婚約者の病弱な従妹に薬を譲り続けたら、私が王宮薬師に選ばれました
短編完結です。献身を搾取された薬師令嬢が、自分の名前で報われるお話です。
婚約者のオスカー様が、初めてわたしに薬をねだったのは、十六歳の春だった。
「リリア、君の作った霊薬を一瓶譲ってほしい」
王都の庭園では白い花が咲き始めていた。
わたしは伯爵家の温室から摘んだ薬草を乾かしている途中で、指先にまだ甘苦い香りが残っていたのを覚えている。
「どなたか、お具合が悪いのですか」
「従妹のセレナだ。生まれつき体が弱くてね。王都の医師にも見放されている」
そう言われて断れるほど、わたしは冷たい人間ではなかった。
クロフォード伯爵家ほど裕福ではない、地方の小さな子爵家に生まれたわたしが、王都で評判の侯爵令息と婚約できたのは、ひとえに調薬の腕を買われてのことだ。
薬草の声が分かる。
そんなふうに噂されるのは大げさだけれど、わたしは幼いころから薬草の効能を見分けるのが得意だった。
霊薬は高価だ。
材料の月露草は満月の夜にしか摘めず、精製には三日三晩かかる。
けれど、病に苦しむ令嬢がいるなら。
「分かりました。一本だけなら」
その一本が、三年続くとは思わなかった。
月に一度、オスカー様はわたしの薬房へやってきた。
婚約者として花を贈るでもなく、茶会に誘うでもなく、ただ言った。
「セレナの薬を」
わたしは毎回、霊薬を渡した。
セレナ様が少しでも楽になるならと、睡眠時間を削って調薬した。
指先が薬草の汁で荒れても、月露草の採取で夜露に濡れて熱を出しても、オスカー様は言った。
「君は丈夫だから大丈夫だろう」
丈夫。
その言葉は便利だった。
わたしが疲れていても、丈夫だから。
わたしが舞踏会で壁際に立っていても、丈夫だから。
わたしが誕生日に一通の手紙ももらえなくても、丈夫だから。
そして三年目の春。
わたしは王宮薬師選抜会へ参加することになった。
王宮薬師は、王国中の薬師が憧れる最高位の職だ。
今年は王弟アルヴィン殿下が新しい医療院を設立するため、若い薬師を広く集めると告知された。
わたしは三年かけて、慢性疲労と魔力枯渇を同時に癒やす霊薬を完成させていた。
名前は、夜明けの雫。
月露草と朝陽花を合わせることで、眠りと回復を同時に導く薬だ。
選抜会の前日、オスカー様が薬房へ来た。
「リリア、明日の発表は辞退してくれないか」
わたしは薬瓶を磨いていた手を止めた。
「なぜですか」
「セレナも選抜会へ出る」
「セレナ様が?」
初耳だった。
病弱で寝台から起き上がれないと聞いていた令嬢が、王宮薬師の選抜会へ。
「あの子は体が弱いが、心は強い。君が同じ会場にいると、緊張で倒れてしまうかもしれない」
「それは、わたしが辞退する理由にはなりません」
初めて、はっきり言った。
オスカー様は驚いた顔をした。
まるで薬瓶が口を利いたかのように。
「リリア。君はいつからそんなに我が強くなった」
「選抜会は実力を見る場です。わたしは自分の薬を発表します」
「セレナを傷つけても?」
その問いに、胸が冷えた。
わたしが誰かを傷つけるのではない。
わたしが前へ出ることを、誰かの傷だと呼ばれている。
「では、セレナ様は何を発表なさるのですか」
オスカー様は答えなかった。
その夜、わたしの調薬帳が消えた。
机の引き出しはこじ開けられていない。
鍵も壊れていない。
ただ、三年間の記録だけが、まるで最初から存在しなかったかのようになくなっていた。
翌朝。
王宮の白い講堂で、セレナ様は淡い桃色のドレスを着て微笑んでいた。
病弱。
そう聞いていた彼女の頬は薔薇色で、髪はつややかに波打ち、瞳は宝石のように輝いていた。
胸元には、見覚えのある小瓶が下げられている。
わたしが毎月渡していた霊薬の瓶だ。
「リリア様」
セレナ様は可憐に首をかしげた。
「今日はお互い、正々堂々がんばりましょうね」
「……ええ」
そのとき、彼女の侍女が持つ発表資料がちらりと見えた。
月露草。
朝陽花。
魔力枯渇の回復率。
わたしの調薬帳と同じ言葉が、そこに並んでいた。
喉の奥が熱くなる。
怒りなのか、悲しみなのか分からない。
けれど泣く暇はなかった。
王宮薬師長が壇上へ上がったからだ。
「最初の発表者、セレナ・ラウスター令嬢」
セレナ様は優雅に立ち上がった。
オスカー様が誇らしげに手を貸す。
わたしはその横顔を見て、ようやく理解した。
彼はわたしを婚約者として見ていなかった。
便利な薬房として見ていたのだ。
「わたくしが開発いたしましたのは、慢性疲労と魔力枯渇を癒やす霊薬、夜明けの雫です」
会場がざわめいた。
珍しい効能だからだ。
セレナ様はわたしの調薬帳を開き、わたしの言葉を読み上げた。
月露草は満月の夜に摘むこと。
朝陽花は夜明け直前に乾かすこと。
両者を合わせる温度は銀匙が曇る程度であること。
そのすべてが、わたしの手で書かれたものだった。
「素晴らしい」
審査員の一人が言った。
オスカー様がこちらを見た。
勝ち誇ったような、そして少しだけ怯えたような顔だった。
次は、わたしの番だった。
壇上へ向かう足が震える。
調薬帳はない。
発表資料も、盗まれた。
でも、薬は手の中にある。
わたしは透明な小瓶を掲げた。
「リリア・ベルフェンです。わたしが発表する薬も、夜明けの雫です」
会場が騒然となった。
セレナ様が顔を青くする。
オスカー様が立ち上がった。
「彼女はセレナの研究を盗んだのです!」
わたしは彼を見なかった。
壇上の中央、銀髪の男性だけを見た。
王弟アルヴィン殿下。
医療院設立の責任者であり、今日の最終審査員。
「殿下、薬師長。わたしには調薬帳がありません。昨夜、盗まれました」
ざわめきが大きくなる。
「証拠もありません。ですが、薬師なら薬で証明できます」
わたしは小瓶の栓を抜いた。
淡い金の香りが広がる。
夜明け前の草原のような、静かで澄んだ香り。
「セレナ様の薬瓶を、こちらに」
セレナ様が瓶を抱きしめた。
「いやです。これはわたくしの」
「薬効を比べるだけです」
アルヴィン殿下が静かに言った。
「提出しなさい」
王族の命令に逆らえる者はいない。
セレナ様は震える手で瓶を差し出した。
薬師長が二つの薬を銀皿に垂らす。
わたしの薬は淡い金色。
セレナ様の瓶から出た液体は、鮮やかな薔薇色だった。
「これは」
薬師長の目が細くなる。
「夜明けの雫ではありません。薔薇蜜と真珠粉を混ぜた美容薬です。肌艶を整える程度の効能しかない」
会場がどよめいた。
オスカー様の顔から血の気が引いた。
「セレナ。君は病弱で、だから」
「だって」
セレナ様は唇を噛んだ。
「だって、リリア様の薬を飲むと肌がきれいになるんですもの。夜会で褒められるんですもの。病弱だと言えば、オスカー様が毎月持ってきてくださるから」
静寂。
それは、誰かが息を止めた音まで聞こえるほどの静けさだった。
「つまり、三年間」
アルヴィン殿下の声は低かった。
「治療のためではなく、美容のために霊薬を受け取っていたと」
セレナ様は答えなかった。
「そして他人の調薬帳を使い、王宮薬師選抜会で自分の成果として発表した」
「わ、わたくしは、少し借りただけで」
「研究成果を盗むことを、王宮では借用と呼ばない」
アルヴィン殿下はオスカー様へ視線を移した。
「あなたは婚約者の研究を守らず、盗用を助けたのか」
「私は、セレナが本当に弱いのだと」
「確認したのか」
オスカー様は黙った。
アルヴィン殿下の瞳は、冬の湖のようだった。
「愛情深いふりをして、楽なほうを信じただけだ」
その言葉は、わたしの胸にも落ちた。
わたしも同じだった。
婚約者だから、いつか分かってくれる。
そう信じるほうが楽だった。
でも、今日で終わりにする。
「オスカー様」
わたしは壇上から彼を見下ろした。
「婚約を解消してください」
「リリア、待ってくれ。私は騙されていただけで」
「わたしも騙されていました。けれど、あなたに」
彼の顔が歪む。
「三年間、あなたはわたしの薬を受け取りました。一度も、わたしの体調を尋ねませんでした。一度も、ありがとうと言いませんでした」
わたしは深く息を吸った。
「もう、あなたのために薬を作ることはありません」
言い終えた瞬間、肩が軽くなった。
こんなに重いものを背負っていたのかと、自分でも驚くほどに。
選抜会の結果は、その日の夕方に出た。
わたしは王宮薬師見習いとして採用された。
セレナ様は不正発表により出入り禁止。
オスカー様の家には、伯爵家から正式な婚約解消の申し入れが届き、彼の父である侯爵は顔を真っ青にして謝罪に来た。
そして一週間後。
わたしは王宮医療院の温室で、月露草の苗を植えていた。
「土に触れているときのほうが、講堂にいたときより楽しそうだ」
振り返ると、アルヴィン殿下が立っていた。
王族らしい豪奢な服ではなく、白い薬師外套をまとっている。
「殿下も温室へいらっしゃるのですか」
「ここは私の医療院だからね。それに、君の夜明けの雫には興味がある」
「薬に、ですか」
「薬師にも」
手元の小さな移植ごてを落としそうになった。
アルヴィン殿下は少し笑った。
「警戒しなくていい。君から何かを奪うつもりはない」
「……それは、とてもありがたいです」
「むしろ、返したい」
「返す?」
「君が三年間、誰かに渡し続けたものだ。薬だけではない。時間、技術、眠るはずだった夜、自分を大切にする権利」
殿下は苗のそばに膝をついた。
「この医療院では、それらを君から取り上げない。君の薬には、君の名前をつける。君の論文には、君の署名を入れる。君が疲れたら休ませる」
そんな当たり前のことが、どうして胸にしみるのだろう。
「殿下は、薬師を甘やかしすぎではありませんか」
「有能な薬師は国の宝だ。宝を雑に扱う者は、王族でも薬棚から締め出す」
思わず笑ってしまった。
その笑いは、薬草の葉先を揺らす風のように軽かった。
「では、わたしも条件があります」
「聞こう」
「薬房に入るときは、必ず手を洗ってください」
「もちろん」
「薬草を摘むときは、根まで抜かないでください」
「努力する」
「それから、薬をもらうときは」
わたしは少し迷ってから言った。
「ありがとう、と言ってください」
アルヴィン殿下は驚いたように目を見開き、それからとても真面目に頷いた。
「約束する。リリア、君の薬をありがとう」
まだ渡していないのに。
そう思ったのに、胸の奥があたたかくなった。
半年後、王宮医療院で正式に採用された夜明けの雫は、魔力枯渇に苦しむ多くの人を救った。
薬瓶には小さく、リリア式霊薬と刻まれている。
オスカー様からは何度か手紙が届いた。
謝罪、弁明、復縁の願い。
わたしは一通だけ返事を書いた。
『お大事になさってください。なお、薬はお出しできません』
セレナ様は美容薬を売ろうとして失敗し、今は実家で帳簿の写し取りをしているらしい。
薬草名を間違えずに書く練習から始めていると聞いた。
ざまぁ、というには静かすぎる結末かもしれない。
けれど、わたしにはそれで十分だった。
誰かを苦しめる薬を作るより、誰かが眠れる夜を作る薬師でいたい。
今日も温室には、月露草が咲いている。
銀色の葉に夜露を抱き、朝陽花が開くのを待っている。
「リリア」
温室の扉から、アルヴィン殿下が顔を出した。
「新しい試作品の効能確認をお願いしたい」
「分かりました。手は洗いましたか」
殿下は両手を掲げた。
「三回洗った」
「合格です」
「では、薬師殿。今日も君の時間を少し分けてもらえるだろうか」
以前なら、時間を奪われると思った。
でも今は違う。
わたしは棚から新しい薬瓶を取り出し、殿下へ微笑んだ。
「はい。けれど、ありがとうは先払いでお願いします」
アルヴィン殿下は、まるで世界で一番大切な薬瓶を受け取るように、両手でそれを包んだ。
「ありがとう、リリア」
たった一言。
それだけで、三年分の苦い薬が、少しずつ甘く溶けていく気がした。
わたしはもう、誰かの都合のいい薬房ではない。
わたしの名前で、わたしの薬を作る。
そして、わたしを大切にする人の隣で、明日のための一瓶を磨くのだ。
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