年アルコールランプ借りに来るの」
「あー、それで先輩も止めないんすね」
先ほど見えたものが頭を占めて、口を開く気になれない俺の代わりに助教授と喋ってくれているこいつには感謝したい。棚から出したアルコールランプを、必要な数だけ手早く段ボールに入れていく。数を確認して持ち上げれば、助教授がちらりとこちらに顔を向けた。なんとなく気まずくて、軽い会釈をしてそのまま顔を俯き気味にした。
「じゃ、ありがとうございました。ちゃんと返しに来ますんで」
「はいはい。堀先生によろしくね」
「了解っす」
研究室を出てもう一度礼をしようとそちらを向けば、ドアからの逆光を背負った助教授が見送ってくれていた。その口は綺麗な弧を描いていて、なにかに似ている気がした。
いい先生でよかったな、と言うのを話半分に聞き流し、研究室に戻ればもう準備はできていた。まだまだ昼が長いからと、わざと雰囲気を出すために暗幕を閉め、円形になるのは難しかったのだろうが一応実験台の外側に椅子を並べ、円のようにはなっている。椅子の前にひとつずつアルコールランプが置かれ、あとは俺たちが持ってきた分を足りないところに置けばいいだけだった。
子供のようにそわそわと待ちきれない様子の教授のために、電気が落とされて火が灯される。ぼう、といくつものランプに火がついて、思っていたよりもかなり明るくなってしまった。それも怪談が進めばだんだん暗くなるだろう、と思いつつ、自分の目の前に置かれたアルコールランプの炎を見ていた。順番に語られる怪談に耳を傾けてじっとしていたら、さっきの助教授の口はマンタに似ていたのか、とふと思いついた。
怪談の定番と言っていい口裂け女の話がされ、ひとつ消える。テレビ放送が終了した後の砂嵐をずっと見ていると変なものが映るという話が語られ、またひとつ消える。窓の向こうからノックされる音がしてカーテンを開けたら手だけが浮いていた話がされ、もうひとつ消える。大学の奥にある古い倉庫に閉じ込められて死んだ女性がいまだにそこにいるという話が語られて、さらにひとつ消える。順々に、おどろおどろしい口ぶりで語る人もいれば、静かに淡々と語る人もいる。盛り上がるところでだけ声に力が入る人もいる。メンバーの中にホラーが苦手な人がいるせいか、怖がっている雰囲気が周囲に伝染して怪談をするには最適な環境になっていた。
半分くらい回ったところで、さっき一緒にアルコールランプを取りに行かされた奴が炎を消して、隣の俺に語れと促す。怪談のレパートリーもそうないからと、ネットで見かけた怪談ゲームの話をした。百物語をテーマにしたポータブルゲームで、一日一話しか進められない特殊なゲームだ。途中途中で何度もやめろと警告のようなストーリーが挟まれ、最後まで見た奴が怪談の中の話に酷似した死に方をしたという話だ。実際にそんなことがあったのかどうかは知らないが、独り住まいで見るにはあまり向いていないタイプのものだった。それを読んだ後、何となく怖くなって一時期テレビを無駄につけていた。
そんな話をして、ランプの蓋になっている硝子を炎にかぶせる。蓋中の酸素がなくなり、あっけなく炎は消えた。それを見届けて、次に語り部となる人の方を見る。ランプに照らされた男の顔は、あまり見覚えがない。たぶん、遊びに来ていた後輩のうちの一人だろう。素っ気ない態度で淡々と人より長生きをする猫の怪談を語り、炎が消えた。
その後も滞ることなく怪談は続けられ、ランプが最後のひとつになる頃には、随分と部屋の中は暗くなっていた。自分たちが座るところからちょうど真反対にあたる場所に座っている教授がトリを飾るのは、先輩たちの様子から察するに毎年恒例らしい。怪談を始める前の嬉々とした様子は鳴りをひそめ、講義をする時よりも厳格で抑揚のない声で、教授は語りだした。世界の裂け目が見える男の話で、裂け目からは異界とでも言えばいいのか、とにかくこの世とは思えない光景が見えるらしい。周囲にそれを漏らしても相手にされず、ある日、友人たちといる時にその裂け目から何かが出てきて男を引きずりこんでしまった、という話だった。あまりに訥々と語るものだから、あっけなく最後の炎は消えてしまった。
一呼吸開けて、電気がつけられた。暗い所に慣れた目は急激な明るさについていけず、眩しさに目を何度も瞬かせて慣れるのを待った。
「ああ、最後にひとつ」
暗幕を開けながら、教授は思い出したように口を開いた。借りてきたアルコールランプを返しに行こうと段ボールを手にとった俺は、耳を傾けながらアルコールランプの置いてある机へ向かう。
「長生きしすぎた猫の怪談をした子がいただろう」
教授はなんて事のない顔をして、暗幕をまとめている。しわくちゃの手が器用にひとまとめにすると、次の暗幕へ足を向ける。そうしながら、笑って言った。
「その子、百物語をしてると毎年現れる、幽霊なんだよね。嘘だと思ったら、アルコールランプと人数、数え比べてみるといいよ」
また今年も猫の話だったなあ、とからりと笑って、教授は研究室奥の部屋に戻っていく。思わぬ告白を受けた俺たちは、疑いながらも誰からともなく火の消えたアルコールランプを数え、戸惑いで動きを止めた研究室内の学生を数える。アルコールランプに比べ、人数が二人少ない。一人は隣の部屋に行ってしまった教授の分。
では、もう一人は?
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。先輩たちはやはりという、確信を持った硬い表情をしていた。怖がりの子たちは青い顔をして、泣きそうな表情になっていた。
▲ ▼ ▲
「そんなことあったのね」
「はい。ちょっとぞっとしました」
「ちょっとって……相変わらず反応薄いわね、君」
かちゃかちゃと、皿が洗われる音を背景に、俺はバイト先の喫茶店で女性パティシエさんと話をしていた。もちろん話題は、研究室であった百物語とリアル怪談だ。
「やーい、おまえの研究室、おっばけやーしきー」
「……昨日テレビでやってましたね、映画。好きなんですか?」
「カンタのツンデレがね、なんだかいじらしくてかわいい」
「はあ、そんなもんですか」
「そうなの。でもやっぱり夏はこう、怖い話がいいわね。他にはないの?」
「他、ですか」
あるにはあった。しかも実体験で、それでいてホラーと言っていいのか謎の体験がいくつか。多少誇張して話すべきか、それともネットで見た怖い話を披露するか、ないと言い張るか悩んでいたら、レジの勘定を終えて店長が困り顔でやってきた。
「二人とも、もう怖い話はやめてね。おじさん、これから寂しく独り寝するんだから」
「あれ、店長って怖い話ダメでしたっけ」
「ダメダメ。この年にもなって恥ずかしいけどね、おじさん小心者だから。怖いの見た時は電気つけて寝るから」
パティシエさんと店長の掛け合いを聞きながら、ここ最近あったことを思い出す。
一昨日、図書館でレポートに必要な本を探して見つけた時、隣の本棚に隙間があった。たぶん誰かが借りたのだろう、一冊分の隙間があいていて、目当ての本を持ったあと通りがかりに何気なく目をやったのだ。その隙間から見えたのは、妙に濃い緑だった。何歩か進んで、ちょっと待てと思いながら進んだ分だけ戻り、もう一度その隙間を覗く。そこにはジャングルみたいな空間が広がっていて、うっすらとだが靄のようなものが立ち込めている。この異常現象に何故だか目が離せなくなって見ていたら、ジャングルにしては地味な色彩の蝶が一匹横切った。頼りない飛び方をしていると思ったら、その蝶を追いかけるように同じ蝶が何百匹、何千匹という数で横切っていく。視界いっぱいに蝶がいて、互いにぶつかる度に鱗粉を撒き散らして飛んでいった。あまりの迫力と若干の気色悪さに顔を離し、心臓が落ち着いてからもう一度覗いたら、本棚の背板が見えるだけだった。
その他にも、独り暮らしをしているアパートのカーテンの隙間から、映画で見たような宇宙戦争の様子が見えたりだとか。ちょっと買い物で行った都心の人ごみで、人と人のすれ違う時にできる一瞬の隙間から百鬼夜行とでも言えばいいのか、とにかくチンドン屋みたいに騒ぐ妖怪の行列が見えたりだとか。正直俺って疲れてるんじゃと思うようなものが、ここ最近よく見える。見えると言うか、見てしまうと言うか。
考えながら片付けていても体はいつも通り動いていたようで、店長の上がっていいよという声で我に返った俺は更衣室で着替えて店を出た。涼しげな透かしニットを着たパティシエさんと二人、並んで歩いていく。夜道は危ないからと店長からきつく言いつけられているので、女性であるこの人を駅まで送るのはラストまで入っているバイトの役目だ。夜になってもさっぱり冷めないアスファルトを踏みしめて、他愛もない話をしながら二人で並んで歩く。駅までそう離れていないので、十分もしないうちに駅に着いた。街灯が一瞬ちらついて、電球切れてるのかなと思って顔をあげたら蝙蝠が通ったようだった。バタバタと少し忙しない羽音を立てて闇に紛れていくのを見て、珍しいと感じた。
俺が顔をあげている隙にさりげなく一歩前へ出たパティシエさんは、振り返ると疲れをあまり感じさせない笑顔だった。肘まである、ゆったりとしたニットが揺れる。
「店長も心配性よね、私なんて頼まれたって誰も襲わないっていうのに」
茶化すような声が聞こえた時、俺はそれよりも透かしニットの隙間から見えるものに呆然となっていた。ざっくりと大きく編まれたニットの網目からは元々肌が見えていたのだが、何故か今は体があるべき場所に女の子の後ろ姿が見える。黒髪の、おかっぱの少女。セーラー服を着たその少女が、ゆっくりと振り向いた。無表情の少女の二の腕からはたくさんの血が流れていて、反対の手には鈍く光るカッターが握り締められている。
「毎回ありがとね。じゃ、お疲れ様」
「あっ……お疲れ様です。気をつけて」
彼女はくるりと俺に背を向けると、手をひらひらさせて改札に吸い込まれていった。しばらく見えてしまったものに呆然としていた俺が我に返って帰ろうと思ったのは、駅から電車の音が聞こえたからだった。どれくらいいたのかは分からないが、あの少女の顔はどことなくパティシエさんに似ていたし、そういえばどんな暑い日でも彼女が五分袖より短い服を着ているのを見たことがないことを思い出した。
見てはいけないものを見てしまったかのような、苦い気分になりながら夜道を一人歩いていると、道の途中にあるマンホールから光が漏れていた。見てはいけない気がしたが、光に誘われる虫のように近づいた俺は、しゃがみ込んでマンホールに開く穴を覗き込んだ。
それは、いつか見た朱塗りの門だった。そこには人もおらず、提灯も残っていない。閉ざされた門を見ていると、その横の塀から何かが越えてやってきた。人のような形をしているのだが、どうしてか眼鏡をはずして焦点があってないかのようにはっきりと見えない。黒く、もやもやとした塊だった。それはふらふらと頼りない足取りでこちらに近づいてくる。段々近づくそれにどことなく危険を感じながらも、今までのことを思い出して悠長に見ていたら、手らしきものが伸ばされた。それはマンホールの穴いっぱいになるまで近づき、そして、ゆっくりと穴から染みだすように出てきた。本能が鳴らす警鐘に従って思わず身を引けば、空を切ったそれはしゅるりと穴に戻った。
「其処の、身の程を弁えろ。覗いておると引かるるぞ」
穴の中から確かにそう声がして、怖いもの見たさで恐る恐るもう一度だけ覗けば、門の番をしていた牛頭の兵が黒い何かを押さえつけてこちらを睨んでいた。俺がなんとか頷けば、牛は満足したように口を歪めて笑い、そうしてぷつりと消えた。マンホールから漏れ出る光も掻き消え、そこには見慣れた夏の夜道があるだけだった。マンホールの横で尻もちをついて座り込んだままの俺はなぜか、この前教授が語った怪談を思い出していた。