第5話『エルフの里』
結界を越えた後。
森の小道を歩く蒼真とグラントの背後から、軽やかな足音が追ってくる。
「……よく、あの幻影を越えたわね」
振り返ると、アルシェが静かに立っていた。
その表情は相変わらず鋭く、警戒心を解かないものの、どこか先ほどまでとは違う。
「普通の人間なら、自分の幻影に絡め取られて動けなくなるのが常よ。……なのに、あなたたちは違った」
蒼真は苦笑しながら、額の汗を拭った。
「まあ……怖かったけどな。でも俺、絶対に帰らなきゃいけない場所があるから」
アルシェは少し驚いたように瞳を揺らし、しかしすぐに視線をそらした。
「……帰りたい、か。羨ましい言葉ね」
その声音には、かすかな痛みが滲んでいた。
蒼真が問い返そうとした瞬間、横でグラントが軽く咳払いをした。
「アルシェ。君の結界が映した幻影は――つまり君自身の魔力が干渉しているんだろう?
人を試すというより、自らの傷を他人に投影しているように見えた」
その言葉に、アルシェの肩がわずかに震える。
だがすぐに睨みつけるように返した。
「……余計な詮索をしないことね、学者殿」
それでも、その拒絶は氷の壁ではなく、砕けやすい硝子のように脆さを帯びていた。
⸻
夜。
森を抜ける前に一行は焚火を囲んだ。
蒼真はアルシェに素朴な疑問を投げかける。
「なあ、アルシェ。エルフって、どうしてそんなに人間を嫌うんだ?」
一瞬の沈黙。
炎に照らされるアルシェの横顔は、どこか遠い過去を見ているようだった。
「……昔、人間と契約を交わしたことがあったの。私たちの力を分け与えれば、共に未来を築けると信じて。でも結果は――裏切りと炎。
森は焼かれ、多くの同胞が死んだ」
蒼真は言葉を失った。
彼女の声音は冷たく抑えていたが、その奥には未だ癒えぬ傷が渦巻いていた。
「だから……人間なんて、もう信じられない」
彼女はそう言いながらも、蒼真の方を見て――ほんの一瞬だけ、視線を伏せる。
「……でも、あなたは違うのかもしれない」
その一言に、蒼真の胸に熱が灯った。
⸻
翌朝。
森を抜けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
蒼真たちの前に広がる光景は、言葉を失うほど幻想的だった。
巨木が天へと幾重にもそびえ、その幹に沿うように滑らかな螺旋の道や階段が編み込まれている。枝と枝の間には透明な橋が張られ、木漏れ日の中で光がきらめき、虹色の光輪を描いていた。
葉の裏に溜まった朝露が光を反射して輝き、まるで空全体に星が散りばめられているようだ。
「……すごい……」
思わず呟いた蒼真の声が、風に溶ける。
空中の回廊を小さな光の粒――精霊たちが飛び交い、エルフの子供たちが笑いながらその後を追っている。
鳥たちは恐れることなく人の肩に舞い降り、枝の上から歌うように囀る。
「ここが……エルフの里」
グラントでさえ息を呑むほどの美しさだった。
ーーだが、一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
木の間から現れた数人のエルフの戦士たちが、弓を引き絞り、鋭い視線を向けた。
その中心に、威厳を漂わせる長老格の男が立つ。銀色の髪を背まで伸ばし、透き通るような碧眼が蒼真を射抜いた。
「……アルシェ。なぜ人間を、この里へ連れてきた」
静かに響く声に、空気が張り詰める。
周囲のエルフたちの視線は氷の刃のようで、敵意と恐怖が入り混じっていた。
アルシェは一歩前に出て、きっぱりと答える。
「彼らは……ただの人間じゃない。結界を越え、幻影を打ち破った。少なくとも、私が保証するに足る存在よ」
だが長老は厳しい眼差しを緩めない。
「……我らが過去を忘れたわけではあるまい。人間に心を許すことが、どれほどの災いを招くか」
蒼真は思わず口を開いた。
「俺は……ただ帰りたいだけなんです。勇者も魔王も戦争も支配も興味がない。この世界に来たのは、俺の望んだことじゃない。でも、助けてくれるのなら、必ず感謝を忘れません」
その言葉は真摯だった。だが同時に、里の空気はさらにざわめく。
「綺麗事だ!」
「また裏切られるだけだ!」
「アルシェ、なぜこの者をかばう!」
声が重なり、アルシェの背中にも突き刺さる。
彼女は強い瞳で長老を見返した。
「……私だって迷ってる。人間を信じていいのか、また同じ悲劇が繰り返されるのか。でも……」
視線を蒼真へと向ける。
焚火の夜に交わした言葉。幻影の中で垣間見た彼の「信じる心」
そのすべてが彼女の胸の奥で響いていた。
「……でも、私はこの人を見ていた。ただの利己心じゃない。彼の中には……信じる強さがある」
長老は黙したまま、深く目を閉じる。
そして重々しく言葉を紡いだ。
「ならば、アルシェ。お前の責任で人間を導け。我らは認めはせぬが、拒絶もせぬ。
この里に滞在することは許そう――だが、もし災いがあれば……」
「その時は、私が責任を取ります」
アルシェの声音は揺らぎなく響いた。
⸻
夜。
木の家に案内され、窓辺から里を見下ろす蒼真のもとへ、アルシェがやってくる。
「……正直に言うと、まだ不安よ」
「だろうな」蒼真は笑った。
「でも、俺は裏切らない。絶対に」
一瞬の沈黙。
そしてアルシェは、微かに笑みを浮かべる。
それは氷のように固かった心に、初めて走った小さなひびのようだった。




