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婚約者の病弱な従妹に薬を譲り続けたら、私が王宮薬師に選ばれました

作者: 入河 珈一
掲載日:2026/05/24

短編完結です。献身を搾取された薬師令嬢が、自分の名前で報われるお話です。

婚約者のオスカー様が、初めてわたしに薬をねだったのは、十六歳の春だった。


「リリア、君の作った霊薬を一瓶譲ってほしい」


 王都の庭園では白い花が咲き始めていた。

 わたしは伯爵家の温室から摘んだ薬草を乾かしている途中で、指先にまだ甘苦い香りが残っていたのを覚えている。


「どなたか、お具合が悪いのですか」


「従妹のセレナだ。生まれつき体が弱くてね。王都の医師にも見放されている」


 そう言われて断れるほど、わたしは冷たい人間ではなかった。

 クロフォード伯爵家ほど裕福ではない、地方の小さな子爵家に生まれたわたしが、王都で評判の侯爵令息と婚約できたのは、ひとえに調薬の腕を買われてのことだ。


 薬草の声が分かる。

 そんなふうに噂されるのは大げさだけれど、わたしは幼いころから薬草の効能を見分けるのが得意だった。


 霊薬は高価だ。

 材料の月露草は満月の夜にしか摘めず、精製には三日三晩かかる。

 けれど、病に苦しむ令嬢がいるなら。


「分かりました。一本だけなら」


 その一本が、三年続くとは思わなかった。


 月に一度、オスカー様はわたしの薬房へやってきた。

 婚約者として花を贈るでもなく、茶会に誘うでもなく、ただ言った。


「セレナの薬を」


 わたしは毎回、霊薬を渡した。

 セレナ様が少しでも楽になるならと、睡眠時間を削って調薬した。

 指先が薬草の汁で荒れても、月露草の採取で夜露に濡れて熱を出しても、オスカー様は言った。


「君は丈夫だから大丈夫だろう」


 丈夫。

 その言葉は便利だった。

 わたしが疲れていても、丈夫だから。

 わたしが舞踏会で壁際に立っていても、丈夫だから。

 わたしが誕生日に一通の手紙ももらえなくても、丈夫だから。


 そして三年目の春。

 わたしは王宮薬師選抜会へ参加することになった。


 王宮薬師は、王国中の薬師が憧れる最高位の職だ。

 今年は王弟アルヴィン殿下が新しい医療院を設立するため、若い薬師を広く集めると告知された。


 わたしは三年かけて、慢性疲労と魔力枯渇を同時に癒やす霊薬を完成させていた。

 名前は、夜明けの雫。

 月露草と朝陽花を合わせることで、眠りと回復を同時に導く薬だ。


 選抜会の前日、オスカー様が薬房へ来た。


「リリア、明日の発表は辞退してくれないか」


 わたしは薬瓶を磨いていた手を止めた。


「なぜですか」


「セレナも選抜会へ出る」


「セレナ様が?」


 初耳だった。

 病弱で寝台から起き上がれないと聞いていた令嬢が、王宮薬師の選抜会へ。


「あの子は体が弱いが、心は強い。君が同じ会場にいると、緊張で倒れてしまうかもしれない」


「それは、わたしが辞退する理由にはなりません」


 初めて、はっきり言った。


 オスカー様は驚いた顔をした。

 まるで薬瓶が口を利いたかのように。


「リリア。君はいつからそんなに我が強くなった」


「選抜会は実力を見る場です。わたしは自分の薬を発表します」


「セレナを傷つけても?」


 その問いに、胸が冷えた。

 わたしが誰かを傷つけるのではない。

 わたしが前へ出ることを、誰かの傷だと呼ばれている。


「では、セレナ様は何を発表なさるのですか」


 オスカー様は答えなかった。


 その夜、わたしの調薬帳が消えた。


 机の引き出しはこじ開けられていない。

 鍵も壊れていない。

 ただ、三年間の記録だけが、まるで最初から存在しなかったかのようになくなっていた。


 翌朝。

 王宮の白い講堂で、セレナ様は淡い桃色のドレスを着て微笑んでいた。


 病弱。

 そう聞いていた彼女の頬は薔薇色で、髪はつややかに波打ち、瞳は宝石のように輝いていた。

 胸元には、見覚えのある小瓶が下げられている。


 わたしが毎月渡していた霊薬の瓶だ。


「リリア様」


 セレナ様は可憐に首をかしげた。


「今日はお互い、正々堂々がんばりましょうね」


「……ええ」


 そのとき、彼女の侍女が持つ発表資料がちらりと見えた。

 月露草。

 朝陽花。

 魔力枯渇の回復率。


 わたしの調薬帳と同じ言葉が、そこに並んでいた。


 喉の奥が熱くなる。

 怒りなのか、悲しみなのか分からない。


 けれど泣く暇はなかった。

 王宮薬師長が壇上へ上がったからだ。


「最初の発表者、セレナ・ラウスター令嬢」


 セレナ様は優雅に立ち上がった。

 オスカー様が誇らしげに手を貸す。


 わたしはその横顔を見て、ようやく理解した。

 彼はわたしを婚約者として見ていなかった。

 便利な薬房として見ていたのだ。


「わたくしが開発いたしましたのは、慢性疲労と魔力枯渇を癒やす霊薬、夜明けの雫です」


 会場がざわめいた。

 珍しい効能だからだ。


 セレナ様はわたしの調薬帳を開き、わたしの言葉を読み上げた。

 月露草は満月の夜に摘むこと。

 朝陽花は夜明け直前に乾かすこと。

 両者を合わせる温度は銀匙が曇る程度であること。


 そのすべてが、わたしの手で書かれたものだった。


「素晴らしい」


 審査員の一人が言った。


 オスカー様がこちらを見た。

 勝ち誇ったような、そして少しだけ怯えたような顔だった。


 次は、わたしの番だった。


 壇上へ向かう足が震える。

 調薬帳はない。

 発表資料も、盗まれた。

 でも、薬は手の中にある。


 わたしは透明な小瓶を掲げた。


「リリア・ベルフェンです。わたしが発表する薬も、夜明けの雫です」


 会場が騒然となった。


 セレナ様が顔を青くする。

 オスカー様が立ち上がった。


「彼女はセレナの研究を盗んだのです!」


 わたしは彼を見なかった。

 壇上の中央、銀髪の男性だけを見た。

 王弟アルヴィン殿下。

 医療院設立の責任者であり、今日の最終審査員。


「殿下、薬師長。わたしには調薬帳がありません。昨夜、盗まれました」


 ざわめきが大きくなる。


「証拠もありません。ですが、薬師なら薬で証明できます」


 わたしは小瓶の栓を抜いた。


 淡い金の香りが広がる。

 夜明け前の草原のような、静かで澄んだ香り。


「セレナ様の薬瓶を、こちらに」


 セレナ様が瓶を抱きしめた。


「いやです。これはわたくしの」


「薬効を比べるだけです」


 アルヴィン殿下が静かに言った。


「提出しなさい」


 王族の命令に逆らえる者はいない。

 セレナ様は震える手で瓶を差し出した。


 薬師長が二つの薬を銀皿に垂らす。

 わたしの薬は淡い金色。

 セレナ様の瓶から出た液体は、鮮やかな薔薇色だった。


「これは」


 薬師長の目が細くなる。


「夜明けの雫ではありません。薔薇蜜と真珠粉を混ぜた美容薬です。肌艶を整える程度の効能しかない」


 会場がどよめいた。


 オスカー様の顔から血の気が引いた。


「セレナ。君は病弱で、だから」


「だって」


 セレナ様は唇を噛んだ。


「だって、リリア様の薬を飲むと肌がきれいになるんですもの。夜会で褒められるんですもの。病弱だと言えば、オスカー様が毎月持ってきてくださるから」


 静寂。


 それは、誰かが息を止めた音まで聞こえるほどの静けさだった。


「つまり、三年間」


 アルヴィン殿下の声は低かった。


「治療のためではなく、美容のために霊薬を受け取っていたと」


 セレナ様は答えなかった。


「そして他人の調薬帳を使い、王宮薬師選抜会で自分の成果として発表した」


「わ、わたくしは、少し借りただけで」


「研究成果を盗むことを、王宮では借用と呼ばない」


 アルヴィン殿下はオスカー様へ視線を移した。


「あなたは婚約者の研究を守らず、盗用を助けたのか」


「私は、セレナが本当に弱いのだと」


「確認したのか」


 オスカー様は黙った。


 アルヴィン殿下の瞳は、冬の湖のようだった。


「愛情深いふりをして、楽なほうを信じただけだ」


 その言葉は、わたしの胸にも落ちた。

 わたしも同じだった。

 婚約者だから、いつか分かってくれる。

 そう信じるほうが楽だった。


 でも、今日で終わりにする。


「オスカー様」


 わたしは壇上から彼を見下ろした。


「婚約を解消してください」


「リリア、待ってくれ。私は騙されていただけで」


「わたしも騙されていました。けれど、あなたに」


 彼の顔が歪む。


「三年間、あなたはわたしの薬を受け取りました。一度も、わたしの体調を尋ねませんでした。一度も、ありがとうと言いませんでした」


 わたしは深く息を吸った。


「もう、あなたのために薬を作ることはありません」


 言い終えた瞬間、肩が軽くなった。

 こんなに重いものを背負っていたのかと、自分でも驚くほどに。


 選抜会の結果は、その日の夕方に出た。


 わたしは王宮薬師見習いとして採用された。

 セレナ様は不正発表により出入り禁止。

 オスカー様の家には、伯爵家から正式な婚約解消の申し入れが届き、彼の父である侯爵は顔を真っ青にして謝罪に来た。


 そして一週間後。


 わたしは王宮医療院の温室で、月露草の苗を植えていた。


「土に触れているときのほうが、講堂にいたときより楽しそうだ」


 振り返ると、アルヴィン殿下が立っていた。

 王族らしい豪奢な服ではなく、白い薬師外套をまとっている。


「殿下も温室へいらっしゃるのですか」


「ここは私の医療院だからね。それに、君の夜明けの雫には興味がある」


「薬に、ですか」


「薬師にも」


 手元の小さな移植ごてを落としそうになった。


 アルヴィン殿下は少し笑った。


「警戒しなくていい。君から何かを奪うつもりはない」


「……それは、とてもありがたいです」


「むしろ、返したい」


「返す?」


「君が三年間、誰かに渡し続けたものだ。薬だけではない。時間、技術、眠るはずだった夜、自分を大切にする権利」


 殿下は苗のそばに膝をついた。


「この医療院では、それらを君から取り上げない。君の薬には、君の名前をつける。君の論文には、君の署名を入れる。君が疲れたら休ませる」


 そんな当たり前のことが、どうして胸にしみるのだろう。


「殿下は、薬師を甘やかしすぎではありませんか」


「有能な薬師は国の宝だ。宝を雑に扱う者は、王族でも薬棚から締め出す」


 思わず笑ってしまった。


 その笑いは、薬草の葉先を揺らす風のように軽かった。


「では、わたしも条件があります」


「聞こう」


「薬房に入るときは、必ず手を洗ってください」


「もちろん」


「薬草を摘むときは、根まで抜かないでください」


「努力する」


「それから、薬をもらうときは」


 わたしは少し迷ってから言った。


「ありがとう、と言ってください」


 アルヴィン殿下は驚いたように目を見開き、それからとても真面目に頷いた。


「約束する。リリア、君の薬をありがとう」


 まだ渡していないのに。

 そう思ったのに、胸の奥があたたかくなった。


 半年後、王宮医療院で正式に採用された夜明けの雫は、魔力枯渇に苦しむ多くの人を救った。

 薬瓶には小さく、リリア式霊薬と刻まれている。


 オスカー様からは何度か手紙が届いた。

 謝罪、弁明、復縁の願い。

 わたしは一通だけ返事を書いた。


『お大事になさってください。なお、薬はお出しできません』


 セレナ様は美容薬を売ろうとして失敗し、今は実家で帳簿の写し取りをしているらしい。

 薬草名を間違えずに書く練習から始めていると聞いた。


 ざまぁ、というには静かすぎる結末かもしれない。

 けれど、わたしにはそれで十分だった。


 誰かを苦しめる薬を作るより、誰かが眠れる夜を作る薬師でいたい。


 今日も温室には、月露草が咲いている。

 銀色の葉に夜露を抱き、朝陽花が開くのを待っている。


「リリア」


 温室の扉から、アルヴィン殿下が顔を出した。


「新しい試作品の効能確認をお願いしたい」


「分かりました。手は洗いましたか」


 殿下は両手を掲げた。


「三回洗った」


「合格です」


「では、薬師殿。今日も君の時間を少し分けてもらえるだろうか」


 以前なら、時間を奪われると思った。

 でも今は違う。


 わたしは棚から新しい薬瓶を取り出し、殿下へ微笑んだ。


「はい。けれど、ありがとうは先払いでお願いします」


 アルヴィン殿下は、まるで世界で一番大切な薬瓶を受け取るように、両手でそれを包んだ。


「ありがとう、リリア」


 たった一言。

 それだけで、三年分の苦い薬が、少しずつ甘く溶けていく気がした。


 わたしはもう、誰かの都合のいい薬房ではない。

 わたしの名前で、わたしの薬を作る。

 そして、わたしを大切にする人の隣で、明日のための一瓶を磨くのだ。

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つける薬が無いってことですね 面白かったです
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