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〈未修正版①〉第2章

前回の続きです。小6の時に書いた文章をそのまま載せています(供養)

相変わらず、稚拙です。

 廊下には北側の窓からわずかな夕陽が流れ込んでいる。放課後の学校は静かだ。1階はまだ学童保育があるから人気があるものの、2階、3階あたりになるとたまに教師がいるくらいで生徒には合わない。


 校庭から甲高い声が聞こえてくる。まだ遊んでいる生徒が何人かいるのかもしれない。


 音楽室は2階の一番奥に位置している。隣は理科室で、その向こうは図工室。向かい側には更衣室がある。なぜ音楽室の目の前に更衣室があるのかは不明だ。その真下に武道館があるからかもしれない。運動会の時は教室のそばにある更衣室が満員でここを使用した。


 白い扉を開けると廊下のささやかさとは打って変わって眩しい夕陽が差し込んできた。溢れ出るくらいに暖かい。それは全部月子のものだ。


 黒板は6時間目の授業のままで、和音の説明が書かれていた。月子は二組だ。もうすでに習っていたから、1組か3組が6時間目の音楽だったのかもしれない。白い文字が海苔みたいな色の板にかつかつと記されている。音楽教師は非常勤講師で、授業がある日のみ、学校にやって来る。明朝体のように整いすぎた気味の悪い字で、しかも誤字脱字が多い。


 黒板消しで文字を撫で消していく。文字がかろうじて存在が認識できるくらいの粉に変わっていく様子が面白かった。


 文字に残すことは罪的なものだと思う。見える形で的確かつ明確に記されなければ、巡り巡っていくことができただろうに、紙に貼り付けられることで半永久的にその形をとどめてしまう。実際には文字にできる、文字にするべきものなんてかなり限られているだろうに、文字であることが最高の形なわけではないものまで無理に歪ませてしまうから恐ろしいものだ。


 チョークの粉が夕日の中で粉くさく舞った。月子の長い黒い髪にも粉が密かに白く被る。動くたびに、月子のワンピースの流れに沿って粉が動いていった。


 黒いピアノの前に座る瞬間が一番安らぐ。


 放課後は毎日ピアノを弾いている。月子はピアノ含め習い事をしたことがない。もっと言えば楽譜に沿って演奏したこともない。楽譜を読むことはあるけれども、あくまでもそれは然るべき音を引き出すための些細な道具であり、演奏を全て支配するほどの力は持ち得ないのである。


 音楽の知識は何もない。かろうじてドレミはわかるが、それ以外は何もわからないと言っても過言ではない。学校の音楽の授業は嫌いだ。本来は震えるほど面白いものを、どう工夫をするのかわからないけれど顔を背けざるを得ないほどつまらないものに変えてしまう。音楽を奪われたくない月子からすれば、音楽の授業は苦痛にも程がある。


 指を鍵盤に置いた瞬間に全てが始まる。黒板も、掲示物も、時計も、床も、全てが破壊したように渦巻き始める。何もかもくだらなく見えて来るほどに摩訶不思議に動き続けていく。必然的なことなのかもしれない。月子は驚かない。


 本当の音楽は皆その力というか始めるボタンを押す能力を持っていたはずである。しかし楽譜にした瞬間にそれは大量発生するものとして終わりをつげた。それが2枚になり3枚になり、世界に複数ある音楽に変わった瞬間に崩壊は終わりを迎える。


 著名な音楽家のほとんどもそれに当てはまるような気がする。月子は音楽を聴くのが好きだが、それはかなり好き嫌いが別れる。ずうっと同じ人の同じ曲を聴き続けている。楽譜に書き留められてもなお動き続ける音楽たち。


 突発的に奏でられる音楽でありながらもそれは曖昧な鍵盤の連続ではない。気分で動く指はそれでも然るべき適当な場所に落とされ、規則的でなくしかし美しい音色に混ざり込んでいく。


月子は何があろうとも自分の音楽に飲み込まれることはない。他の全てを巻き込む場合でも、月子だけは生き残る。それは特権でもあるし、ある意味残酷な話でもある。


時計が4時半に差し掛かると校内放送が流れる。月子はさっと指を離し、蓋を閉め、黒いランドセルを掴んで教室を出る。宙にはまだチョークの粉が舞い続けていた。月子が白い扉を静かに閉めると、チョークの残骸は一瞬にして床に落ちていった。命尽きたのかもしれない。


 12月に入り、ほとんどの生徒は長袖で登校してきていた。雪はまだ降っていなかったが、スーパーマーケットや商店街はクリスマスの装飾を用意し、街はクリスマス一色になろうとしていた。まだクリスマス当日までは三週間ほどあったが、既にカウントダウンには入っている。


 学校から自宅までは徒歩10分ほどだ。家がある場所は大抵の生徒が住む住宅地からは少し外れている。冬は日が落ちるのが早く、それだけ一日一日が駆け足で過ぎ去っていくように思える。


前に好きで眺めていた百人一首の本には、秋の歌が非常に多かった記憶があった。冬の句はそこまで多くもなかった記憶がある。秋の句はいくつか思いつくが、冬の句はあまり思いつかない。


 しばらく歩くと薬局の看板が見えてきた。月子は最近、あまり薬を買わなくなったような気がする。風邪をひかないわけではないのだけれども、どうしても薬を飲む気にならないのだ。病院でもらってしまった物もいまだにそのまま放置してある。飲まなかった薬ほど要らなくて嫌味な存在はないような気がする。


 薬局の隣は児童公園である。児童公園といっても立派なものではなく、ベンチとブランコと砂場が肩身狭そうに並んでいる空間だ。バイキングの時に配られる、6つくらいおかずがのせられる皿の、その窪み一つ分も使わないような梅干しみたいなものを狭苦しく並べたような有様である。


 公園の中に入ったことはない。用事がないのだ。なんとなくぼうっとする空間にしてはあまりに平凡すぎるし、一人で遊ぼうとは思わない。毎日通り過ぎているのに一度も入ったことがないなんて、毎回皮肉を言われているような気分になるけれども、それはそれで仕方がない。


 街路樹の隙間から見えた公園の入り口の向こうにあるのは、灰色のピアノだった。それは音楽室にあるような黒いきらめきや光沢はなく、いく筋かの切り傷が脚から蓋の表面に至るまできれ細かくついていた。まるでそのピアノの上でミネストローネに使う野菜を全てみじん切りにしたかのような有様だった。


 砂場のすぐ前にぽつりと置かれていたピアノには強烈な違和感というものが存在しなかった。これまで何年間も見てきた公園の中にピアノはなかった。しかしそれでいて、在ってはいけない、在るはずがないという気持ちにはならなかったのである。物理的な輝きが全くもって存在しない表面には、切り傷から密かに溢れだすような興奮と悪びれた雰囲気があった。


 ありがたいことにピアノの正面にはこれまた灰色の傷だらけの椅子が置いてあった。いつの間にか月子はその正面に立っている。そしてそこまで来ればもうそれこそ何もかも忘れたみたいに椅子を引く。

 月子がそのひやりとした白い鍵盤に触れた瞬間に、肩に誰かが手を置いた。


「ピアノが好きなの?」


女の子は言った。灰色のセーターに紺色のジーンズ。肩の上くらいの長さの髪の毛は驚くほどに真っ黒で、灰色のセーターの上にかかっている部分は異常なほどに目立っていた。長いまつ毛の奥で黒い瞳孔が月子を見ていた。月子の芯を見抜いて引き出してしまうとしているような気がしてくる視線だ。


 いや別に、と月子は言った。


 ピアノ自体が好きなわけではない。何かを奏でるときに一番しっくりくるものがたまたまピアノであっただけで、それのメロディーがギターに合うのであればギターが良いし、バイオリンが合えばバイオリンが良いのである。しかし今のところピアノに合うメロディーばかり生み出すものだから、自然とピアノを使うのだ。


「何ちゃん?」


 名前を聞いたようだった。狭い公園は一瞬にして女の子と月子二人の禍々しい場所へと化していた。木々はそこにはえる苔のことまでも信じられなくなったし、空の色も壁紙に見えた。


 月子が答えないままでいると、女の子はにやっと笑う。「無理に言わなくて良いよ。月子ちゃんだろ」


 あたしは宇多子ちゃんっていうんだよと女の子は笑った。宇多子の笑う顔は失敗した福笑いのようで、あまり見ていて幸せなものではない。口元のほくろが滑らかに歪んで、確かに柔らかなえくぼが生まれるが、目はそんな時でも依然として細く真っ直ぐであった。


 その顔を特に何も考えずに見ていると、何かをえぐり出されているような気がしてくる。確かに正しい行いを素直にできることは才能ではあるのかもしれないが、宇多子の場合それはある一方で世界を見捨てているような行為でもあった。取り除くべき悪は取り除かれないべきで有ると思い込んでいる自分が怖い、月子は歪んだほくろを眺め続けていた。


 二人は少し黙ってピアノを眺めていた。月子は椅子に腰掛け、宇多子はその後ろに立つ。傷ついたピアノは二人に眺められて動揺しているようには見えなかったが、喜んでいるようにも見えなかった。お遊戯会で脇役を演じる子が出てきてお母さんと目があったみたいに。 


 もうすでに日が暮れかけている。周囲は見えるが、風景に灰色の絵の具を解いた水をぶちまけたようにくすんでいる。太陽は住宅地の屋根の果てに顔をわずかに出している。宇多子の顔の綺麗な凹凸がくっきりと綺麗に影がついていた。長いまつ毛が作り出す濃い影は、雑木林から外れたいくつかの木の影にも見える。


「弾いていいよ。邪魔してごめんな。」


 宇多子は我に帰ったように月子の顔をみた。再度指を鍵盤につける。ひやりとする冷たさと共にあまりにぬるりとした表面に違和感を感じたが、それが奏でる音自体には何も問題はなかった。それどころか、一音一音が短編集のように積み重なって編み込まれてゆく。公園の木々はみる間にうねり狂い、果てに小さな渦を作り出した。宇多子はその音たちにまみれながらほくろを歪ませている。砂場もブランコもベンチも、滑らかに引き伸ばしたかのようなえんてんたる様子を見せていた。


「月子ちゃんさ、もっとピアノ弾きたい」


 指を動かしながら月子は宇多子の顔を見た。うねって脈打つ公園の中で、一人平然と立っている。風で髪の毛はあちこちにないているが、顔色ひとつ変えないまま月子の顔を凝凝視していた。


「うん」初めからイントネーションがおかしいのだ。インタロゲーションになっていない。でもなんとなく宇多子が自分に語りかけていることがわかる。彼女の声は暖かさがなく、人を慈しむような響きがない。だからこそ風と張り合って強く深く響くのかもしれない。


 月子の音楽は止まる気配を見せなかった。彼女は自分の内部を削り出すように音楽を編んでいった。自身が細い糸の塊で有るかのような物体だったが、それに磨きをかけたのは紡ぎ出しの速さである。言葉が載せられていなくとも不思議と飽きることのない音楽は、全身の音で有るからこその響きと貫禄がある。


 何も話さず、どのような音も発さずに、宇多子は同じ位置に佇んでいた。背後から覗く月子の指の動きはとても信じられない迷いのなさと滑らかさで動いていた。彼女の頭の中には楽譜はない。ただ、一瞬一瞬の判断で奏でられる音が最終的に一つの音楽として成り立ち始める。


 やがてあたりには木屑が舞い始めた。ピアノ本体が削られ始めたのだ。最初からあからさまに傷ついていたピアノは、月子の音楽によってさらに傷つけられ始めた。宇多子は何をするでもなくその様子を見守ってゆく。浅く表面を剃っただけのような傷が、次第に深く深く削られていった。そしてその奥から、赤黒く色の濃い血のようなものが吹き出してきた。


 ぎっしりと赤く、染み付いて取れないような血は、傷口から次から次へと溢れ出てくる。一度で始めればなかなか止まる気配が見えない。宇多子はピアノの周囲を歩き回った。あまり大きくはないピアノの周りも、血が吹き出すように溢れてゆくに連れて大きな塊のようになってきていた。


 鋭く白い宇多子の手が灰色のピアノの表面を撫でた。両手で血を揉み込むように手を動かしてゆく。ピアノの脚は綺麗な赤に染まり、宇多子の手とセーターにはいくつかの飛沫が飛んだ。


 音楽は途切れることなく鳴り響き、それに続くようにして血が流れ出ていく。血が公園を侵食していく。月子が鍵盤を叩くたびに、返り血のような勢いで月子の体に血がついていく。頬には血のついた手で平手打ちをくらったような跡がついた。


 ピアノはどんどんすり減っていった。灰色の塗装は全て血に飲み込まれたと言っても過言ではない。少しくすんだ赤が鍵盤まで伸び、鍵盤を叩くたびに血が飛び散る。砂場やブランコはもうすでにその形を失い、血に飲み込まれた。なぜかはわからないが片っ端から錆びついていく。宇多子は血に塗れてその様子を眺めていた。


 穏やかでありながらもところどころひび割れているメロディーは、破壊的な旋律へと徐々に生まれ変わっていった。


移り変わりの際に衝撃的なのは、その音のグラデーションがありながらも突如として変化するように思えることである。いきなりすっぱりと変わるのはあまりに衝撃的で雑だが、濃密なグラデーションを狂わすことなく確実に通過していくのも面白くない。


困難そうに思えるその切り替えを、月子はいとも簡単にすることができた。もっとも、それは彼女がいく日もの思考の末に編み出したこと、身につけた能力なわけではなく、月子からすればそれ以外の方法が思いつかないのであった。


 右から43番目のキーを叩いた瞬間、灰色のピアノは爆発を起こしたように全体から血を吹いた。月子の視界は一瞬にして赤黒くなり、無味無臭の痛さが築き上げてきた。その血には、血液独特の生臭さや暖かさがなかった。それ自体はリアリティに欠ける要素となるはずなのに、なぜかわからないけれどもそれがこの公園に存在していることの証明のように感じられた。


 顔も体も真っ赤に染まった月子は、自分の皮を剥ぐように体を撫でて回った。体表にこびりついていた血は再度液体となり、月子の足元に血溜まりを作る。宇多子の体は赤く染まってはいなかったが、代わりに綺麗な灰色だったセーターが黒みを帯びた紅色になっていた。


 宇多子は公園がすでに町の公園ではなくなっていることに気がついていた。それは彼女が意図していた出口とは必ずしも一致していなかったのかもしれない。しかし町の公園ではないものに変化した時点でそれは成功であった。


 いつの間にか風はやみ、周りも暗くはなくなっていた。ぼんやりとした光が霧の中に包まれているような光り方をしている。宇多子は月子の手を引いて公園の出口に向かった。並んで歩いてみると宇多子は月子よりも背が高い。月子の目線は宇多子の方のあたりだ。そのほんの十数センチの差で見えている世界が180度違っているような気がした。そして月子は、その自分とは真反対の世界を見てみたいとは思わなかった。


 公園を出た先は小学校だ。廊下の風景。月子と宇多子は廊下の端にたちすくんでいた。廊下側の窓は全て締め切ってあり、南側に並ぶ教室の扉も全て閉じてある。


「ここうちの小学校ではない」


 目の前にあるのは音楽室だったが、その正面には何もなく、その隣の教室も理科室ではなく図工室と案内があった。なぜ初めに自分が通っている小学校と比較したのかはわからない。知らない場所であるということを声に出して言いたかったのかもしれない。


 宇多子は廊下の窓を次々に開け始めた。金具がサッシにぶつかる音がわずかにする。開け放した窓からは霧のようなものが入ってくる。あっというまに廊下は霧だらけの山中のようになった。


 紅色のセーターは霧の中でも目立った。二人とも外履きを履いたままである。学校の中に上履き以外で入ったのは初めての経験かもしれない。


 小学校の中には人気というものを感じなかった。人が一時的にそこにいないことが影響しているのではなく、そこに人間の過ごした雰囲気が残っていないことが原因かもしれない。あるはずの音が綺麗に消え失せていて、小学校という建物の肩書きだけがその校舎全体をわずかに守っていた。

 宇多子は髪を耳にかけた。そして月子の方を向いた。「死んだ小学校だ。今からは月子ちゃんの場所だよ」


 音楽室の扉を開けるとそこには、掲示物も資料も何もない空間が広がっていた。きっちり4個×5列の机と椅子、そしてその前には大きな黒板。怖いくらいに使用された痕跡がない黒板は、何を書いても許されてしまいそうで恐ろしかった。


 黒板の脇にはピアノがあった。黒いカバーがかかっている。椅子は校庭側の机のすぐ隣にあり、霧の中の太陽がそこは空席であることを強調せざるを得ないような雰囲気を出しながら照らしていた。


「ここは一度死んだんだ」宇多子は黒板に寄りかかりながら言った。趣深い口調ではなく、今日の朝ごはんは米だったんだというようなノリで話している。ただその淡白さも、死んだ小学校の中ではなんの効力も持たないような気がした。全てが重々しくありながらも軽く聞こえる残酷なものに変えられていた。


「あたしはかえるからね」


 ピアノに近付いて行った月子を宇多子は睨むようにしていった。南側の窓を背景とした月子の姿はほのかな逆光で見ることができない。表情を読み取ることが難しい。静かだからこそ、音響のための穴が空いた壁や茶色い木の床の妙な綺麗さが目に痛かった。


「好きなだけピアノを弾けばいい。ここは死んだ小学校だ。誰も文句は言わない。月子ちゃんが好きなように弾いていいんだよ。

 失われた音を導き出しても良いし、それかさらに没落させることだって可能だ。月子ちゃんの音楽でできることであれば、何をやっても良い。あたしは月子ちゃんを助けないから」


 黒い髪の毛が廊下からの風で綺麗に舞っている。滑らかな光沢は霧の中で目立つ。冷淡でありながら嘘を告げない声は月子の頭の中に何よりも正直に響くことができた。


「もう2度と戻ってこないんだ」

 月子は質問とも独り言ともつかない声で言った。その2度と戻ってこないもの、という言葉がさす主語とその場所は不確かである。それは月子自身のことか、あるいは宇多子のことか、はたまた小学校のことかもしれない。


 過去に失われたもの、失われたことさえ不確かなことは累々と存在する。それらすべてを認知することは不可能であるが、不可能であるゆえの幸せの中に浸ることが可能になっているのかもしれない。


 宇多子は首をわずかに上下させて頷いた。月子の背後の音楽室の窓を全開にする。流れ込んできた霧は妙な匂いがした。爽やかな炭を飲み込んだような香りだ。セーターの袖を捲り上げて窓枠から外に出る。


 窓の外には大きくて脆そうな歩道橋があった。それがどこかへ続いている。それが果たしてどこに続いているのかはわからない。霧のせいで見通せなかった部分が多かったが、それらは仮に霧が晴れていたとしても見通すことは不可能だったかもしれない。目に映るものでもそれを自分の中で処理できなければ見えていないも同然である。


「好きなように」


 霧が濃くなる。宇多子は振り返らずに霧の中に消えていった。血で染まった宇多子のセーターはかなり目立って、視界から彼女自身が消えてもなお、月子の頭の中に残っていた。それは目のまえに見えるようだった。見えないはずのものが育ちすぎた理解力によって創り出され、一人歩きを始めることもあるらしい。


 月子はピアノの布カバーを剥がした。鍵盤の上の蓋を開ける。白く冷たい、遺骨のような鍵盤を次々と触れるうち、彼女のリズムは始まった。ただ、まだ死んだ小学校の方が、ずっとリズムを持っているように思えた。


 自分の音楽が揉み消されないように、月子はただひたすらに弾いていた。それで自分が狂おうとも、音楽が消えなければそれで良い。全ては死んだ小学校のリズムを狂わせるため、自らの人間味をこそげ落とすようにしてピアノを弾き続ける。


 宇多子が開け放した窓からは濃い霧がどろどろと入ってきていた。その窓も勝手にしまった。月子の音楽は霧を切り刻むように響きうねり降りかかった。それを見る人は誰もいなかった。不特定の世界の中で唯一月子という存在だけが光っている。

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