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狐の夢入り

作者: 三月よる
掲載日:2026/03/08



 鮮やかな紫光が、西の空へと滲んでゆく。

 雲間の夕日が傾き、町の屋根瓦を赤く染めた。


 支給された下駄は、足に合わなかった。

 歩くたびに鼻緒が擦れて、指の間がひりりと痛む。

 それでも、朱音は立ち止まらなかった。


 ──今夜は「アカネ」の水揚げだ。


 遊郭に売られてから、まだ幾日も経っていない。

 けれど衣が替えられ、名前さえも奪われた。

 鼻緒の痛みが、朱音に現実を突きつける。


 自分はもう、伯爵家の娘ではないのだと。



 ◇◇◇



 それは、結婚式の打ち合わせの日だった。

 約束の刻限を過ぎても、婚約者は現れなかった。

 庭を渡る風が妙に冷たく、朱音は邸内を探し歩いていた。


 蔵の扉が、わずかに開いている。

 胸騒ぎがして近づくと、中から人声が漏れてくる。


 押し殺すような荒い息遣い。扉の隙間から見えたのは、絡み合う男女の影だった。

 男はこちらに背を向けていて、顔は分からない。

 しかし羽織は、よく見慣れたものだった。


「……君を愛している! 愛しているんだ!」


 その声に、胸の奥が凍りつく。


「わたしをお選びになって。お義姉さまではなく、わたしをっ……」


 甘く縋る声は、義妹の美代子のものだ。


 呼吸の仕方も忘れ、朱音は立ち尽くした。

 指先の感覚がなくなってゆく。


 彼とは十年来の縁だった。

 恋愛感情ではなくとも、家族のような情はあったはず。

 少なくとも自分はそうだった。

 彼と二人なら、穏やかな家庭を築けると……信じて疑わなかったのに。


 けれど、彼ははっきりと告げた。


「ああ、朱音とは婚約を破棄する。君を妻に迎える……!」


 その言葉で、すべてが終わった。

 婚約は破棄され、ほどなくして自分の遊郭行きが決められた。

 前借金は、新たな婚礼衣装を作るのに充てるのだという。今ある衣装を、美代子が気に入らなかったらしい。


 邸を出る朝、美代子が耳元で囁いた。


「どうかお健やかに、お義姉さま」


 添えられていた指先が離れる、その刹那。

 首筋から喉までを撫ぜられた。

 慈しむような、穏やかな微笑みだった。


 けれど瞳の奥は、氷のように冷たかった。



 ◇◇◇



 今日は、二人の祝言だ。


 赤い提灯が灯る頃、彼らは夫婦となる。

 そして夜が深くなると、朱音は見知らぬ男に抱かれる予定だ。


 昨夜は眠れなかった。

 食欲はさして湧かず、残りの握り飯を胸に抱く。


 行き先は、遊郭の外れにある稲荷神社。

 朽ちかけの鳥居が、夕闇の中に立っていた。


(本当にここで良いのかしら……?)


 半信半疑のまま、石段を昇ってゆく。

 境内に辿り着いた瞬間、朱音は目を大きく見開いた。


 厳然とした社殿だった。

 古色を帯びた鳥居からは、想像もつかない豪奢な造り。

 汗を拭えば、清浄な空気に頬を撫でられる。

 歩を進めるたび、遊郭の喧騒が遠くなっていった。


 朱音は小風呂敷を開げた。

 あいにく一文無しの身だ。せめてもの気持ちで、握り飯を賽銭箱の後ろに供える。

 そして手を合わせた。


(神さま……どうか声が出せるようにしてください)


 願いはそれだけだった。

 しかし何よりも切実で、喉から手が出るほど欲しいもの。


 ──婚約が破棄された日、朱音は声を失った。


 これでは、貴族令嬢として身につけた教養の意味がない。会話を繋いで少しでも床入りの時間を削りたいのに──。


 途方に暮れた、そのとき。賽銭箱の裏から物音が聞こえた。

 覗き込んだ朱音は息を詰める。


 ──狐だ。


 夕焼けを弾く豊かな金毛と琥珀色の双眸。

 その美貌に息を呑むと、狐と目が合った。

 澄明な眼差しは、獣のそれとは思えない。


 狐は瞳を細め、悠然と尾を振った。

 だが次の瞬間、握り飯をひょいと咥える。

 そして優雅に翻り、朱音に背を向けて駆け出した。


(だ、だめ! それはお供物なの……!)


 叫びたかった。しかし喉は顫動するばかり。

 ようやく出せた声は、自分すら聞き取れない細声だった。


 朱音は足の痛みも忘れ、ただひたすら狐を追いかけた。

 狐はわざとらしいほど朱音を待ち、追いつけばすぐ駆ける。


(ああもう……追いかけっこしている暇はないのに!)


 狐は端座して、遅れてくる朱音を待つ。

 気品すら漂う、美しいその姿。

 狐は誘うような流し目を遣うと、ゆっくり裏道を曲がった。


 足を絡れさせながら、朱音もそこを曲がる。

 その瞬間、息を呑んだ。


 狐は──跡形もなく消えていた。


(……どこ……どこに行ったの?)


 肩で息をしながら、来た道を回視する。

 四方は高い塀に囲まれていた。逃げも隠れも出来ない、完璧な行き止まりである。


 だが、消えたのだ。

 忽然と、まるで煙のように──。


「いまの役者みてえな男、見たか?」


「見た見た。ありゃ花魁顔負けだぜ」


 男衆の声が耳に届き、朱音ははっとした。

 ふと視線をやると、店先の提灯がまばらに灯されている。

 夜見世の時間が近づいてくる。


(……やれるだけのことはしたわよね)


 朱音は素早く翻り、遊女屋を目指した。



 ◇◇◇



 入念な入浴が終わると、支度が始まった。

 親の仇かと思うほど白粉を叩かれ、雛人形のように幾重にも着物を纏う。

 焚かれた香が鼻腔を支配し、その強烈な臭いに悪酔いしそうだった。


「若旦那はね、愛くるしい娘が好きなんだ。あちきみたいにね」


 紅をさしながら、花魁がそう言った。

 今夜朱音を水揚げする旦那は、彼女の大尽馴染みである。

 朱音が話せないことを知ると、花魁の峻烈な指導が始まった。


「あの人に恥をかかせてごらん。絶対に許さないよ」


 花魁は咥えていた煙管を使い、素早く朱音を指す。

 朱音は息を詰め、折れんばかりに首肯する。


 刻一刻と夜が深くなってゆく。

 冷や汗をかき、白粉が落ちていないか、何度も確認した。


 遊郭の大門が閉まる、重い鐘音が鳴り響く。


 朱音は水揚げ旦那と大尽馴染み花魁の前で、畳に額をつき、平伏した。

 宴会が始まった。

 三味線の弦が弾ける音や、嫋やかな舞い。


 ──すべてが、遠い。


 隣の男は、全身を舐めるように見てきた。

 そして喉の奥から、いやらしい笑いを溢す。


「朱音の水揚げか。人生何があるか分からないな」


 男──朱音の元婚約者はそう言った。

 赤い唇に微笑みを作り、朱音は逡巡した。


 どうして色町に? 

 美代子との初夜は?


 朱音の喉奥が戦慄いた。

 長い袖の内側で、節が白く浮くほど強く拳を握り、込み上げて来るものを押し殺す。

 手のひらには、くっきりと爪の跡が刻まれていた。


(このひとは最低最悪の下衆男だわ)


 座敷の襖を閉めると、店中の喧騒が断ち切れた。


 朱音は、部屋の中を四望した。

 祝いとばかりに紅白の幕が設えられ、眼を刺すような金屏風が立てられている。

 極め付けは、縁起物の刺繍が施された布団だった。


 入り口の襖に貼り付いたまま、朱音は視線を鋭くした。


 二度と口を利きたくない。

 そう思っていた男と再会した。

 体を売る遊女と、それを買う客として。


「本当に喋らないんだな。怒ってるのか?」


 元婚約者は、くすっと鼻先で嗤った。

 朱音が声を失ったことを、信じていない様子だ。


「美代子はいいぞ? ここに来るのも快く見送ってくれたからな」


 彼は煙管を口にすると、煙を燻らせた。

 眉根を寄せた朱音は、考えを巡らせる。


(美代子が許したですって? あり得ないわ。あの子は執念深いもの)


 そう、義理の姉から婚約者を奪い取る程度には。

 遊女と夫を共有するなど、到底受け入れられないはずである。

 大方、嘘をついて外出したのだろう。

 遊女を抱くために、ここへ。


(わたしが傷ついた意味なんて、あったのかしら……?)


 朱音は下唇を噛んだ。

 無力感で力が抜け、体がずっしり重くなる。

 そうして動かなくなると、目の前に彼が腰を下ろした。


 頬に手を触れてくる。彼の指に白粉が移ったが、気に留める様子はない。

 慣れているのだろう。

 花魁の大尽馴染みということは、それだけここに通い詰めているという証拠だから。


「なあ、そう固くなるなよ。初夜だと思えばいいじゃないか。元はそうなる予定だったんだしさ」


(そうなる予定だった!? あなたのせいで、わたしの未来はたち消えたのに!)


 焼け焦がすような熱が、全身を支配する。

 朱音は上目遣いに彼を睨め付けた。


 忌々しそうに顔を歪めた彼が、舌を鳴らす。

 次の瞬間、朱音の腕を掴むと乱暴に組み敷いた。

 まるで獲物を前にした獣のような、舌舐めずりの表情を浮かべている。


「安心しろ。これでも、色町じゃ粋な男で通っているんだ」


 幾重もの帯に、指がかけられた。

 朱音は彼の胸を押し戻し、腹の底まで息を吸い込んだ。

 声は出ない。

 ただ喉が焼けるほど痛み、代わりに咳だけが溢れ出た。


 ──イヤ、この人だけはっ……!


 粘着質な眼差しを向けられ、朱音は顔を背けた。眦から一粒、涙が落ちる。

 そのとき、襖の向こうで喧騒が近づいてきた。


「おいコラ、待ちやがれ!!」


 用心棒の怒声が廊下に響き渡る。

 あまりの騒々しさに、元婚約者は堪らず起き上がった。


「チッ! うるさ──」


 瞬間、襖が滑るように開け払われた。

 廊下から差し込む眩い光に当てられ、朱音は目を薄めた。


 ──男だ。


 逆光の中に一人、男がいる。

 宵を縫い合わせたような藍色の着物が、白皙を際立たせていた。たおやかな金の長髪は、揺れて光の階調を作っている。

 月明かりが面を照らした。


 琥珀色の双眸が朱音をとらえる。

 すると途端に弧を描き、


「──やっと見つけた。花嫁どの」


 凛然とした声音で、そう言った。

 そのまま男は流れるような動作で元婚約者の襟首を摘み上げ、部屋の外へと投げ捨てた。


(な、なに……っ!? これは何事!?)


 朱音は素早く身を起こし、周りを窺った。

 廊下の壁に激突した元婚約者が、脂汗を浮かべている。やり手婆と用心棒は、そこで仲良く腰を抜かしていた。


 傍らの男はそっと褥の上で膝をついた。

 朱音と視線の高さを合わせると、一瞬、唇を震わせた。

 ずっと待ち望んでいたような、噛み締めるような、切実な表情だ。

 しかしそれを取り繕うように、彼は華やかな笑顔を浮かべた。


「遅くなってすまないね。怪我はない?」


 恐ろしく均整の取れた目鼻立ち。そんな見知らぬ美丈夫が、親し気に微笑みかけてくる。

 出し抜けの出来事に、朱音は狼狽を隠せなかった。


(どなたかしら……このご様子だと、お会いしたことはある……のよね?)


 しかし思い当たる節がない。

 男は何か思いついた様子で「そうか」と膝を打った。

 そして両頬を包み額を合わせてきた──その瞬間。


『とても美味だったよ、あの握り飯』


 男が優しく語りかけてきた。

 口を閉ざしたまま──頭の中で。


 朱音は弾けるように額を外した。

 まるで妖術そのものだ。

 得体の知れない技に息を呑むと、


「わたしは香月。君の熱烈な求愛、しかと受け取った。共にかくり世へ行こう」


 男──香月はそう言って、花開くように微笑んだ。

 朱音は、香月からするりと手を抜き取った。


 見知らぬ男に、覚えのない求愛。

 ……けれど、色だけは。艶やかな髪と吸い込まれるような瞳の色だけは、朱音の記憶に深く刻まれていた。


「随分と不思議そうな顔をしているね? 贈り物も追いかけっこも、狐の求愛行動だ。まさか、知らないわけじゃないだろう?」


 香月は、ちらりと廊下の様子を流し見た。

 その涼やかな目元を見た瞬間、夕暮れを駆けた狐が、朱音の脳裏をよぎった。


(まさか……)


 香月は追い打ちをかけるように、懐からある物を取り出した。

 折り畳んだ、一枚の小風呂敷。

 お供えの握り飯を包んでいたものに、よく似ている。


 朱音は小風呂敷を受け取り、確かめた。

 隅にあるひどく不恰好な【AKANE】の文字は、間違いなく自分が刺繍したものだった。


 朱音が言葉を失うと、香月は愉快そうに肩を揺らす。そして白魚の手を伸ばし、喉元に触れてきた。


「声を失ったままここで朽ちていくか、僕と行くか。朱音……君はどちらを選ぶ?」


 香月の陽だまりの笑みに、妖艶な影が差す。

 瞳の奥には、獣の本能が獲物を逃すまいと、静かな熱を燃やしていた。



 ◇◇◇



 それは、風が運んできた噂である。


 帝都のさる伯爵家が没落したらしい。


 結婚の翌朝、伯爵家の入婿が、莫大な花代を落として遊女を身請けした。

 その金は、伯爵家の全財産だった。

 入婿は失声を患ったせいで、貿易業が立ち行かなくなったらしい。


 妻の伯爵令嬢は身売りされた。

 だがその容姿は老婆のようで、遊郭の醜女として見世物になっているそうだ。


 身請けされたはずの遊女を見た者は、誰もいない。


 帝都の人々は言った。

 狐に化かされたのであろう、と。



◇◇◇



「……ここは……?」


 白い霧のなか、朱音は独りごちた。

 場所は判然としないが、川のせせらぎだけがはっきりと聞こえてくる。


 音の方向へ向かうと、そこには白い花々が爛漫と咲き誇っていた。


 ──知らないはずの、懐かしい景色。


 矛盾が、頭の中に霞みをたゆらせる。

 そのとき、靄の中で誰かが囁いた。


「逃げ──狐の信仰は一生──……」


 朱音はその場に立ち尽くす。

 断片的な記憶が、頭の奥から滲み出る。


 そのとき、視界の端に金色の光が揺れた。


 ──狐だ。


 彼は矢のように走って来た。ひときわ大きな木の実を差し出され、朱音は破顔した。

 柔らかな毛並みに顔を埋めると、それまでの靄が一瞬で掻き消される。


 狐は琥珀色の双眸を細め、ざらつく舌で頬を舐めてきた。


 ◇


 ふと目を覚ますと、頭上に眩いばかりの美貌があった。

 陽光を編み上げたような金髪が、朱音の顔にさらりと落ちる。


「おはよう、朱音」


 香月は穏やかに微笑んだ。

 膝の上に朱音の頭を乗せたまま、その額に散らばった前髪を、指先で整えてくれる。


 朱音は屋敷の縁側にいた。

 あたたかな空気に包まれ、いつの間にかうたた寝したらしい。


「いい夢でも見た?」


 香月は首を傾げ、やさしく問うた。

 この夢を見たとき、いつも、彼はちょうどよく確認してくるのだ。不思議な夫である。


「いつもの変な夢よ。狐が贈り物をしてくれるの」


 朱音がそう答えると、香月はくすりと笑った。


「そっか。それは良かったね」



(了)



最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。


最後までお楽しみいただけたなら幸いです。

ぜひご感想をください♪


また別の作品でお会いできますように!




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― 新着の感想 ―
元婚約者と娘を売り飛ばす家族がクズ過ぎて、逆に今までこういう境遇の娘を花嫁にして救い悪人を罰してきたのかなって妄想しました。
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