〈未修正版①〉第1章
2年前、小学校6年生の時に書いたものです。
とてもまとまりがなく、伏線が敷けてもいないし回収できてもいないし、とても読みにくいものだとは思うのですが、書き上げたのだという満足感だけは得ることができたのでここに供養します。
個人的に、14歳になったいまならもう少しマシなまとめ方ができるのではないかと(生意気ながら)思っているので、近いうちに書き直しver.を上げます。
学校は昨日から冬休みに入ったらしい。根本さんが教えてくれた。
街には色々な店舗の前にクリスマスツリーやリースが並び、緑と赤で取り囲まれている。今年はまだ雪が一度も降っていない。去年は12月の初めに少し降ったような気がする。
そんな些細なことが確かに記憶に残っているのは、妹が倫太郎のそばにたまたまいて、その頃熱を出したからだ。記憶は風景と共にあり、香りや音も同時に包まれる。今でもあの時の薬の匂いを覚えている。妹は薬を嫌う。もっと幼いことはおとなしくのんでいたのに、小学校高学年になって毛嫌いするようになった。母曰く。
赤と緑ってなんの色なんだろうね、と、根本さんと話したことがある。倫太郎はハガキにあらかじめ印刷されているタイプの切手の色だと思った。根本さんは、なんと言ったのだろう。何故か記憶にない。そこだけ記憶を引き抜かれたみたいだ。たとえふざけた答えだったとしても、根本さんだったら本当の由来なんていうものは当たり前に知っているのかもしれない。
駅前には大きな、と言っても倫太郎の二倍くらいの高さだが、それくらいのクリスマスツリーがある。クリスマスの四週間前から飾られている。イブである今日は、ここのところで一番輝きを増しているように見えた。
クリスマスツリーには、発泡スチロールのプレゼントの飾り、オーナメントボール、プラスチックのクリスマスベルが飾られている。
一番目立つのは、イルミネーションとトップスターだろう。安っぽいキラキラした粉を撒き散らしながら、張りぼてのような誇りで輝いている。そう思うのは感情の貧しい中での嫉妬だろうか。どんなに中身がなくとも張り合って輝こうとできるのは尊敬に値する気がする。
駅の中央にある時計は21時半を示していた。家までは5分ほど歩く。駅の周りのコンビニチェーンやコーヒー屋はまだ開いているが、倫太郎くらいの年齢の子供が一人で歩いているのは見当たらなかった。
去年の今日はおそらく妹と一緒にこの広場にいて、同じような位置から同じクリスマスツリーとトップスターを眺めていた。今年は妹がいない。その分、空間が空いて、冷たい風が吹き込んでくる。
倫太郎には確かに妹がいる。しかしその面影はあってないようなものだ。確かに生きているのかもしれないし死んでいるのかもしれない。いることは確かだけれども、その「いる」がさす世界が倫太郎の生きる場所であるとは限らない。もはや彼女には世界という境界線も存在しないのかもしれない。「あなたには妹がいる」と母に言われ続けてきた。でも僕は実際に彼女と話したことはない。日常のふとした瞬間に、妹の何か、面影のような、存在のようなものを感じることがあるだけだ。
塾の鞄を開けた。中にはいくつかの教材と、水筒、筆箱が入っている。それ以外のものは特にない。財布と携帯電話はポケットの中だ。
目の前にある赤いオーナメントボールを一つ、手に取った。クリスマスツリーには紐で引っかかっていた。
両手で包み込むと手の中で炎が燃えているようで面白い。表面を撫でるたびに、手にキラキラとした粉がつく。安っぽい輝きを放つ小さなものの命を奪っていくような感触がした。この輝く粉を剥ぎ取ったのちに残るのは隠しようのない赤い虚無感だと思うと、好奇心と後に襲って来るであろう罪悪感がちょうど釣り合った。
誰もみてはいなかった。駅前のクリスマスツリーと倫太郎は二人きりで、それ以外の人たちの目には映っていない。
一人の人間として動きをとめない生き物である世界は、一時的に存在しなくなったのである。人々の目には倫太郎は不特定の少年にしか映らない。名前を持たない少年であるところか、それは空白を埋めるための背景の一部の可能性だってある。
そう思うと、自分が静に思っていることが宙に舞う雑多なものに紛れてもおかしくない気がしてきた。
オーナメントボールにふっと息を吹きかけると、粉がきらめきながら舞った。そのまま吸い込んだら、自分が少しでもましな人間になるような気がしないでもなかった。少なくとも、そう信じ込みたいと思った。オーナメントボールに救われる人生。助けられる人間。倫太郎は鞄の中に赤いオーナメントボールをしまった。星の匂いがした。
「帰ろう」
黒い髪の女の人が倫太郎の後ろに立っていた。いつからだろうか。でも倫太郎が小さな赤いオーナメントボールを取る時にはいなかった。「帰ろう」というのは彼女が言ったらしい。黒いワンピースをきていた。髪と服と体が一体化しているようにも見えてしまう。影と髪の毛が繋がって、一つの黒い光のようにも思えた。
「早く。燃え尽きてしまう」
世界が狂い始めた瞬間を認識することはできない。気がつけばもう終わりを迎える準備をしている。それは多分、自分が過ちを認識し始めるころには、その過ちを周囲の人が過大に感じ動き始めているのと同じだろう。
細くて頑丈な針金が手首にまとわりついたように、倫太郎の手が引っ張られた。温度が感じられない。その針金のような手は、体温がないように思うのにとても熱い。
女の人が空気を破るように走っていく。周りのものたちが歪んで見える。歪んでいるのは自分の方なのに、他が歪んでいるように見えてしまう。周りを悪にするのは良くないことだ。いつだって自分が落ちていくしかない。
耳元で風がかすめる。何にも触れないように、ただ誰も通ろうとしない道だけを狙う。女の人に引っ張られるまま、8番線の電車に引き込まれた。
窓の外で緑の草原が燃えていく。誰かがいたずらで火をつけたように、青色の透明な炎が移っていく。強い風で左右に強烈に揺れていた若い葉は、炎でならされることによって全体で同じリズムを刻み始めた。それが少しずつずれていって、一緒にいる時間が長ければがないほど増えていく歪みの存在も否めなかった。
残酷な描写の小説を読んでいる気分だ。目の前にあるのは確かに風景である。しかしそれは一度高度な言語化を経て可視化された物体であるように感じられてしまった。その物体の精密さは全て濃密な熟語によって編成されている。文字の連続が編み出すリアリティほど残酷で、定められた意味よりも溢れるほどの意を持っているものはないような気がする。
遥か遠くで青色の煙が巻き上がり、目の前の窓ガラスに小さなヒビが入った。さらに破裂するようにヒビが広がっていき、やがて音もなく窓に穴が空いた。途端に強風が車内に吹き込んでくる。ガラスの破片が散る。床は砕けたガラスだらけになり、血の流れない戦場のように見えた。誰も気が付かない密かな戦場。わかりやすいものが救いに思えてくる。
穴から蝋燭を溶かしたような何か白いものが入り込んできた。どんどん車両を侵食していく。
倫太郎は特に迷いもせずにその白い何かの方へ歩いて行った。電車は相変わらず凄まじいスピードで進んでいく。床に落ちているガラスの砕けた粉が、冷たい乾いた風で巻き上がった。視界が塞がれるどころか、風景はすでに存在しなくなっている。頬に窓の外からの火の粉がかすった。鞭を打つような音がして、一縷のあざができる。
あと一歩で白いものに飲み込まれるという時、ふっと目を見開いた。なぜ無意識に大勢の餌食になろうとしていたのかはわからない。その自分の行動に今、違和感を感じることができた。
左腕に白いものが巻き付く。そのまま体ごと中に引き込まれる。倫太郎はまだ飲まれていない右手で吊り革を掴んだ。吊り革がぎりぎりと音を立てる。
白いものが、吊り革ごと腕をも飲み込んだ。残念、だとは思わなかった。今まではきっと吊り革をつかもうとも思わなかったはずだ。それよりはましかもしれない。
昔読んだ海外の児童文学作品。そこでは主人公の女の子が深い穴を落ちてゆく。今ある世界は全てそれまでの記憶の織成す頂上に立っているのかもしれない。
あおい光が反射するショウウィンドウの中を走る。街路樹の周りで造花が咲き誇り、科学物質の香水が道路中を埋め尽くしている。
古いものがない。汚れるべき要素もない。それは枯れず朽ちず半永久的に存在するものだ。いつか失われるものこそに価値があると感じるのはこのせいかもしれない。枯れもしない花に価値を見出すことができない。
道路にはいく台もの自動車が止まっていた。十字路にずらりと並ぶつまらない信号は全て赤色。車には何も乗っていない。人さえもいない。死体の一つでもあれば良いのに。自動車の間をぬって走る。
小学校の時に読んだ画集を思い出した。彗星が光る様。廃墟の街の中をさまよう少年。そしてその背後に世界はない。境界線も朽ち果てた。止まることはできない。赤信号で止まった瞬間に、倫太郎の体は歪みに歪んで、その輪郭を失うだろう。
一本道を抜け出し、広い十字路に出た。4方向全ての道路が赤信号になり、多くの自動車が停車している。
十字路の真ん中、全ての横断歩道が交差するその真ん中に、銀色のバレッタが落ちていた。みたことがあるような、ないような、そんなものだ。それをそのままおいておくとないかよくないことが起こるような気がして、そこを通り過ぎた者の義務感から倫太郎はバレッタを拾った。そして、カバンの中のオーナメントボールの横にしまった。
十字路を過ぎてまた少し走った頃、目の前に歩道橋の大きな階段が現れた。おかしな配置だ。歩道橋の幅の広い階段のせいで、後ろの車が道路を通れなくなっている。それは故意に行なわれたことなのかもしれない。
「根本さん」
歩道橋の一番上の段の手すりにもたれているのは根本さんだった。彼女の黒い髪が演技みたいな廃墟の真ん中で舞っている。いつの間にか風が強くなっていた。追い風に押されるようにして、倫太郎は階段を駆け上がった。
歩道橋の向こう側には何も見えなかった。ただ、白い霧が広がっている。その奥の何か、きっとないはずのものを見つめながら、根本さんは立っていた。風で短い髪がかき乱されている。口元のほくろが、笑ったせいでふっと歪んだ。
「倫太郎くんじゃん」
歩道橋には誰もいなかった。数枚の段ボールや錆びた自転車が手すりに寄りかかっていて、傘も数本ぶら下がっていた。誰かがわざとその場所に置いているような、微妙な違和感がある。その配置もしっかり計算されているみたいだった。これらはどんなに煤汚れて破れていても、その実態は結局香水を撒き散らす造花となんら変わらないのだ。
根本さんは背が高い。倫太郎とのセンチの差で、見えている世界が180度変わっている気がする。その自分とは真反対の世界を見たいとはあまり思わない。
歩道橋を少し歩いた先にあるのは小学校だった。
白い校舎、黒いくすみ、そしてPATが用意した謎の横断幕、淡白な風景が視界を占領する。何一つも飛び抜けていない。大きくはみ出ることは、それが上であれ下であれよからぬことなのだ。
歩道橋の階段は、小学校の2階の教室の窓に続いていた。
黒いスニーカーが坦々と進む。一定のリズムで面白みもなく、ただその場所へ向かうことだけを遂行している歩き方だ。階段の残り段数はみる間に減っていき、どんどん教室が近づいてきた。
根本さんが倫太郎の先を進む。足取りに不安は微塵もないのに、少しでも間違った場所を踏めば、足場が砕けて真っ逆さまに落ちていくような気がした。それが怖く思えないのが不思議だった。
階段の最後の段に根本さんがしゃがみ込む。倫太郎はその横にしゃがんだ。結露した窓の向こうに見えるのは、黒いピアノだった。おそらく音楽室だと思われる。二人の正面には、作曲家の写真や絵が貼られていた。全員があまりに暇そうな顔をしている。
なんの抵抗もなく窓は開いた。根本さんが膝立ちの体制のままで窓を全開にする。黄緑色のカーテンをめくった先は、小学校の一般的な音楽室だった。
「喋らないでね。音楽が聞こえなくなる」
根本さんが倫太郎にささやいた。小さく頷く。自分がなるべく動かずに、定位置を決めて大人しく収まることが義務に感じられた。
誰かが、ピアノの前に座るのがわかった。でもその人の姿ははっきりとは見えない。いくつもの邪魔な線が入り、モザイクがかかったような風にしか、倫太郎には見えなかった。
白い鍵盤が静に叩かれる音がする。モザイクのかかった誰かがピアノを奏で始めたのだ。
聞いたことがある曲ではなかった。倫太郎はあまり音楽に詳しくない。しかしこれが一つのまとまった曲なのかどうかも怪しいと思った。果たしてどうなのだろうか。全体としての音楽に関わらず、その一つ一つの音は芽吹いていた。そしてその旋律には終わりがなく、区切りというものも存在しないように思えた。そして何より、これが再度弾けるような形に残されているとは思えなかった。
「これはなんの曲?」
根本さんはカーテンを押さえたままの格好で、そのピアノの前の誰かを見つめていた。
「彼女の音楽。」
清水が渦を巻くような勢いを出す。彼女の指運びはとてもスマートだ。無駄がない。でも焦っているわけでもない。然るべき時に然るべき場所に在ることが義務ではない世界だからこそ、それが可能なのかもしれない。指先が動くたびに、何かが崩されていく気がした。
指が次から次へと動いていく。もうそれは彼女ではないのかもしれない。「彼女」という、無意識下の自分をかろうじて取りまとめる存在はピアノにのり移った。全てをピアノが持っている。鍵盤は彼女の踊る場所であり、それはすなわち心臓なのだ。
軽やかなリズムが過激なテンポに変わった。脳裏に釘を打ち込まれているような衝撃、そしてそれを後付けるような痛み。しかしそれは苦痛ではない。一定のリズムでありながらも束縛のない流れは、完全に空間を動かしていた。
「そろそろ止めるべきだ」
根本さんが口を開いた。それはスーパーマーケットであるところのBGMのように聞こえた。あくまでも彼女の音楽が中心であり、それ以外の音は肩身の狭い付属品でしかない。
「なんで?」
知りすぎることはよくないことだ、と根本さんは口を動かした。何も知らないままくたばった方が良い。幸せな眠りにつける。
根本さんのほくろが歪んだ。何が原因でもなく一人で笑ったのだ。何かがあっても笑えないから何もない時に一人で笑っている。根本さんは多分そういう人だ。
ぱりん、と音がした。相変わらず静に響き渡るメロディは、いつの間にか緩やかなものへと変化していた。しかしそれはある意味先ほどよりも残酷な響きであった。ありもしない親切心を偽造して振りまいている。そしてそれを使って侵食していく。
真実を突き出すことが良いことではない。普段は偽りをできるだけ本当に正しいものに見えるように皆で努力しているのだ。
何もかもの重心を担っている場所を狙って突き落とす。信じがたいほど、巧妙なテクニックが用いられる。でも、その最も中心にいる彼女の、その本心は素直極まりないものであり、笑顔で直視できないものではなかった。
許されなかったことが可能になっていく。この世界で彼女の音楽こそは最強だ。無駄な歪みも、数だけが多い制圧も、何もかもが無力になっていく。清らかな風でそれらは既に形を壊しつつある。あとは、その美しく正しい無謀な音が、最後の歯車を回すだけだった。水車に音を立てずに水が注がれ、誰も手をつけなかった錆びついた水車は音を立てて動き出す。
初めに音を立てたのは、倫太郎が歩いてきた街だった。鼓膜を裂くような爆音と共に、彼女が奏でるスパイスのような音色が耳に入った。それは全ての始まりを皮肉っているような音にも聞こえる。音を追いかけるように埃を巻き起こしながら強風が襲い、目に細かなごみが入り込む。呼吸が静かにできない。倫太郎と根元さんはコートやカバンで口元を塞ぎ、立ち上がった。
学校の校庭が溶け始めた。温まった鉄板に寝かされたチョコレートのくずのように、時を待たないまま溶けていく。樹木は失せ、百葉箱は消えた。それだけ、なめらかな崩壊だった。特に違和感はなかった。造花もうまく散った。終わりのないはずのものが消え失せるというのは時に快楽にさえなり得る。
校庭の完全な消滅を待たずに、校舎自体も崩れ始めた。幸いなことに音楽室は東端の教室だ。このままいけば、最後に崩れ落ちることになる。
ピアノの前の彼女は何も変わらずに鍵盤の上で踊っていた。既に主導権は彼女が握っている。それは競争によって手に入れられたものではなく、必然的にそこにあるもので、彼女以外に求めるものは存在しなかった。彼らは油断しすぎたのだ。沈黙の了解を理解していながら破れる人間がいることを知らなかった。
西端の教室は当に瓦礫になり、まもなく中心の時計も無くなろうとしていた。文字盤に一筋の、わずかで確かなひびが入る。秒針が動きを止める。彼女の音楽は勢いと生気を増した。
根本さんは倫太郎の手を掴んで立ち上がった。
「ちゃんとやってくれた」
「え?」
「でも彼女は知っていた。確信犯でありながら、自分が確信犯であることに気がついていないだけ」
根本さんのいうことは、倫太郎にはよくわからない。
時計が落下し、砕けた。そしてそれに続くようにPTAの横断幕が破れる。繊維が宙に舞い、鍵盤の踊りがそれを妨げるように制圧した。何かが小さな命を持つたびに、1秒たりとも待たずに切り刻んでいくのが常となっていた。
時計の下の棟が崩れた瞬間、歩道橋が上下に弾んだ。勢いで柱が一本砕けたのだ。根本さんは倫太郎を引きずるようにして走り始めた。
「彼女はどうなるんだ?」
倫太郎は目を殺して言った。なにも物語らないままに、その目は素直に根本さんの顔を写した。明らかに根本さんは動揺した。彼女の動揺ほど珍しいものはなかった。だからその揺らぎもすぐに消え失せて、いつもの少し冷淡な様子に戻った。
「どうにもならない。もう巻き戻せない再生をしてしまったし、彼女にも巻き戻す気はないんだ。そのまま、行くところまで行く。あたしはいくところまで行かせる。」
美しい瓦礫になるのだろうと倫太郎は思った。
目の前の道が消えた。根本さんの足元からすっぱり、なくなっている。赤信号の町は完全に消え失せた。
二人の間を砂埃が舞う。
爆風と爆音の中、妙に冷めたような彼女の音楽は変わらず確かに響き続けていた。それは途切れることなく淡々と進んでいた。物語の進行は終わっていないのと同じように、世界の崩壊は終着点を迎えていない。根本さんがいうように、行くところまで行く、のだ。
根本さんの黒いスニーカーは迷わずに動き始めた。行先は一つしかない。音楽室だ。ことの始まりが音楽室なのだから、最後に崩壊するのは音楽室だ。東端の教室であるという特徴を除いて考えても、それは確定した事実である。
空気はありえないほどによどみ、確かな風景など存在しなかった。どんな幻覚を見せられようと特に不思議ではなかったし、実際、道は全て幻覚に見えて仕方がなかった。ただ、根元さんが進む点を一寸も外さないように、黙って進むという選択肢しか選べなかった。
音楽室の中の空気は澄んでいた。彼女の音楽は全ての雑なものを吸収して大きくなり、以下でも以上でもないボリュームの音色を安定させている。
根本さんは倫太郎の鞄を乱暴に引っ張り、赤いオーナメントボールを取り出した。そして、窓の外から音楽室の中に飛び込んだ。倫太郎も引かれるように中に入った。
全てが禍々しい絵に見えた。どれだけ恐ろしいことをやり遂げようとしているのか、ピアノの前の彼女は理解していなかった。
根本さんがオーナメントボールをピアノに投げた。音楽は途切れない。でも、音楽を奏でる彼女は根本さんと倫太郎の顔を見た。それと同時にピアノにわずかな火がついた。オーナメントボールはそれだけのために生まれて盗られてここまできたのだというように、小さく確かに燃えた。




